日本の首都は東京。
東の「京」と書きますね。
名前の由来は、江戸時代まで天皇の居所があった京の都から東に位置しているから。
明治新政府は、東京を「東の京」としたうえで、従前の京の都を「西の京」、平城京があった日本古来の都である奈良を「南の京」としました。
東、西、南、とくれば「北」が欲しいところ。
新政府は、この「北の京」を北海道に建設しようと計画していました
なぜ、そのようなビッグプロジェクトが、開拓間もない、というかほとんど開拓されていない北海道で行われようとしていたのでしょうか?
ようやく内戦を終えて外に目を向けてみると、世界は植民地獲得競争の風潮にあることを自覚させられます。
そして、日本もその対象であるということも。
東南アジアの国々は次々と欧米列強の植民地に組み込まれ、隣にある東洋の大国・清王朝も、欧米列強によって浸食されている状況。
このような情勢では、日本の独立は風前の灯に過ぎません。
そして、欧米列強の一角であるロシアは南下政策を推し進め、極東付近をも勢力下に組み込もうと拡大し続けていました。
日本とロシアは、幕末のころから周辺地域で利害が対立。紛争が頻発し、いつ大きな戦いになってもおかしくはない状況で、開国直後の新政府は、ロシアを仮想敵国としていました。
日本はロシアと「日露和親条約」「樺太・千島交換条約」などの条約を結んで国境を確定させようとしますが、植民地主義の国際情勢では、いつ形骸化してもおかしくはない。
実際、ロシアは満州や樺太などで活発に植民活動を行っていました。
そして、ロシアの視界には北海道が入っていました。
何度も繰り返してしまいますが、世界地図で極東地方を見てほしい。
当時、シベリアを超え、オホーツク海沿岸まで達していたロシアですが、カムチャッカも支配下におき、ユーラシアの西の欧州側から東の果てまでがロシア領となっていました。
しかし残念ながら、樺太はオホーツク海という海の内側に浮かぶ島。オホーツク海自体、太平洋から見れば内海に過ぎません。
カムチャッカを支配下に置いているとはいえ、カムチャッカ半島自体が巨大で険しい地形な上に、一年を通して寒さの厳しい地域。
「太平洋への玄関」とするには、あまりにも遠く、険しい。しかも冬は港も凍ってしまう。
そのカムチャッカ半島の先には千島列島が、首飾りのように並び、樺太も南に向かって伸びている。
このカムチャッカ、千島の連なりと、樺太の根の先には何があるか?
その結節点として、北海道がある。
北海道は、島一つでオホーツク海を内海にしてしまっているのです。
もし、ロシアが北海道を領有すれば、ロシアの極東支配はかなり「ラク」になる。
北海道の日本海側や太平洋側の港は凍ることもない不凍港。北海道を起点としてウラジオストクから千島、樺太などへの通行も容易になる。
しかし北海道がロシア領じゃないばかりに、ウラジオストク、樺太、国後、択捉との交通は、大きく迂回をせざるを得ないのです。
地勢的な意味において、まだどの国の開発も進んでいない蝦夷地を領有することは、ロシアにとっても重要だったのです。
そう、いまだ「北海道は日本領である」という国際認識が確立されていたとは言い難かったのです。
そこで明治政府は、北海道に天皇の居所を建設することで、北海道の日本領有を確かなものにしようとします。
そして現在の旭川市に、皇室の居所としての「北京」を建設するという国家プロジェクトが始動しました。
なぜ、旭川だったのか?ですが、これまた地図を見てもらいたい。
旭川は、北海道の中心に位置し、北の稚内、西の留萌、東の網走、南東の十勝、釧路にも通じる、交通の要衝にあります。
なんせ札幌から道東に行こうとすると、日高山脈や大雪山という非常に険しい地形が邪魔しています。
いまでこそ日高山脈には高速道路が貫通し、鉄道路線も直線でトンネルが開通していますが、当時はそんなものはなく、汽車で札幌から釧路へ向かおうとすると、まず北上して滝川に出て、そこから根室本線に乗り換える必要があったのでした。
札幌から帯広まで直通する新狩勝トンネルは1966年の開通。それまで札幌と道東とは大きな距離があったのでした。
「根室本線」ですが、滝川から根室に至る、北海道の東西の大動脈として機能していました。
滝川が道東との玄関口になっていたのです。
その明治時代の国家プロジェクトとして建設された根室本線ですが、2016年の台風被害を受けてから一部区間が不通となっており、今年三月いっぱいを持って、富良野ー新得間が廃線になります。途中には映画「鉄道員」のロケに使われた幾寅駅もあるので、ぜひ、訪ねてみてください。
話を戻して。
とにかく、旭川は、北海道のどの町に行くにも便利な場所にあるのでした。
こうして動き出した北京建設計画ですが、まず旭川に「上川離宮」の建設が計画されます。
「離宮」というくらいですから、天皇の居所として建設されました。
また、旭川の南側の、現在の旭川市西神楽と東神楽町を合わせたくらいの広い面積の土地を「皇室御料地」として接収されました。
かなり広いと思います。
そしてその御料地の北側の旭川に、天皇を守護するかのように日本軍第七師団の駐屯地が建設されます。
ちょっと軍事には疎いもので、これからの説明には不備があると思うのだけど、この日本軍第七師団は、かなり規模が大きかったようです。
ロシアの軍事的脅威への備えは、過小評価できない現実問題でした。
この第七師団ですが、日露戦争の旅順攻略戦やシベリア出兵などに参加。ノモンハン事件では、ソ連軍とも交戦しています。
そして、第二次大戦では、分隊が灼熱のガダルカナルへと派遣されました。
マンガ「ゴールデンカムイ」にも登場しますね。
第七師団の基地の規模はかなり大きかったらしい。日本軍第七師団の基地は、そのまま自衛隊第七師団の駐屯地として使用されていますが、現在は旧日本軍時代の4分の1くらいになっているらしいです。
ロシアの軍事侵攻に対する防御を強く意識して第七師団を設置したのと連動して、旭川市内にもロシアへの備えを意識した建築物が作られました。
現在の旭川の象徴となっている旭橋をご覧になったことがありますか?
鉄骨でできた、見るからに頑丈そうな橋ですが、これはロシアが北海道に侵攻してきた際に、その迎撃に向かうために戦車が通過することを意識して作られました。
そのため、かなり頑丈にできています。
このように、旭川は軍事都市として建設されたのでした。
そう、旭川こそ、「北海道は日本領である!」と宣言した明治政府の方針を現している。
旭川の建設は、開国間もない日本が植民地主義が吹き荒れる世界へ発したメッセージでもあったのです。
同時に、「動乱の国際情勢でも独立を維持する」と日本国民へも姿勢を示している。
北海道の開拓の意味を、札幌以上に表しているのが旭川なのです。
北京建設計画のその後ですが、上川離宮の建設予定地を当時の皇太子(後の大正天皇)が視察されるなど、具体的に進むものの、すでに道都として建設が進行していた札幌の反対や、財政的余裕のない新政府の事情によって、頓挫してしまいます。
軍事上の重要性から第七師団はそのまま置かれたものの、接収された皇室御料地は民間に払い下げられます。
しかし、地名に御料地時代の名残があります。
「御料」という地名が残っていますし、「神楽」という地名も、アイヌの意味もありますが、皇室御料地の残滓もうかがえます。
もし、北京建設計画が実現していれば、北海道の中心は北に移っていたでしょう。
今度、旭川を訪れることがあったなら、上川神社や旭橋を見てみてください。
明治の日本人が命運をかけた「方針」を見ることができますよ。