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ペルリ提督、函館に上陸す!その2

 

 *管理人より

 今回の記事では、日時・日付が重要になりますが、参考にさせていただいた資料・サイトなどの日付が西暦なのか、旧暦なのか明確ではなく、記事作成の際に整合性を調べたうえで、全て西暦・現代の暦に合わせて書いたつもりです。

 しかし、もしかしたら間違いもあるかもしれません。ご注意とご容赦いただければ幸いに思います。

 

 

 

 日本最初の「開国の地」となった箱館とは、どのような土地であったのか?

 

 箱館は天然の良港で、江差松前と並んで「蝦夷三湊」と呼ばれていたそうです。

 

 地図を見てもらいたいのですが、函館はなんとも理想的な湾の形になっています。本州を向いていながら、内陸に入り込んでいて、函館山が外海と湾内を仕切る形になっている。

 

 箱館を統治していた松前藩ですが、当時の蝦夷地は寒すぎて稲作に不向きであったため、その収入源はアイヌとの貿易がメイン。徳川家康より、交易の許可を与える旨の黒書を賜っていました。

 

 天然の良港である箱館も、交易所として利用されていました。

 

 しかし、18世紀後半より、情勢が変わり始めます。

 

 前回の記事で述べたように、クロテンなどの毛皮を求めて東に領土を拡大し続けてきたロシアが、ついに蝦夷に到達したのです。

 

 当時のシベリアや北米には、多くの人間にとって価値のある動物たちが生息していました。

 

 ロシアが追い求めたクロテンの他、キツネやミンク等も良質の毛皮として、欧州で非常に高値で取引されました。毛皮を求めるウチにロシアの欧州側から極東のオホーツク海に到達してしまったくらいだから、その価値の高さも想像できるかと思います。

 

 中国の東北地方を地盤としていた満州族が、明を滅ぼして1644年に清王朝を打ち立てますが、その満州族もクロテンの取引で得た巨額な収入をもとに国力を高め、王朝交代の原動力となったのでした。

 

 また、ロシアが毛皮を追ってはるばるやってきた最終地点・オホーツク海ですが、ロシア人はそのオホーツク海がアザラシやラッコの生息地であることを知ります。

 

 アザラシやラッコの毛皮は最高級品に位置づけられるほど、高額なもの。

 

 随分前にアイヌに関する市民講座を聴講する機会があったのですが、現代でもアザラシかラッコが数千万円で取引されていた、と聞いたような。

 北米のイヌイットは、1~2匹くらいとれば、一年間、十分に生活できるくらいになるそうです。

 

 ロシアがラッコやアザラシの生息地で乱獲を始めたのと同時期に、北米でも同じようなことが始まっていました。

 

 北米にはビーバーが生息しており、このビーバーの毛皮も非常に高値で取引されていたのです。

 イギリス、フランスなどの欧州列強諸国は、こぞって北米で植民地活動を活発化させます。時には列強諸国間で争いが起きるほど。

 

 そう、実はシベリアや北米は、列強諸国にとって非常に価値のある場所だったのです。

 

 そしてオホーツク海と北海道は、地理的な位置が欧州から最も離れていたため存在が知られるのも遅かった。

 

 ロシアや列強諸国は、クロテンもビーバーも頭数が少なくなった段階で、オホーツク海に到達したのです。毛皮を求めていた列強の商人たちにとって、アザラシやラッコが豊富に存在していた極東地域は天国に見えたことでしょう。

 

 そんな天国に住んでいた古代オホーツク人やアイヌですが、彼らも実はかなり裕福な生活をしていました。

 

 当時の北海道、蝦夷地は「価値のある」天然資源の宝庫。

 

 これまで話してきたアザラシやラッコの他、サケやマスなどが蝦夷の川に毎年のように大量に遡上し、またオジロワシの羽などは、平安時代くらいからすでに貴重品として珍重されていました。

 

 平安末期から鎌倉時代初期に東北で繁栄した奥州藤原氏は、自領で採れる黄金を収入源に勢力を築いたと言われていますが、実はアイヌとの莫大な交易が収入源だった、と言われています。

 

 領地を持たない松前藩は貧乏と思われがちですが、アイヌとの交易によって、実は非常に裕福だったのです。

 

 アイヌアムール川河口付近で、明王朝清王朝と交易をおこなっていました。

 これを山丹交易と言います。

 松前藩アイヌに、この山丹交易をおこなわせることで、中国王朝からの貴重な品を手に入れます。

 蝦夷錦などの鮮やかな明王朝時代の服などが代表的。

 

 江戸時代の厚岸のアイヌを描いた絵を見てみると、なんと開国前から欧州式のズボンをはいているではないか!そう、すでにこのころから、アイヌは欧州と交易をしていたのでした。

 

 戦前に、樺太アイヌの服飾品を調査したところ、首飾りに使用されているガラス玉はチェコベネチア製だったそうです。アイヌは広範囲に交易していたことがわかります。

 

 鎖国下の幕府の外交ルートは、長崎の平戸のみ、と思われがちですが、蝦夷地を通じても、日本は外国と交易していたのでした。

 

 

 そんな「交易の地」であった北海道ですが、1700年代後半からロシア船が頻繁に訪れるようになります。

 

 これを受け、1799年、幕府は国防の理由から松前藩が納めていた東蝦夷地を直轄地とし、1802年に箱館蝦夷奉行を設置します。

 

 しかし幕府は財政難を理由に、1832年に蝦夷奉行所を廃止してしまい、再び松前藩領となります。

 

 しかししかし、その後もオホーツク海蝦夷の価値を見出した列強諸国は、蝦夷に強い関心を持ち続け、椴法華や現在の北斗市の沖合でも、外国船が頻繁にみられるようになりました。

 

 そして1854年5月11日、箱館湾に、突如「黒船」が姿を現します。

 

 

 

 北海道にとっての「黒船来航」。

 

 この北の黒船来航以後、北海道は本州以上に速く歴史が進んでいくことになります。

 

 

 

 長くなったので続く。