意識低い系、日本代表宣言!!

意識の低い人間が、意識の低い情報を、意識を低くしてあなたにお届け!!

ペルリ提督、函館に上陸す!その1

 

 嘉永六年(1853年)6月3日、浦賀沖に4隻の蒸気船が現れます。

 

 機械仕掛けの巨大な船の姿は、素朴な木製帆船を見慣れた住民を圧倒します。

 

 この第一印象だけで、日本と外国との間には、途方もない差があることを、全ての日本人が思い知らされました。

 

 この4隻の艦隊はアメリカ海軍。

 

 艦隊を率いる東インド隊司令長官・マシューペリーは、アメリカ大統領からの命令を遂行するため、日本にやってきました。

 

 その大統領の命令とは、「日本を開国させること」。

 

 ペリー艦隊が浦賀に入港した嘉永六年6月3日は、現代暦・西暦では1857年7月8日になります。

 以降は、旧暦ではなく現代暦に合わせた日時を記載します。

 

 7月10日、幕府はペリーの来訪を拒否。

 この幕府の対応に不満を持ったペリーは、翌日の7月11日に、艦隊の一部を江戸湾に派遣し、測量を始めます。

 これには、近代的な艦船を幕府に直接見せることで、幕府を威圧する意図がありました。

 

 実際、幕府は黒い近代船を見て動揺し、ペリーに久里浜(神奈川県横須賀市)への上陸を許可せざるをえませんでした。

 

 7月14日、久里浜に上陸したペリーは、そこで会見した幕臣の戸田氏栄、井戸弘道に、アメリカ大統領からの親書を手渡しました。

 この時の幕府とペリー艦隊との接触はこれだけで、協議や饗応などは行われなかった模様。会見した幕臣の戸田氏栄らは、その場では親書を受け取ったのみで何も回答せず。

 実際、時の征夷大将軍徳川家慶は、この時、病床の身にあり、幕府としても重要な決定はできない状況でした。

 幕府は将軍の病状をペリーに知らせて、一年間、返答を待つようにペリーに伝え、ペリーもその回答を受け入れて、一旦、江戸を離れて琉球に向かうことになります。

 この江戸を離れる際に、ペリー艦隊は号令や祝砲の意味で、数十発の空砲を鳴らしたのですが、この時の轟音は幕府や江戸住民に、アメリカへの恐怖心を植え付けてしまいます。まあ、ペリーにとってはむしろ好都合な結果になったのですが。

 

 

 親書を受け取ったものの、幕府は返答に困り、翌1854年を迎えても何も反応しませんでした。

 というか、ペリー来訪の十日後に、将軍・家慶が死去してしまいます。

 この大事な時に、将軍の国葬や新将軍・家定の就任なども重なり、この件に十分な時間を取ることができず、さらには幕府内部で攘夷論が高まるなど、幕府は意思決定できない状況にありました。

 

   その間に東アジアの大国・清王朝では情勢に変化が起こります。

 

 1851年に勃発した太平天国の乱が拡大し、ペリーが日本を訪れた1853年からは主要都市を占領するに至ります。

 この時の清王朝は、すでに欧米列強によって内部を切り刻まれている状況だったのですが、太平天国の乱は清王朝における欧米列強の権益までおかし始めていました。

 

 この清王朝での情勢の変化により、アメリカの極東政策にとって日本の開国は急務となります。

 

 1854年2月13日、約束の一年後を待たずに、ペリーは再び日本の浦賀沖に現れます。前回の訪問とは異なり、もはや幕府に容赦しませんでした。

 1回目の訪問時には4隻だった軍艦は7隻に増えており、強引にでもアメリカ大統領の要求を通そうという姿勢を隠そうとしていません。

 

 幕府は、約束よりも早い不意の来航に大いに驚きます。

 

 この初動での動揺によって、これから始まる日米交渉でも、幕府は終始、ペリーに主導権を握られることとなります。

 

 3月6日、ペリーは446人もの船員を引き連れて横浜に上陸。

 日米交渉が始まります。

 ペリーは終始、威圧的な姿勢で交渉に臨み、幕府側の担当者であった林大学頭は要求が出されるたびに幕府との意見のすり合わせに追われることになります。

 

 そして、なんとか通商条約締結の要求は退けたものの、長崎、下田、そして箱館(函館)の開港を認めさせられました。

 

 1854年3月31日、横浜にて日米和親条約が締結されます。

 

 200年に及んだ鎖国が解かれた瞬間でした。

 

 そう、この時から日本は「開国」した。

 

 

 条約締結の約一か月後の5月中旬、ペリーは下田を出港し、北へと向かいます。

 

 目指すは日本最初の「開国」の地、箱館

 

 

 日本史上でも大きく名を遺すこのアメリカ人は、函館にも来ていました。

 

 いきなり日本最初の開港地となった函館で、ペリーは何をしたのか?

 

 北の地で、もう一つの開国交渉が始まろうとしていました。

 

 

 続く