意識低い系、日本代表宣言!!

意識の低い人間が、意識の低い情報を、意識を低くしてあなたにお届け!!

ペルリ提督、函館に上陸す!その3

 

 1854年3月31日に、日米和親条約が締結され、箱館が開港地となったことは、前回までにお話ししました。

 

 突如、開港地に選ばれてしまった箱館ですが、当地を管理していた松前藩には、五月初旬頃の「ペリーが箱館に入港する15日前」までには、幕府からペリーが箱館に来航することが伝えられていたそうです。

 

 しかしどのくらいの情報が伝えられていたのかは不明で、なんせ江戸からかなりの遠方にある箱館なので、どうやら「第一報」的な情報しか伝えられていなかったらしい。

 

 ただ、松前藩には、ペリーが終始、幕府に対し高圧的に接していたこと、幕府中枢も江戸住民もペリー艦隊に怯えている、という、江戸の現地情報は伝わっていたらしい。

 そして幕府からは、とにかく「穏便に応待せよ」とだけ、伝えられていたらしい。

 何よりも問題なのは、「日米和親条約」について、何も知らされていなかった、ということ。

 

 松前藩の立場で言うならば、「わけがわからない」ということ。

 

 

 これからお話を進めるうえで、この点は非常に重要なので、皆さんも

 「ペリーが来航した時点では、松前藩は全容が全くわかっていなかった」

 それも

 「何をすべきかもわからなかった」

 という点を念頭に、読み進めていただきたいと思います。

 

 

 とにかく、「中央政府」である幕府を脅した最新鋭艦隊が、この田舎の箱館にやってくる!と聞いて、松前藩内は大いに動揺したそうです。

 

 なんせ具体的な情報が入ってこない!

 

 地方の小藩であった松前藩が狼狽えるのも無理ありません。

 

 松前藩は、とりあえず、家老・松前勘解由、用人・遠藤又座衛門ら、松前藩でも要職にある者に応接役を命じ、軍勢一隊を付して箱館に派遣します。

 

 さらに現地の箱館の住人には18か条のお触れを出します。

 

 このお触れでは「アメリカ人は欲深く短気であるため、外国船停泊中は婦女子は外出を禁ず」とし、さらには「婦女子は山へ避難させる」ことを命じています。

 またお触れの他の条文を挙げてみると

 「牛、酒、呉服、小間物、その他大切なものはアメリカ人の目に触れないようにする」

 「異国船の見物禁止、海に面した戸や障子にも目張りをする」

 「アメリカ人が何かを見て欲しがったら、逆らわずに与えること」

 などがありました。

 

 松前藩の警戒心は高く、箱館港の周囲を高さ2メートルの板塀でぐるりと囲み、海から町中が見えないようにして、アメリカ人と箱館住人が直接接触しないようにした、とのこと。

 

 松前藩が、かなり徹底して、準備していたことがわかります。

 

 

 そして、その日がやってきます。

 

 

 5月11日、ついに黒船艦隊が箱館湾に姿を現したのです!

 

 

 ペリー艦隊は、なんと江戸から箱館まで、たったの4日ちょっとで到着してしまった!

 

 色々と調べてみたのだけど、当時、江戸と函館の移動に要した時間は、夏は30日間、冬は37日間くらいかかったそうです。この辺は「諸説あり」にしておいていただきたい。

 とはいえ、数十日はかかっていたはずなので、それがたったの4日で移動を完了してしまったのだから、蒸気船と帆船の違いが明確。

 

 しかも松前藩が幕府から情報を受け取った手段が「飛脚」だった、というのだから、情報伝達速度の差は歴然としていました。

 

 ペリー艦隊は二つに分かれて箱館港に入港したらしい。

 

 まずは5月11日の「先遣隊」として、アメリカ軍艦サウザンプトン、ヴァンダリア、マセドニアンの三隻が入港。

 

 なお、まだペリーが乗る軍艦は箱館湾に入港していません。

 

 「先遣隊」は、すぐに箱館港の計測を開始します。

 

 この時、アメリカは小舟を出して計測していたのですが、その内の一隻が上陸しそうになったため、藩士がすぐさま駆けつけて、必死に手の仕草で上陸を制止すると、どうやら伝わったようで、小舟はすぐに沖に戻っていった、とのこと。

 

 しかししばらくして、アメリカの小舟は、今度は沖の口役所のある場所へ接近。

 松前藩士は、これも制止しようとするも、今度はそれを振り切って上陸してしまいました。

 松前藩士は、仕方なく上陸したアメリカ水兵を役所へと案内します。

 

 役所内にて、アメリカ水兵に着座を促したところ、どうやら直接座ることを嫌がっているらしい。そして椅子を要求していることが伝わりました。

 しかし、役所には椅子がありませんでした。なんせバリバリの日本領なので。

 そこで応対した松前藩士は、仕方なく机に布をかけて、急ごしらえの椅子を用意したそうです。

 そして「着座」したアメリカ人に対し、お菓子やお茶、タバコなどを供してもてなした、とのこと。

 その後、筆談にてアメリカ側に要件を問いただすと、どうやら食料を提供してほしい、と訴えているらしい。

 松前側が「承知」と回答すると、アメリカ側は平穏に帰っていった、とのこと。

 

 これがアメリカと松前藩が初めて対したときの様子。

 

 食料の提供だけで済んだ、と松前側が安心したのもつかの間。

 

 これ以降、アメリカ側の無断上陸が頻繁に起きはじめます。

 

 七里浜に上陸したアメリカ兵が、勝手に引き網漁を始めたり、小銃で鳥を撃ったりしたために藩士が制止したにも関わらず、それを無視して発砲を続ける有様。 

 他にも現地の住人にお酒を要求したり、お寺に勝手に入り込んで賭博を始めたり、と狼藉も頻発するようになります。

 

 松前藩士は、アメリカ側が事件を起こすたびに、対応に追われてしまいます。

 

 そんな中、ついにペリーが箱館湾にやってきます。

 

 1854年5月17日、アメリカ軍艦ミシシッピと、同じくアメリカ軍艦にしてペリーが乗船する旗艦ポーハタン号が箱館湾に入港。

 

 この時、ペリーの居住していた旗艦ポーハタン号のメインマストには、アメリカ国旗である星条旗がはためいていました。

 

 この時の星条旗は、これからの日米の歴史の重要な場面に関わってくることになります。

 

 ペリーと星条旗には、初めて見る箱館がどのようにうつったのか?

 

 

 

 

  続く