皆さん、ハドソンソフトという会社をご存知ですか?
かつて札幌に存在した、ゲームソフトを作っていた会社です。
今ではもう、存在していませんが、ハドソンによって、一時期は北海道が、日本や世界のゲーム業界をリードしていました。
当ブログの最初の記事として、今では伝説となった、ハドソンソフトについて語りたいと思います。
ハドソンは1970年代に札幌市内にあったアマチュア無線の店が発祥。
そこにいつしかパソコンオタク達が集まりだして、自分たちの好き勝手にパソコン(当時はマイコンとも呼ばれていた)のソフトを作り出します。
オタク集団はいつしか自分たちでソフトも作るようになり、それもかなりレベルの高いものになって行った、とのこと。そして、もともと新興のアイテムであったパソコンの個人所有自体が珍しく、そのソフトの存在すら知られていなかったこともあり、お宅集団はいつの間にか日本を代表するパソコンソフトメーカーになっていました。
正直、当時は「マイコン」とか「パソコン」というのがどういうものか、知らない人の方が圧倒的。ましてやそのパソコンに使うために「ソフト」が必要、なんてこと理解している人なんて、日本人の1%もいなかったのでは?いや、マジで!!
この時、ある大学生がハドソンに入り浸っていた、とのこと。あまりにもハドソンでのパソコンいじりに熱中してしまったため、大学を中退してしまい、そのままハドソンに入社。と言ってもハドソンはまだまだ小さな会社でしたが。
この大学生こそ、後に数々の名作を手掛け、ゲーム業界の方向すら示した、中本伸一氏でした。
中本伸一さんの名前は、管理人と同世代でコロコロコミックのファミコン記事を待ちわびていた人には、超有名人だと思います。
あのゲームの歴史に残る名作「ボンバーマン」の生みの親。
つーかね、中本氏は北海道大学に在籍していたのだけど、それを中退して、全くの無名で怪しげな無線会社に就職したんですよ。一流企業の勤め先もあるだろうに、傍から見れば人生を棒に振るような所業。
さすがにハドソンの工藤兄弟も、卒業はするべきと説得したらしいのですが、実行してしまったらしい。
親だったら、絶対に許せないですよね。しかし、この時の決断により、中本氏は世界的な名声を得ることになるのです。
興味深いのは同じくこの時期、後に任天堂の社長となってDSやWiiを生み出した岩田聡氏も、ハドソンに出入りしていたとのこと。
当時、札幌南高校に在籍していた岩田氏も、早々にパソコンにハマり、なんと高校生にして自作のゲームも作っていたとのこと。その自作のゲームをハドソンに持ち込み、買い取ってもらおうとしたそうです。
このブログをご覧の意識低い系の皆さん、高校時代に何をやっていましたか?
変な妄想ばかりやっていたのでは?
そんな時期なのに、80年代の札幌では若者が次の時代を開くべく活動を開始していたのです。なんか我が身を考えると嫌になってきますね。
脱線ついでにお話しすると、高校生プログラマー・岩田氏は、自作のプログラムを、あのヒューレット・パッカードの日本代理店にも送り付けたとのこと。いきなり高校生からプログラムを送り付けられたHP日本代理店の人は、そのクオリティの高さに驚き、札幌の岩田氏の自宅に様々な「未公開」のプログラムなどをプレゼントしたとのこと。
岩田氏は後に大学在学中に「HAL研究所」を立ち上げ、ゲーム業界で個性を発揮。紆余曲折を経て任天堂に入社し、先にお話ししたWIIやDSを発売して、当時、業界で後れを取っていた任天堂を立て直し、SWICTHの開発に関わっていた最中の2015年に亡くなりました。
また、この時期くらいらしいのだけど、工藤兄弟は、まだなんの実績もなかったソフトバンクの孫正義氏とも関係があったらしく、この時の縁で孫氏は工藤氏に大変な恩義を感じている、とのこと。(ネット情報)
さて、話を本筋のハドソンに戻すと、単なるパソコンオタクのたまり場であったハドソンですが、1983年、発売されたばかりのファミコンに将来性を感じ、初のサードパーティーとしてソフトを発売します。
第一弾はロードランナーとナッツアンドミルクの二作品。このロードランナーはアメリカのゲームの移植作品ながら出来が良く、エディット機能まで搭載。このあたりに「パソコンオタク」の影を見ることができます。そう、どこかマニアックなものを感じたソフトでした。自分で作る、という楽しさを残したというか。
それ以降、ハドソンは名作を量産します。
「スターフォース」「バンゲリングベイ」「スターソルジャー」「チャレンジャー」・・・。
40代以上のお父さん世代なら、聞いたことがあるはず。
また、初のサードパーティとして任天堂からはかなり信頼されていて、ハドソンの消滅まで特別な扱いを受けることができたとのこと。そりゃ、PCエンジンを発売しても関係が変わらなかったくらいだから、よっぽど信頼されていたようですね。
数々のヒット作によって、ハドソンは、コナミ、ナムコ、カプコンなどといった、後に世界をリードするゲームメーカーに並ぶ地位を築きました。
一方で、どうやらファミコンソフト開発開始とほぼ同時期に、次世代のゲーム機の開発を独自に開始した模様。
この次世代機で、ハドソンはさらに躍進することになります。
続く!!