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頼朝と政子の遺産 その5

 

 ついに始まった、朝廷と鎌倉幕府(この時点では幕府ではない。)の戦い。

 

  鎌倉の武士たちは、自分たちが「朝敵」とされたことで動揺していました。

 

 もはや坂東武士のカリスマであった源氏はおらず、頼朝譜代の有力豪族たちも北条氏によって淘汰されてしまった。

 

 「将軍」不在の鎌倉政権は、この時、支柱となる存在がないため求心力を失い、空中分解寸前の状態になっていました。

 

 朝廷に寝返ることで「朝敵」の汚名を振り払おうとするものもいました。

 

 もはや風前の灯となった、鎌倉「幕府」。

 

 

 しかし、この時、強烈なリーダーシップを発揮した人がいました。

 

 頼朝の妻、北条政子です。

 

 

 この絶体絶命の危機において政子は、たじろぐどころかむしろ厳然とした姿勢を見せます。。

 

 動揺する御家人たちを前に、頼朝の恩を説き、またそれでも朝廷方につきたいものはここを去っても構わない、と、涙ながらも険しい声で毅然と訴えました。

 

 政子の激しく、そして情を揺さぶる演説を聞き、御家人たちは我に返り、むしろ発奮。

 北条義時の下に硬く団結し、すぐさま上皇討伐の部隊が編成され、京に派遣されました。

 

 朝廷方では、将軍不在の鎌倉では、北条打倒の院宣を出しさえすれば、後は勝手に鎌倉内部で内紛がおこり北条氏は滅ぶだろう、と予測していたために、鎌倉が返って結束した事態に大いに驚き、急ぎ部隊を送るものの、もともと朝廷方には戦闘に長けた指揮官が不在であった上に、鎌倉方に兵士数でも圧倒され、朝廷方は大敗。

 京の都になだれ込んだ鎌倉軍により、後鳥羽上皇以下は捕縛されてしまいます。

 

 戦後、後鳥羽上皇順徳上皇隠岐ノ島などに配流され、後鳥羽上皇の所有していた荘園も幕府に没収され、幕府の意向に従う天皇が即位、六波羅探題が設置されて朝廷は常に鎌倉政権の監視下におかれることになりました。

 

 お話を整理してみましょう。

 

 承久の乱前、頼朝が征夷大将軍に任命され、鎌倉の勢力に大義名分を与えられたものの、以前書いたように「将軍」の大権の及ぶ範囲はあくまでも「戦闘地域」に限られており、鎌倉幕府となっても必ずしも全国支配が許されたわけではなく、当時の日本は、東日本を鎌倉幕府が、西日本を朝廷が支配する形となっていました。

 しかし、承久の乱後、六波羅探題により西日本の武士団も(朝廷を介して間接的に)鎌倉幕府支配下にはいることになり、そのうえ、天皇の後継などに幕府の意向が強要されることとなりました。

 天皇に任命される将軍が、天皇および皇室の実権を握るという、革命ともいえる事態となりました。

 

 そしてこれ以降、日本史において、権威の源泉としての朝廷と、権力の実行機関としての幕府が並び立つ関係が始まります。

 つまり、政治などの実権を幕府という外部の存在に委ね、天皇は将軍やそのほかの官職などを任命し、様々な宗教的神事を執り行う「権威」としてのみの存在となりました。

 

 これは現代にも当てはまります。内閣総理大臣は、形式的には天皇から任命される形ですが、皇室が政治的な発言をすることには強い制約が課せられます。意外なことに、天皇大権の認められていた大日本帝国憲法の発布後でも、天皇が意見することは慣習的に制限されていました。

 つまり、江戸幕府の滅亡により始まった法治国家日本でも、その根底には承久の乱以降に確定した「権威」と「権力」の分離の構造が反映されていた、と言えるかもしれません。今に至る制度の根本は、承久の乱にて確定された、と管理人は推測しています。

 

 これには大きな意味があります。

 世界の他の地域、中国やヨーロッパの王朝においてはこのような図式にはならず、王や皇帝もろとも滅ぼされたため、「権威」のみの存在が残ることはなく、結果、様々な国が生まれては滅んでいくことになります。

 

 しかし、日本においては権威と権力の分離により、滅ぶのは天皇を中心とした朝廷ではなくあくまでも幕府であり、政治の不満の矛先も、朝廷に向けられるのではなく歴代の幕府に向けられる様になります。

 

 この承久の乱以後、日本史は世界史とは違った展開を見せることとなります。

 「権威と権力の分離」を成し遂げた日本は、世界中の国々の歴史の中でも、特異な方向に進み始めます。

 そうした意味において、承久の乱は日本史上でも非常に意義のある出来事といえます。

 

 

 話を戻します。

 

 

 承久の乱に勝利したのもつかの間、戦後処理を巡って鎌倉政権内部でゴタゴタがあり、なんと執権の北条義時が急死、またまた鎌倉は動揺します。

 

 しかし、今や老練な政治術を備え、圧倒的な存在感を持っていた北条政子が毅然とした態度を示し、反抗的な御家人を罰し、関係者を配流するなどしたため、騒ぎは小規模で収まりました。

 

 そして翌年、ついに藤原頼経征夷大将軍に就任。

 

 鎌倉政権は晴れて「幕府」としての朝廷公認を回復します。そして以前にもまして、全国的な権力を得ることもできました。

 

 源実朝の死から藤原頼経の将軍就任まで、5年の月日が流れていました。この5年間、将軍不在の鎌倉政権は何の存在根拠もない、ただの地方勢力に過ぎませんでした。いつ空中分解してもおかしくはない状況。まさに存亡の危機に立たされた5年間でした。

 

 この5年の間、北条政子藤原氏から将軍の後継者を迎えるための交渉を行い、承久の乱にて支柱となり、戦後処理でも見事に裁く、など、大きな力を発揮。その存在感の大きさを全国に知らしめました。

 

 まさに「尼将軍」と呼ばれるのにふさわしい功績。

 

 もし、北条政子が存在しなければ、鎌倉幕府は様々な内部闘争のために早期に瓦解していたかもしれないし、朝廷から後継将軍を迎えることができずに求心力を失っていたかもしれません。

 そして、彼女がいなければ、承久の乱の際に御家人たちは結束しなかったかもしれません。

 彼女のおかげで、後の日本史に権力の実行機関としての「幕府」という前例ができて足利尊氏徳川家康がそれに倣い、結果として権力から離されることで天皇が存続することが可能になった、と言えます。

 

 さらに言えばそれは現代において、「皇室」と「政府」という形で存続しているのです。

 

 そう、我々が今、生活している現代も、1000年前に源頼朝北条政子が心血を注いで作り上げたもの、ともいえるのです。

 

 その点で、幕府を創始した源頼朝、夫・頼朝が作った「幕府」を定着させた北条政子は、前例のない政治システムを作り上げたという点で、後の日本史に残した影響は、計り知れないものがあるといえます。

 

 まさに日本史の方向を大きく変えた、と言えます。

 

 日本史における、第1級の人物を上げろ、と言われたら、管理人は迷わず源頼朝北条政子を挙げます。

 

 

 

 

 北条政子は、執権に名君と名高い北条泰時が就任し、幕府が安定したのをみると、やっと安心できたのか、病の床についてしまいます。

 

 そして嘉禄元年(1225年)、亡くなりました。享年69歳。

 

 夫である頼朝とともにあって幕府の確立に尽力し、頼朝亡き後は二人で作った幕府を存続させるために奔走した人生でした。

 

 苛烈な性格のようにも見えますが、静御前に見せた優しさなどのように、女性に対しては(頼朝の浮気相手以外には)とても温かく接し、御家人たちもそのような彼女の温和な一面を慕っていました。

 

 

 

 北条政子が眠っているお墓は、周囲のお墓と大きな差のない、失礼な言い方ながら「何の変哲もない」お墓でした。前方後円墳でもなければピラミッドでもない、中国の皇帝陵でもない、非常にフツーのお墓。でも、日本史を世界史に比べて特異な方向へ導いた、世界史でも重要な人物だと思います。

 

 彼女のお墓の場所を書こうと思ったのですが、ごくごく普通の墓所であること、周囲があまりにも静かな環境であることから、とても観光地とは言えないため、この場では記しませんでした。

もし、訪れる機会があったとしても、そこはあくまでも他の方も眠る墓所であり、何よりも北条政子が静かに眠る場所です。

 

 訪れる際はぜひ、その点に留意をお願いいたします。

 

 

 

 

 ・・・・・以上が6年前に語った、源頼朝北条政子の物語の全て。

 

 「なぜ、日本はこれまでに滅んだことがないのか?」

 

 この解答は、日本史の全ての時代にちりばめられています。

 

 日本史におけるすべての事象が折り重なって、今があります。

 

 もっと、自分の国の歴史を誇りに思っていいのではないか、と思った今日この頃。

 

頼朝と政子の遺産 その4

前回からの続き

 

 

 将軍不在による、「幕府」の存在根拠の消滅。

 

 鎌倉は未曽有の危機に陥りました。

 

 今、他の誰かが将軍に任じられ、鎌倉討伐を宣言すれば、鎌倉の勢力は朝敵になってしまいます。そして、もはや名分のない勢力では御家人たちへの求心力も弱まり、いつ空中分解してもおかしくない状態。

 北条政子は、夫、頼朝と建設した幕府体制を守ることを決意、まずは新たな将軍を擁立することを企図します。

 でも、源氏の家宰という家柄では北条氏自ら将軍に就任することはできません。北条氏はあくまでも「将軍家の家宰を仕切ること」でしか幕府を支配することができない宿命にありました。

 

 とはいえ御家人から将軍を選ぶと幕府内(この段階では幕府ではない)での力のバランスが崩れかねず、さらに北条氏の優位性を奪われてしまうかもしれない。

 

 政子は、北条氏が主導する形での幕府存続を行う必要がありました。

 

 そこで政子は、皇族から将軍になるべく人物を迎えることを画策します。

 皇族から将軍を迎えれば、他の御家人たちからの反発も抑えることができます。

 そして、朝廷の藤原兼子(卿二位)に相談、藤原兼子も自分の養子が生んだ後鳥羽上皇の皇子である頼仁親王を、せめて将軍にすることを願っていました。こうして幕府と朝廷という二つの組織の交渉が、二人の女性によって始まりました。

 

 この女性二人のやり取りは、幕府と朝廷の今後の関係が懸かったとても高度な政治性を帯びたものであったにも関わらず、実に温和で女性ならではの和やかな形で進んだと伝えられています。

 

 後世では「気が強い」と言われることの多い北条政子ですが、同時代の女性に対しては穏やかに接していたようです。

 

 二人の女性の間の信頼関係は強まったものの、残念ながら、皇族から将軍を迎えることはできませんでした。

 朝廷としては、皇族を鎌倉に派遣してしまうと、新たな朝廷を設立して別の天皇を擁立される恐れがあります。朝廷は、皇族を派遣することを拒否しました。

 結局、頼仁親王を迎えることはできなかったものの、準皇族として認識されている藤原氏から藤原頼経を迎えることに成功。

 
 日本史上でも稀な「穏やかな会談」は、一定の成果を上げることができました。

 

 

 これで一安心かと思ったのもつかの間、政子と義時にとって、そして鎌倉幕府にとって、最大の事件が発生します。

 

 

 承久3年(1221年)5月14日、京の都にて後鳥羽上皇が、鎌倉打倒を叫んで挙兵。

 時の執権、北条義時を打倒する旨の院宣が発せられ、鎌倉は正式に「朝敵」とされてしまいます。

 

 まさに北条政子が怖れていた事態となってしまいました。世にいう「承久の乱」です。

 

 この事態に対し、北条政子はどうするのか?

 

 ついに、その後の日本史の行方を大きく変えた、重大な戦いが始まります。

 

 続く

 

 

 

 

頼朝と政子の遺産 その3

さて、いよいよ鎌倉幕府がスタートしました。

 しかし、当初の幕府の体制は安定しません。将軍への就任により名分は得たものの、実態は有力武力集団の寄せ集め。強大な江戸幕府の存在を知っている現代のわれわれにとって「幕府」という言葉は威厳を持っていますが、当時はまだ前例の無い組織。

 頼朝には「幕府」に現実的な権威を持たせる作業が残っていました。

 
 しかし、頼みの頼朝は、早期に亡くなってしまいます。

 

 そして、彼の息子、源頼家が将軍に就任するものの、頼朝と言う屈指のカリスマを失くした幕府内部では対立が激化。
 

 頼家は幕府の実権を握るべく、彼に親しい人物を要職につけようとするものの、幕府成立から関わる譜代の豪族はそれを快く思わず、若い頼家を軽んじており、それが幕府に不協和音をもたらしていました。

 ついには北条氏を中心とした有力御家人による合議制が確立、源氏から政治の実権が離れ始めます。

 その後、北条氏の台頭を快く思わない御家人の反乱が相次ぎますが、北条時政、義時、そして政子らがそれらを治め、幕府内での北条氏の地位を確立していきます。

 (ちなみに「鎌倉殿の13人」の初回に出てきた人物の大半と、後に対立することになります。)

 

 これらの反乱は、北条氏、特に北条義時が危険視する勢力を挑発して挙兵させた面があり、こうした北条氏、それも執権を代々継承する得宗家による「仕掛けられた反乱劇」、そしてそれを治めて基盤を盤石にする、という図式は、鎌倉時代を通して起こりました。

 

 ここで、「北条氏がなぜ、実権を握ることができたのか?」という問いに応えなければなりません。

 

 北条時政は、娘の政子を頼朝に嫁がせて以来、事実上、源氏の家宰(執事のようなニュアンス)を取り仕切るようになり、源氏の家宰からそれが「将軍家」の家宰に転じ、将軍家を取り仕切ることで幕府をも取り仕切る図式が出来上がります。

 しかし、家宰という立場上、幕府内では源氏の一家臣と認識をされてします。あくまでも「源氏」に忠誠を誓った有力御家人にとっては北条氏が御家人と対等、もしくはそれ以上の存在になることを受け入れられず、これも初期の鎌倉幕府の不安定要素となりました。

 「鎌倉殿の13人」の初回に登場した人物たちも、源頼朝、そして源氏一族に忠誠を誓ったのであって、北条氏の下風についたわけではありません。

 

 そのため、頼家を遠ざけた後もすぐに北条氏が幕府を仕切ったのではなく、あくまでも有力御家人による合議制を取る必要がありました。

 

 北条義時が北条氏の家督を継いだ時、義時と政子の立場は揺れ動いていたのでした。

 

 ちなみにこの図式は鎌倉時代末期にも再び現れます。

 鎌倉時代末期、執権を継承する北条氏の得宗家を取り仕切る「家宰」である御内人と呼ばれる人たちが台頭します。

 つまり、将軍家の家宰として将軍家を牛耳る北条得宗家の家宰を牛耳る御内人、という図式。

 こうして、源氏の家臣であった北条得宗家の、さらにその家臣たちである御内人により、鎌倉幕府の中枢は握られてしまいます。

 このころの鎌倉幕府御家人たちは、将軍にかわり、北条家に忠誠を誓うようになっていましたが、さすがに北条家の家臣である御内人に従うことができずに不満がたまり、ついには源氏の棟梁である足利尊氏や、新田義貞と言った御家人が挙兵し、幕府を滅ぼしてしまいます。

 

 

 話がすごーくそれてしまいましたが、鎌倉幕府の黎明期において、北条義時と政子は相次ぐ内紛に勝利して有力御家人たちを滅ぼしてゆき、幕府実権を握って北条氏の優位を固めます。(なんなら親父である時政さえ追放しちゃいます)

 

 鶴岡八幡宮入口の長い階段の脇にある大木(数年前に落雷で倒れてしまった)には伝説があり、幕府の式典のために姿を現した第三代将軍、源実朝が、この大木の陰に隠れていた源氏の血を引く公暁という人物に暗殺されてしまいます。実際に実朝は暗殺されたのですが、この式典には北条義時など、北条氏の有力人物があらかじめ欠席していました。

 

 こうして幕府内での北条氏の地位を固めたものの、大きな問題も発生しました。源実朝の死により、源氏の血統が途絶えてしまったのです。つまり将軍になる血筋が絶えてしまった。

 

 ここにおいて「将軍」を失った鎌倉幕府は再び大義名分を失い、単なる地方勢力になってしまいました。

 

 そう、この時点で「鎌倉幕府」なる組織は、一度、歴史から消えてしまったのです!!

 

 

 この危機に際し、北条政子はいかなる手腕を発揮するのでしょうか?

頼朝と政子の遺産 その2

お話の続きです。

 

 貴族同士の朝廷内での争いが激化し、政争の域では収まらなくなって武士という武力を用いるにまで至った結果、武士が朝廷内に進出し政治の動向を左右するようになりました。朝廷では主導権を得るために武士の後ろ盾が必要不可欠となっていました。

 平氏と源氏の対立も、貴族同士の抗争を武士が武力によって代理で行った結果、とも言えます。

 平清盛に敗れた源氏はそれぞれ斬首されましたが、まだ幼少だった源頼朝は清盛の情けによって斬首を免れ、伊豆へと流されて清盛の信頼厚い工藤氏の監視下に置かれたのでした。(ここから「鎌倉殿の13人」が始まる)

 

 さて、話を中央政界に戻して、後白河法皇の引き立てにより家格社会にいきなり入り込んだ平清盛平氏一門は、400年の家格社会の伝統の中で生きてきた公家たちの激しい反発を買います。

 

 そして東国では頼朝が挙兵。

 平氏は各地で源氏の軍勢に敗れ、京の都を追われて西国に逃げる事態となり、ついに壇ノ浦にて源氏に滅ぼされます。

 

 

 

 そこで新たなる問題が発生します。平氏無き後の政治の在り方す。

 

 貴族社会の反発を買って平氏は滅んだものの、もはや武士の実力をコントロールできる力と権威は天皇や貴族には残っていませんでした。

 一方で源頼朝も、問題に直面していました。

 今や大きな武力と存在感を持ち、政治のキャスティングボードを握るに至った頼朝ですが、ここで行動を誤れば立場を失いかねません。

 
 もし、平清盛と同じく後白河法皇の後ろ盾の元で、源氏が朝廷に進出したらどうなるか?

 頼朝は、平氏の台頭時に公家たちが見せた、よそ者、下賤の者の貴族社会への侵入に対する強烈なアレルギー反応を目の当たりにし、それが源氏に向けられることを恐れていました。

 平氏は朝廷でのし上がったものの、一方では朝廷に深く入り過ぎたがために、貴族社会に翻弄されてもいたのです。

 

 頼朝は、平氏と同じ失敗を繰り返さないためには、貴族社会とは別に自分の政権を築く必要を感じていました。

 

 ではどうすれば朝廷とは別に、政権を築くことができるのか?

 

 彼が目を付けたのは、「征夷大将軍」でした。

 

 ここで「将軍」について触れておきます。

 将軍とは、軍隊の指揮者であることはお分かりかと思います。しかし通信技術の進んだ現代とは違い、中世以前において、将軍に与えられた権利は軍事指揮権だけにとどまりません。
 戦闘地域における軍事権のほか、外交権、人事権、行政権、徴税権など、さまざまな権力が与えられていました。それは、いつ非常時が発生するか予想のつかない戦場においてはいちいち時間をかけて中央と連絡を取っている時間などなく、現場での判断が優先されたためです。戦闘地域の人心を速やかに治め、新たな戦闘に備え、機を見て停戦交渉やほかの勢力との外交交渉を、即時に行う必要があったのでした。

 

 でも、これらの権利をみて思いませんか?

 

 まるで一つの政府のようだ、と。

 

 その通りで、将軍就任とはまさに、独自の政府を開くことが認められたことに、限りなく等しかったのです。

 

 そのため、洋の東西を問わず、将軍や同じ意味の役職には様々な制約が設けられていました。

 古代ローマ帝国においては、軍事権を持つ執政官は、暴走を抑止するために常に二人置かれ、任期を1年に限り、また、非常時のみに任命される一人だけの独裁官も、任期は半年に制限されていました。
「ブルータス、お前もか!」という言葉を残して殺されたユリウス・カエサルの暗殺理由の一つに、彼が終身独裁官に就任したことで、王政が始まるのではないかと元老院議員が恐れたことがあげられます。

 

 中国でも将軍、あるいは独自の権限を持った「節度使」が存在していました。

 中国の歴代王朝は北方からの騎馬民族の侵略の脅威に常にさらされており、これら騎馬民族と対する北部地方には、緊急時に即応するために大権を与えられた節度使が置かれていました。

 

 しかし、節度使は、政府並みの権力を持つがゆえに独立傾向にあり、中央政府に対し、たびたび反発しました。また、時に騎馬民族と協力して自国の王朝に対して挙兵するなど、多くの問題を抱えていました。唐王朝滅亡の引き金となった「安史の乱」の安禄山も、中国東北地方の指揮官でした。
 このように、中国王朝が興亡を繰り返した理由には騎馬民族があげられ、また、それに対処するために置かざるを得なかった節度使の存在も挙げられます。中国歴代王朝は、常にその滅亡要因を内部に抱えざるを得ない宿命にありました。

 

 将軍職に伴う権限の数々は、戦闘地域に限られるとはいえ、一国の政府並み。

 

 頼朝はこれを、新しい政権構想の枠組みに利用しようと考えました。

 

 しかし、頼朝の思惑を薄々読み取った後白河法皇は、なかなか将軍職を与えず、朝廷官職である近衛大将への就任を要請します。頼朝はこれを強く固辞(後に就任するも、すぐに辞めてしまいます)。

 

 常に天皇の傍に居なければならない朝廷の官職である近衛大将では、公家社会の争いに巻き込まれ、平氏と同じ運命をたどるかもしれません。頼朝はあくまでも朝廷の外において、自己の政権を確立することを決意していました。

 

 そして後白河法皇の死。この機を利用した頼朝は、ついに征夷大将軍に就任。

 地方の武装勢力でしかなかった東国の自分の勢力も、将軍就任により晴れて「朝廷公認」となりました。

 

 そして中央貴族の家格社会の及ばない鎌倉にて、新政権の職制を樹立します。

 しかし頼朝の政略はそれだけにとどまりません。確かに強大な権限が許された「将軍」ですが、その権力の有効な範囲は「戦闘地域」に限るなど、制約がありました。

 そこで頼朝は、将軍就任前には義経追討にかこつけて全国の警察権を得るなど、重要な権利を少しずつ、でも着実に獲得していきます。頼朝の「独立」への動きは、将軍就任の前から始まっていました。

 

 古代ローマ帝国において、アウグストゥス以降を「皇帝」と呼ぶようになりますが、じつはローマ帝国には「皇帝」という職はありません。これは、執政官、軍事指揮権、護民官特権、最高神祇官、「国父」の愛称、など、それまでの共和制ローマにおいて存在していた職をすべて一人の有力者が併せ持った状態で、「皇帝」はあくまでも愛称でした。
 

 ちなみに当時のヨーロッパには「皇帝」にあたる言葉がなく、この「皇帝」の状態が表れて初めて誕生しました。軍事指揮権を表わす「インペラトール」から「エンペラー」が、「カエサル」から「カイザー」が造語され、今に至ります。

 

 頼朝もアウグストゥスと同じく、様々な権限を積み重ね、全国的にも影響の及ぶ新たな「将軍」像を確立したのでした。

 結果的に、新しく日本史に現れた「将軍」は、室町幕府江戸幕府などが成立する前例を作ったことになり、日本史上において、大きな画期となったのでした。

 

 よくユリウスカエサルは、織田信長にたとえられます。

 

 しかし、カエサルの功績が「共和制から元首制へ、国制を移行させた」という点にあるとするならば、「権力の実行機関を、朝廷から幕府に移行させた」頼朝こそユリウスカエサルに匹敵し、その後の将軍権力の確立の点ではアウグストゥスに匹敵します。

 源頼朝は、ユリウスカエサルアウグストゥスの両方の業績を併せ持った人物、と言えるのかもしれません。

 

 さて、頼朝は日本史を大きく方向転換させたのですが、上記ではまだまだ説明不足。

 それを実感してもらうには鎌倉幕府成立のもう一人の重要人物、北条政子に登場してもらう必要があります。

 

 ここからは、北条政子が大きな存在感を持ち始めます。

 

 続く

頼朝と政子の遺産 その1

*所々で掲載当時(2016年」の表現があるかもしれません。あしからず。理由は一つ前の記事に書いてあります。

 

 

今回は鎌倉幕府の成立にまつわるお話し。
鎌倉幕府と言えば、源頼朝が作った「武家政権」と教わるかと思います。

しかし、「幕府創設」は、それ以上の大きな影響を日本の後世に残しました。


しかもそれは、旧来の体制の枠組みの中において行われました。
 古代ローマ帝国は、1000年間もの長きにわたって繁栄しましたが、その間、政治体制は変化しています。

 「共和制」から始まり、ユリウス・カエサルアウグストゥスによって「元首制」が始まり、蛮族の侵入の激しくなった末期では「絶対君主制」へと移行しています。しかしそれらも革命のように起こったのではなく、「元老院」という枠組みの中で行われました。
 この「旧来の枠組みの中で新体制に移行する」というのは大変困難な政治的行動が必要とされます。

 自分はローマ史を学んだことで、源頼朝が残した功績の大きさが理解できました。

 なぜ、今にいたるまで日本の歴史に断絶が無いのか。

 そこには頼朝と、それを継続すべく奔走した北条政子の存在がありました。

 

 

 

 

2006年ころ、管理人は鎌倉に旅行に行ったことがあります。日本史のお勉強をしていたとお話ししましたが、それは旅行も兼ねていました。つまり、GWとお盆のお休みを狙って、日本史の舞台となる場所を旅行しよう!と。

鎌倉旅行も、事前に「お勉強」をしていました。

そして9月の連休を利用して「いざ!鎌倉」へ。気分も盛り上がっていました。

鶴岡八幡宮や鎌倉の大仏、北条時宗建立の建長寺室町時代の足利氏ゆかりのお寺巡りなど、鎌倉自体は狭いものの、見どころがたくさんありすぎました。

連休ということで、一級の観光地である鎌倉はどこも混んでいたのですが、一か所、とてもひっそりした場所がありました。

北条政子のお墓です。日本史でも有名な人物なので立派なお墓かと思いきや、いわゆる「普通」のお墓。事前に下調べをしておかないと、政子のお墓とは気が付かないと思います。でも、自分はどうしても北条政子のお墓をお参りしようと思っていました。それは、あくまで個人的な見解ですが、日本史の上で北条政子とその夫、源頼朝は、非常に大きなインパクトを残したと思ったからです。

今回は、源頼朝北条政子の物語です。

 

 自分が日本史をお勉強したうえで気づいたことがあります。

 「そういえば、日本って滅んだことがあるのだろうか?」

 学校では平安時代鎌倉時代、江戸時代、と分けて習ったため、漠然とそれが「滅ぶ」に相当するのかな、と思っていたことに気が付きました。 でも、世界史や中国史を、その時はさらっとしかやっていませんが、よく考えると国の名前が頻繁に変わっています。「中国」というと、まるで中国という国が昔から存続していたような気がしますが、冷静に見ると、秦や漢、隋、唐、宋、明、清、と、国の名前が変わっています。

 では日本は?日本列島に「日本」以外の国名って存在したのかな?と考えたとき、さっきのように「室町時代」「安土桃山時代」という名称は浮かぶものの、その時の国の名前はやはり「日本」。

 なんと、歴史好きを自認しつつも、「国の名前が変わること」について、そして「日本列島には、日本、以外の国の名前が存在していたのか?」について、深く考えたことがありませんでした。

 

 他の地域を見たとき、中国では皇帝一族、漢なら「劉氏」、宋なら「趙氏」、明なら「朱氏」、清なら「愛新覚羅・・・・・」と、皇帝の一族が、他の一族になった時に国の名前が変わっています。

 でも、日本には名字のない皇室があり、いままでに君主が他の姓を持つ人に変わったことがない、ということに気が付きました。つまり、王朝の交代が起こらず、日本という国が滅んだことはない、と。

 

 ではなぜ、日本は滅んだことがなかったのか。日本史を勉強していくうちに、ある人物にゆきつきます。

 

 源頼朝です。彼が創始した「幕府」という仕組みこそ、結果的には天皇を現代に至るまでに存続させることを可能にしたのではないか?と。

 

 話は頼朝の登場前、平氏の台頭の時代から始めます。

 平清盛が朝廷において大きな力を誇ったのはみなさんご存知の通り。これは、皇室内の争い、摂関家の対立などで公家同士の政争では決着がつかなくなり、武力を必要としたことによります。皇位継承に絡む紛争を足場に平氏は台頭したのでした。

 しかし、平氏の一門が朝廷の官位につき始めると、一気に情勢が変わります。

 官位、は、公家社会において、各貴族の家格を示す、大変重要なものでした。各公家はどの位につき、どの官職につくかがあらかじめ決められており、ある公家の家長を親の後継ぎとして若い息子が継いだ時、最初は低い官位が与えられるものの、徐々に昇進していき、最後には親の最高位につくように、自動的に決められていました。 つまり、公家の家格社会での位置づけは厳密に決められており、400年の平安時代の間、それが繰り返されていたために、当時の人々はそれを常識として生きていたのです。

そして、各家はそれぞれの仕事を、その家だけで伝承することで引き継いでいました。


 当時の社会は、現在のような法治国家ではないため、法には現代ほど強い力はありませんでした。

 法よりも重視され、当時の世間を規定したのは、さまざまな作法、慣習でした。お茶に表千家裏千家があり、華道にもいろんな流派がありますが、そういった各分野の作法が寄り集まって社会を規定していたのでした。
そして各作法は、その家だけに代々伝えられていきました。

 朝廷においても同じで、朝廷儀式などにおいて、その一つ一つの工程をいくつもの公家が取り仕切り、それぞれ工程の作法は各家だけに代々伝えられていました。

 

 高校時代、古典の授業でいろんな日記を習ったことと思います。そのとき、昔の日記は人に見られることを前提に書かれていた、と教わったと思います。

 当時の人は日記を記しました。そして日記には日々の事の他にも、その日行われた儀式の次第ややり方が書かれました。この記述がそのまま後世の子孫にとっての教科書となり、子孫の公家は儀式の際、その家のみに伝えられる先祖の「日記」を参考に、儀式を取り仕切ったのでした。
 そして、イレギュラーな事件などで日記通りにいかないとき、あるいは自家の範囲にとどまらず、他家の範囲にも関わりそうなときには、他家に伝えられる日記の内容との「すり合せ」が行われることで、基本的には故事に倣いつつ、「妥当な線」で儀式が執り行われました。

 つまり、各公家にとっての存在意義とは、ある儀式、実務のある部分を行う事であり、朝廷とは、各公家がそれぞれの家に伝わる伝承を行うための場所でした。

 病院は医師、看護師、薬剤師、理学療法士、受付など様々な職種が合わさってできており、法律でそれぞれの資格を取得していないとできない「仕事」が決まっています。

 医師や理学療法士などの資格を持った人が辞めることになった場合、同じ資格を持った新人が加入し、仕事の引継ぎが行われます。

 こうした様々な資格を持った人が集まって、病院は運営されています。

 

 しかし朝廷では、医師の仕事は「○○家」にだけ代々伝わる「作法」となり、他の看護師の仕事、薬剤師、理学療法士の仕事も、すべて各家だけに伝えられていました。

 
 結果的に、それらの各家がなければ朝廷は運営できなくなってしまう。

 

 つまり朝廷とは、各家が代々子孫に伝承してきた儀式・作法を寄せ集めた存在であり、各家は朝廷がないと存在意義が失われ、また、朝廷は各家がないと機能できない状態でした。

そのため、自分たちが代々やってきた仕事、官位によそ者が加わるということは、作法に生きてきた公家社会において許されることではありませんでした。そのため、その慣習を破ろうとするものを徹底排除したのでした。

 貴族同士でもこの「領域」を巡って争いが起こったのに、ましてや「人でない」と言われる程、「眼中にない存在」であった武士の朝廷官位への進出はなおさら、貴族にとっては到底許しがたい事でした。

 しかも、貴族社会の秩序は、朝廷の長である天皇にまで向けられていました。

 

 時代下って鎌倉幕府が滅んだ後、後醍醐天皇は「建武の親政」を行います。この「シンセイ」は「新しい政治」の意味ではなく、「親しい政治」、つまり天皇みずから政治を取り仕切る、という意味でした。後醍醐帝は、楠正成や名和長年新田義貞など、自分に忠実な武士を新政権の要職につけ、天皇自身が政治に参画することを企図しましたが、それは公家たちにとって自分たちの仕事を奪われること、すなわち存在意義を奪われることになるため、激しく反発します。しかも徹底的に下に見ている武士が取り立てられている。結局、後醍醐天皇は、中央貴族と恩賞に不満のある武士の反発を買い、これらの反対勢力に担がれた足利尊氏によって京の都を追い出されます。

 

(なお、建武の親政の際に後醍醐天皇は自ら「綸旨」を発しましたが、後で撤回される事態も起こり、綸旨の信頼が失われることになると同時に天皇権威の低下につながりました。さらには綸旨の混乱に乗じて「偽綸旨」も現れ、天皇による親政は世間を混乱させていました)

 

 ついでにお話ししますと、「明治維新」の最大の日本史に残した成果は、建物や生活の近代化ではなく、この天皇を中心とした家格社会を破壊したことではないか、と思います。歴史学的に実証されているだけでも1600年近くも存続した貴族社会を消滅させたことは、日本史上でも最大級のインパクトを与えました。そいった意味において、それを提案した岩倉具視は、日本史において第一級の功績を残した、と言えるのではないでしょうか?

なんか、またまた長くなっています。申し訳ございません。

大河ドラマ放送開始、勝手に協賛企画!

 皆さん、「鎌倉殿の13人」見ました?

 

 面白かったですね!

 

 これまでの大河の常識である「幼少期や無名のころの様子を3か月くらいやる」という、一種の「定式」を破って、初回から事件が起こっているじゃないか!

 

 また、真田丸では気になった「家族のシーン」も、面白かったですね。

 

 これはかなり期待できます。

 

 

 で、ここで当ブログで勝手に「協賛企画」を行いたいと思います。

 

 今から6年前の2016年の大河ドラマは「真田丸」でした。

 

 その「真田丸」の放送初期に、本業のブログでその時代の歴史のお話を掲載したことがあります。

 

 なぜ、秀吉は将軍にならずに関白になったのか?

 なぜ、家康は将軍になったのか?

 

 について、管理人の個人的な考えを掲載しました。

 

 自分は20代後半に塩野七生氏の「ローマ人の物語」に、大きな影響を受けてしまいました。恥ずかしいくらいに影響を受けてしまったのですよ。

 

 そしてローマ人の物語の完結後に、「ローマ人~」で得た歴史の見方で日本史を見てみよう、と思い、30代の内の目標としました。

 自分は以前から歴史が好きで、しかも歴史ファンの大半と同じ戦国時代、幕末を好んでいました。そうなると織田信長が最大の英雄となります。

 「織田信長は、凄い人物だ!」という観点を中心に、戦国時代を見ていました。

 

 自分は塩野氏のファンになってしまい、ローマ人以外にも塩野氏の著作を読みまくっていました。

 そんな中、塩野七生氏のあるエッセイを読んでいた時に、若いころの塩野氏と出版社の方とのやり取りが目に留まりました。

  

 塩野氏は大のカエサルファンであることは周知の事実。それは氏が若いころからであったようで、出版社の人が「カエサルを中心に書いてみてはどうか?」と言われたことがあったそうです。塩野氏はそれに対し、「カエサルだけに注目してもカエサルの偉大さが伝わらない」と答えたとのこと。まあ、昔に読んだことなので表現や細かいニュアンスは異なるかもしれませんが、とにかく塩野氏は、カエサルを語るにはカエサルの前後を語らないとだめなんだ、との主旨のことをのべておられました。(違ったらすんまそん)

 カエサルの登場前の古代ローマの「常識」がどのようなもので、カエサルは何を変えたのか、そしてカエサルが変えたものが後世にどのような影響を与えたのか、までを語らなければ、カエサルの存在を語ることにはならない、と。

 

 これは当時の自分にとっては、「目からウロコ」なことでして。

 

 織田信長は凄い!と思っていたものの、じゃあ信長の何が具体的に「スゴイ!」のか?信長は変革者、常識破りと言われるものの、じゃあ信長は何を変えたのか?

 

 当時も信長に関する本はたくさんあったものの、多くは「変革者」のイメージによって語られるビジネス本ばかり。「信長に学ぶ人事術」とか、「信長に学ぶリーダーの思考」と言った、自己啓発に位置するようなものが、歴史コーナーに平然と並んでいました。

 

 でも、塩野氏のエッセイを読んでから、「信長はどう凄いのか?」を具体的に語れないことに気が付きました。

 カエサルは、確かに古代ローマを大きく転換させ、今に至るまで影響を残す「偉業」を成し遂げています。

 では、信長は?

 

 そこで日本史の勉強のテーマを「なぜ、信長は殺されたのか?」としました。

 

 カエサルは、共和制を破壊し、独裁者になることを恐れた元老院によって殺されました。しかし彼の残した路線はアウグストゥスによって継続され、結果的に古代ローマは帝政へと進み始めます。

 「共和制」は、現代なら「絶対的に正義」のイメージがありますが、当時の古代ローマの共和制では、元老院議員に対する富の集中を招いて国家の疲弊の原因となり、また議員同士の対立の激化によって元老院は「決める」機能を失っていました。当時、領土が広大になっていたローマでは、国境線の長大化によって周囲からの蛮族や敵国の侵入が激化しており、有事の際の即応が必要不可欠になっていましたが、元老院の機能不全により即時に軍事行動がとれない状況に陥っており、安全保障の観点からも共和制は限界を露呈していました。

 

 元老院の機能不全を見て取ったカエサルは、権力の一元化と、元老院議員への富の集中を是正すべく、共和制に変わる制度の導入を企図したのでした。

 ・・・・とはいえ、半分以上はカエサル個人の野心のためだと思いますが。

 

 

 では、信長は何を変えたかったのか?

 そして、なぜ殺されたのか?

 

 

 この観点で日本史を見たとき、それまでと全く異なる全体像が見えてきました。

 

 しかし信長がカエサルに匹敵する人物とは思えませんでした。

 

 では誰が、日本史での「カエサル」なのか?

 

 一通り、日本史を概観した後、管理人には二人の人物が思い浮かびました。

 

 源頼朝北条政子です。

 

 二人が日本の後世に残したものは、今の日本にも残る、非常に大きなものだったと知りました。

 

 前述の「なぜ、秀吉は将軍にならなかったのか?」「家康はなぜ将軍になったのか?」という疑問の他に、

 

  なぜ、これまで天皇は滅んだことが無いのか?

 

  に対する疑問も解消され、そして、

 

  なぜ、日本は滅んだことが無いのか?

 

 という疑問も氷塊しました。

 

 

 では、源頼朝北条政子は、日本史に何を残したのか?

 

 お話ししてみたいと思います。

 

 なお、これから述べることは、あくまでも管理人の個人的な視点です。素人が素人のできる範囲で調べた内容が元になっています。

 

 また、最初に考えたのが10年以上前であり、それ以降、新事実が明らかになっているかもしれませんので、その点はご了承いただきたい。

 

 一応、「全てフィクションです」と宣言しておきます。

 

 

 

 

 

 

 

新年早々、「ぱふぱふ」した話

明けましておめでとうございます!

 

誕生以来、一貫して低レベルの質を維持しつつけている当ブログですが、なんと昨年の閲覧数はこれまでで一番多い結果となってしまいました。

 

 今年もひたすら意識の低い記事を掲載してまいりますので、よろしくお願いいたします。

 

 さて、管理人の正月ですが、あるゲームにハマっております。

 

 それは「ドラゴンクエスト3」です。ファミコン版です。スーパーファミコン版ではありません。8ビットのドラクエです。

 

 昨年の すぎやまこういち さんの訃報を聞いて以来、ドラクエのことを思い出していました。

 小学生時代の自分は「1,2」は順調にクリアしたのですが、3はクリアした実感が残っていないのです。

 

 すぎやまさんが亡くなったと聞き、「ドラクエ3」をちゃんとクリアしたい!という思いが沸き起こってきました。

 

 しかし現在、ドラクエ3のファミコン版をプレイするのは非常に難しい。リメイク版のようなものではプレイできるのですが、8ビット版はほぼプレイ不可。方法としては中古でファミコンとカセットを入手する、というのがありますが、3はメモリー式になった作品なので、当時の内臓電池がつかいものになるか不安があります。

 もう一つは10年くらいまえに「Wii」版で発売された、ドラクエの25周年記念のもの。自分は「Wii」を所有していて、こちらのドラクエは購入していたのですが、「Wii」を触らなくなっていたので、物置の奥深くにしまっていました。

 

 今回、猛烈な「ドラクエ熱風」によっておどろくべき行動力を発揮!

 眠っていた「Wii」を起こし、テレビに接続しようとしたところ、問題発生!

 ウチにある「Wii」はテレビとの接続部分はビデオ端子だったのですが、2年ほど前に購入したテレビのビデオ端子と形状が異なっており、接続できないのです!

 

 この10年間でHDMIとか様々な接続様式が登場しましたが、まさかビデオ端子の形状が変わっているとは!そういえば昨年購入した「PCエンジンミニ」もHDMIだったような。

 テレビの出力部分をよく見てみると、ヘッドホンジャックと同じらしいことがわかりました。

 まあ、いつもの飽きっぽい自分ならここで終わりですが、なんせ「猛烈な」熱風に突き動かされていたので、ビデオ端子をテレビに接続すべく、変換できる配線を求めて年末のヨドバシカメラへ!

 

 さすがヨドバシカメラ。ビデオ端子の様々なコードが並んでおります。

 

 で、ビデオ端子のメスと、ステレオ端子のオスを購入。

 

 帰宅後にWiiのビデオ端子と接続しテレビにも接続したところ、無事にWiiのメニュー画面が映りました!

 

 もし家にWiiが眠っているという方がいましたら、まだ変換コードを中継することでプレイできますので参考にしてみてください。ドラクエしかやっていないけど、映像に問題はありませんし、音も支障なく流れます。

 

 ちなみに、Wiiからのビデオ端子は3つ出ていました。黄色、赤、白の3つ。

 で、基本的には黄色が映像端子、赤、白がステレオ端子。それじゃあ映像端子をビデオ入力に、赤・白をヘッドホン入力につなげれば画質も音質ももっと向上するのかな?と思い実行してみたところ、映像が映りませんでした。

 

 

 そんな格闘をしつつも、ついにプレイ開始!

 

 感動しましたよ。ナジミの塔も何もかも懐かしい。

 

 故郷・アリアハンを脱し、盗賊カンダタからお宝を奪還してロマリア国に平和をもたらして王位につき(すぐに退位)、エルフと人間との悲恋の結末をエルフの女性の母である王女に伝えて、改心させてノアニールの人々を救う。

 

 (現実とは正反対に)順調に「善行」を行う管理人パーティ。

 

 ついに「アッサラーム」の街へと到達します。

 

 そのアッサラームの街を夜に尋ねたところ、ある女性が「おにいさん、ぱふぱふしない?」と誘ってくるじゃないか!

 ドラクエ名物「ぱふぱふ」ですが、じゃあ具体的に何を意味しているのか、知っていた小学生は少なかったのでは?ただ、なんとなく「蠱惑的なこと」であることはわかります。

 ただ、管理人はもはや小学生ではありません。ここまで善行を行ってきた我々一行。ここで少しくらい「息抜き」をしてもいいのではないか?と、「はい」を選択してしまいました。「じゃあついてきて」と言われ、ある建物の2階へ。

 そこは狭い部屋で、中央にベッドが置いてあるだけ。

 
 女性は「となりにすわって。明かりをけすわ」とのこと。

 

 で画像は黒一色に。「ぱふぱふ」というセリフが何度か続いたのち、「きもちいい?」と聞かれてしまい、「はい」と答えるヘタレ勇者。アリアハンの母ちゃんが泣いていることでしょう。

 
 初めて親元を離れて一人行動を堪能する勇者でしたが、次の瞬間に思わぬことが!

 

 「きもちいい?」に「はい」と答えた直後、「そうだろう。おれのぱふぱふはうまいだろう」とのセリフ!

 次の瞬間、明かるくなり、勇者の隣にはゴツイおっさんキャラが立っているじゃないか!

 なんと「ぱふぱふ」をしたのはこのオッサンだった!

 

 勇者の姿ですが、8ビットのドット絵なので表情なんてわかるはずもないのに、なんかがっかりしているように見えます。仲間のサブリーダーである武闘家の「どうだった?」との質問に「・・・・・・」と沈黙を保つ勇者・管理人。

 

 こんなイベント、あったっけ?

 

 これ、今のお父さん、お母さんたちも小学生くらいの時にプレイしていたでしょ?

 

 今、この年齢で見ると「ぱふぱふ」自体、眉をひそめてしまいます。そんなたいそうな倫理観を持っているわけではないけどね。

 

 その上で、このドラクエ3での「男性とのぱふぱふ」イベントですよ。

 今の時世なら「アウト」になりかねない表現ではありますが、ここでは当時の倫理観で考えるとして、これを小学生を対象としたゲームで行ってしまう当時のエニックスも、凄いっすね。まあ、キャラクターデザインの鳥山明氏がドラゴンボールで様々な「そっち系」のネタを書いていた時代だったんですけどね。シティーハンターで「もっこり」という言葉が世間に広まりもしましたし。

 そういや「にゃんにゃんする」という言葉までありましたね。

 

 若者よ、今のようにキャラクターをセクシーに描けなかった時代、君たちのお父さんたちは、「ぱふぱふ」という言葉だけで満足し、妄想していたのだ!

 今の若者は刺激の強いものにさらされていて危険ですね。

 

 これが昭和と令和の大きな違い・・・・。

 

 

 

追記

 

 上記のように「原典」であるファミコンドラクエは、現在ではプレーしにくくなっています。

 それにドラクエだけがゲームではありません。ファミコンだけでも無数のタイトルがありますし、特に当時のPCのゲームは、無名ながらも今見てもなかなかの良作がたく

さんありました。

 ここまでのPCゲーム文化は、まさに日本独自と言えると思います。

 そろそろ日本が中心となって世界を席巻した時代もあったアニメ・マンガ・ゲームを、他の古典などと一緒に国が保存する必要があるのではないか、と割と真剣に考えた新年の一日。

 

 そして、長らく接続の基本方式であったビデオ端子も、予想以上に早くに姿を消してしまうかもしれない。そうなれば過去のゲーム機の多くがプレイ不可能になってしまいます。

 時代は変わるもんですね。