皆さん、「網走」と聞くと、何を思い浮かべますか?
管理人から上の世代であれば、「高倉健」が連想されると思います。
そして何より、「刑務所」!
管理人世代以上では、網走刑務所と高倉健の任侠映画こそ、網走のイメージになっているのではないでしょうか?
今の若い人はどうなんだろう。高倉健さんが活躍していたのは、もう、昔ですもんね。
網走は高倉健の映画のイメージもあって、昭和では全国的に、かなり暗いイメージがありました。
「遠い場所へ左遷」となれば「網走」が浮かび、テレビドラマなどでも「網走営業所へ転勤」となれば、まるで島送りや刑務所送りになったかのように表現されました。
2時間ワイド劇場の舞台には最適です。
確かに網走監獄には重罪犯が収監されましたが、そもそもは殺人事件や重い反社会活動を行った人が集められた、というわけではありません。
網走監獄もまた、明治維新の副作用として生まれ、北海道開拓の重要な役割を果たしていくことになります。
戊辰戦争の終結で新政府の統治するところとなった日本ですが、法治国家の黎明期ゆえに混乱が続いていました。新政府に反対する旧士族が中心となった「反体制派」も生まれ、征韓論の際にも政治犯が多数つかまり、そして明治19年(1877年)には、西南戦争が勃発します。
西南戦争の結果、敗者は「犯罪者」とされます。
必然的に、それらの「政治犯」が大量に発生することになり、新政府はその収監先と、維持という問題を抱えることになります。
新政府は、この過剰な「収監者」たちを、北海道の開拓に利用することにしました。
何度も繰り返すように、ロシアの脅威が目前まで迫っているため、国防の観点から北海道の開拓は喫緊の課題となっていましたが、人員不足も深刻になっていました。
そこで新政府は、北海道に集治監を設置することを決定します。
集治監とは、終身刑や重罪などに処された、刑の重い受刑者のみを集めた監獄のこと。
1881年に、現在の月形町に樺戸監獄が設置されたのを最初に、空知集治監、釧路集治監などが設置されていき、1891年に釧路集治監の分監として釧路集治監網走分監、通称「網走監獄」が設置されました。
オホーツク海沿岸の港町は、幕末のころからロシアの攻撃を受けるなど、すでに異国の脅威にさらされていました。
それまで網走は600人ほどの漁村だったのですが、網走監獄の設置により、オホーツク海沿岸における開拓の中心地となっていきます。
網走監獄の囚人による開拓事業で大きなものが「中央道路開削工事」です。
当時、札幌と道東は日高山脈や大雪山と言う非常に険しい地形によって境されており、道東との行き来は陸路ではなく海路が主流でした。
特にオホーツク地方は西と南を急峻な山地で囲まれており、開かれているのは北に広がる海だけ。
オホーツク地方の網走は、当時、東京から到着するまで、最も日数がかかる街だったのです。一方でロシアは海路を使えば、オホーツク沿岸地方への移動は容易。
ロシアの脅威に対抗するためには、札幌とオホーツク地方の陸路の開削が不可欠だったのです。
明治24年(1891年)5月から、ついに中央道路の建設工事が始まりました。
工事は当初から難航を極めます。
原始林が広がり、オホーツク海沿岸地域に特有な湿地・湿原なども工事を難しいものにしました。
工事は昼夜関係なく続けられ、夜間にはかがり火を焚いてまでして、実行されました。囚人は夜遅くに就寝に着くも、深夜3時ころに起こされて作業に駆り出される、という、過酷な労働を強いられます。
そして工事が山間部の大雪山に至ると、さらに労働環境は悪化していきます。
藪蚊などの害虫の大群に襲われ、クマの襲撃も珍しくない。山間部ゆえに食料の補給も悪化したため栄養も満足に取れない。工事は春から行われたとはいえ、北海道の春や夏の夜は冷え込みが厳しい。
栄養失調によって病気を発症した者も後を絶たなかった。工事に参加した1150人中、実に900人が発熱し、200人前後が死に至りました。
死体は埋葬されることもなく、そのままうち捨てられ、工事は続けられました。
その結果、旭川から網走までの険しい地形を通るルートにも関わらず、わずか8か月で開通しました。
現代でも無理です。数年はかかる。どれだけ多くの囚人が犠牲になったのか、想像できると思います。
この過酷な労働環境から、悪名高い「タコ部屋労働」の原型ができることになります。
また、この中央道路での実態に批判が集まり、1894年に、囚人に土木事業をさせることは禁止されます。
この中央道路の開通により、道東の各地域では開拓が加速することになります。
多くの犠牲を払って完成した中央道路は、今でも国道39号線など、複数の路線として利用されています。
ぜひ、国道39号線を通ってもらいたいと思います。かなり険しい道です。現在は、遠軽から上川まで高速道路が開通したので、上川地方とオホーツク地方との移動時間はかなり短縮されましたが。
中央道路は、北海道の開拓に不可欠な道路となりました。
多くの命を犠牲にしてでも、新政府は北海道の開拓を急がねばならなかった。
それが、植民地主義の中で独立を保つ、ということ。
19世紀の世界が、いかに不穏な空気に支配された時代であったのか、中央道路の建設過程を見ることで、実感できると思います。