ここまで、ハドソンの作り出してきたものや、ハードの性能の高さなどを紹介してきましたが、ここで絶頂期当たりのハドソンの社内の雰囲気について、お話ししてみようと思います。
ハドソンがどういう会社か?となると、管理人と同世代のゲーマーなら「自由な社風」という、ありがちな文言が浮かぶのではないでしょうか。
ハドソンは自由らしい、というのは、ネットの無かった時代でも知られていました。まあ、高橋名人なんて人物までいたりしましたからね。他にも映画をつくったり、自社提供番組があったり。
でも「自由な社風」というだけなら、ハドソンに限らずパソコンソフトメーカー、今ならIT企業など、新興の産業なら言われてそうな感じがします。
さらに言えば、「自由」な会社と言うと、グーグルなどのアメリカやヨーロッパの会社の奇抜なオフィスデザインが浮かぶのでは?
あれですよ、社員がバランスボールに座って会議をしたり、ハンモックとかがつるされていたり。
いわゆる「想像力を刺激する」というヤツです。
そう、「自由な社風」「想像力を刺激する環境づくり」や、「遊び心を大切にする」というセリフを聞くと、幼稚園のような内装にバランスボールが並んでいる「意識高い系企業」の典型例が浮かんでしまう。
なんかさ、「自由な社風」ということ自体、宣伝文句に使ってそうな感じ。社内デザインまでパッケージされて、無理やり実現した、ような。
では、ハドソンも、そんな「作られた自由な社風」だったのでしょうか?
色々と調べてみると、まず、会社の玄関から職場まで、自由に行き来できたらしい。自由って、そっちかい!
絶頂期はハドソン社内で複数のラインでゲームを同時進行で制作していたそうで、下請けや外部委託などもあったそうなので、必ずしも社員じゃない人間でも出入りしていたそうです。
当時、札幌にはハドソン以外にも複数のソフトメーカーがあったそうです。
ここからは確証のある情報を元にしているわけではないのだけど・・・
よく「サッポロバレー」などと言われるほど、札幌には昔からパソコンやIT関連の会社が多くありますが、ハドソンの下請けなどで発展した面もあるらしい。ハドソンを中心に、ソフト開発の会社のすそ野が広がっていた、と。この辺は詳しい情報を教えてほしいのだけど。
名古屋がトヨタを中心にデンソーなどの関連企業、下請け企業などのすそ野の広い産業ができていたのと同じく、札幌でもハドソンがパソコン関連の会社のすそ野を広げていたのかもしれないですね。
で、もっとハドソン社内の様子を話すと。
これはユーチューブチャンネルを参考にさせていただきましたが、とにかく遊んでいた、と。
絶頂期くらいの時に、社内で自作ラジコンが流行っていて、大人の社員が真剣に取り組んでいたらしい。ハドソン社屋の近くにラジコンコースを持つ模型屋があって、夕方くらいにハドソン社員の大勢がそのコースに行ってラジコンに興じ、夜の10時くらいに会社に戻ってきて自分のラジコンの調整を行い、それが終わってから仕事を始めた、って!(爆笑)
「午前中に遊んで、夜(というか深夜)に仕事をしていた」と、サラっと語られていました。
とにかく社員の大半が遊んでいて、ラジコンのほかにサバイバルゲームとかいろんなことで遊んでいたらしい。
そして、工藤社長(?)がマジック・ザ・ギャザリングというカードゲームにハマり、そこから社員の多くがハマったエピソードが語られていました。
このカードゲームについては、今ではファンも多く、ユーチューバーでもハマっている人がいますね。
今では一般的になったこのカードゲームを、工藤氏は当時、日本でも早い部類でハマったらしい。
管理人はカードゲームに詳しくないのだけど、当時はマジック・ザ・ギャザリンは日本では販売されていなかったので、輸入していたそうです。
で、工藤氏は、それなら会社を立ち上げてしまおう、と、恐らく日本で初めて、時間制のカードゲームの「場所」を提供するカフェ?を開いた、とのこと。
それなら会社の経費でカードを輸入できますしね。
つーか、遊びのために、そこまでやるか?
そう、ハドソンの「自由」は、意識高い系企業のブランドイメージのための「作られた自由」ではないのです。
本当に自由だったのです!本当に遊んでいたらしい!
いくらハドソンファンでも、思わず「仕事しろ!」と言ってしまうレベルで、自由だったんです!
自由過ぎて、社内でペット飼育もOKだった、とのこと。
これ、凄いよね。ラジコンもサバゲーもカードゲームも、子どもの遊びですよね。
大人の「遊び」って、キャバクラでオネーチャンにつぎ込んじゃったり、を思い浮かべるけど、ハドソンの社員の「遊び」は、本当に遊んでいたらしい。子供がおもちゃに夢中になるような感じで。(実際は知らんよ)
その「遊び」の究極の形が、札幌市南区の芸術の森近くに作られた「ハドソン中央研究所)。
この建物は、ぜひ、動画で調べてみてほしい。「遊び」を具現化してしまった、と言っても過言ではない。
それも「プールを作ってパーティーした」とか、そういう遊びじゃない。
鉄道好きの工藤氏の理想を実現すべく、社内・社外にミニ鉄道を開通させてしまった!
他にも役員室のテーブルには、鉄道模型のジオラマがあったらしい。
もう、本当に遊んでばっか!
ハドソン中央研究所を作ってしまっ時点でも、ハドソンの創業メンバーは、無線屋で遊んでいたころのままだったのではないか?
フツーだったら、ある程度大きくなった時に、社長が突然、意識高い系に目覚めて、「社内教育」という名の下らないプログラムを始めてしまうものです。
しかしハドソンは、無線屋のままで全国規模のソフトメーカーになってしまったらしい。
でも、ハドソンからは非常に面白いゲームが生産され続けるのです。
さて、ハドソンは絶頂期付近で、「ハドソンゲームスクール」という、ゲームクリエイターの専門学校を解説し、自前の人材確保も始めた、とのこと。
もはやゲーム業界ではトップレベルになっていたハドソンだけに、「ハドソンブランド」のゲームスクールには全国から多くの若者が集まってきた、とのこと。
言っておきますが、ゲーム業界が開花していた時期とは言え、社会でのゲーム関連会社への評価は、決して高いものではありませんでした。特に管理人の親世代にとっては、ゲーム業界はまだまだ「遊び半分の怪しい業界」として見られていたと思う。銀行や証券会社、保険会社が最も人気があったバブル時代なので。
なので「ゲームプログラマーの専門学校」に行く、と子供が言い出したら、叱られたかもしれない。
当時の「ゲームプログラマー専門学校」は、今でいうところの「ユーチューバー育成専門学校」並みの認識だったとおもう。
管理人の同世代の方、もしご自分の息子、娘が「ユーチューバー専門学校に行きたい!」と言い出したら、どうしますか?自分は「ダメだ!」「そんなことにカネは出さない!」と言ってしまうかもしれない。
まあ、実際には、なんだかんだ言って、ユーチューバー専門学校で身につけた技術は、それ以外でも生かされるのかもしれないのだけど。
で、親の反対を押し切ってまで(?)入学しても、40人の定員に対し、10人しかハドソンに入社できなかったらしい。
どんだけ狭き門だったんだ?
しかも4月に入学して6月に入社試験が行われたらしい。残りの10ヶ月在籍しても
ハドソンに入社できないのです。
で、一年間のカリキュラムの最後の方で「卒業制作」を作っていたそうなのですが、この卒業制作の作品については、ネット上に情報がありますね。なかなか良い出来に思えるのだけど、それでも入社できないんですね。まあそっちは素人なので正しい評価はできないのだけど。
絶頂期のハドソンは、平岸に大きな自社ビルを所有し、それだけでは収まらずにその周辺に関連の会社が間借りするビルが多数あり、平岸はハドソン城下町の観を呈していたそうです。そしてハドソン研究所を作り、自社のパソコンスクールで人材育成まで始めた。
これ、公共事業で成し遂げたのではなく、全て民間企業の活動で達成した、というのが凄い!
当時の札幌は、ハドソンによって、まさに時代の最先端であった「ゲーム産業の街」となろうとしていました。
続く