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札幌農学校と台湾 その2

 札幌農学校と言えばクラーク博士が思い浮かびますね。

 

 クラーク博士ですが、「博士」なんて肩書がつくから「研究者」のイメージがありますが、実は元軍人。

 しかも南北戦争北軍に属し、最激戦地区で指揮を執っていた、バリバリ叩き上げの司令官!

 少佐まで昇りつめていたそうです。

 

 札幌農学校は1876年に開学し、クラーク博士は初代の教頭となりました。

 

 詳しい時期まではわからなかったのだけど、クラーク博士はそれまで、アメリカのマサチューセッツ農科大学の学長をしていたらしい。そして、学長時代に同大学に始めて在籍した日本人である新島譲が明治政府にクラークのことを紹介し、それを受けて明治政府が熱心にクラークを勧誘したことで、札幌農学校の教頭就任が実現した、とのこと。

 

 クラークは札幌農学校に、マサチューセッツ農科大学のカリキュラムをそのまま導入したそうです。

 このカリキュラムは、日本で初めての欧米式の大学カリキュラムとなり、明治政府もその導入に合わせて、日本で初めて「学士」の称号を与える権限を与えた、とのこと。

 

 こうして始まった札幌農学校ですが、そのカリキュラムは名前に反して、農業がメインとは言えない内容となっていました。

 まず、授業は英語を使用することとなり、科目も農業以外にも化学、動物学、植物学などの自然科学一般におよび、聖書を学ぶ時間もあったそうです。

 

 そして、クラークが熱心に取り取り組んだ授業が、演武場で行われました。

 

 札幌農学校の開学当時、日本では西南戦争の真っ最中。

 

 クラークは、自身の南北戦争での経験から、将来、日本でも指揮官が必要になると考え、札幌農学校の学生に軍事教育も行っていきます。

 

 演武場では体を鍛える武術などが教えられていたらしい。

 

 このクラークイズムの中で、新渡戸稲造内村鑑三、広井勇、宮部金吾などの卒業生が巣立っていきます。

 

 特に新渡戸稲造内村鑑三は、その後、国際社会の場で日本の立場を表明する役割を果たしていきます。その際に役立ったのは、英語はもちろん、聖書の授業も大きかったのでは?

 欧米列強が支配する19世紀において、キリスト教の世界を理解できたからこそ、国際社会でも振舞うことができた。19世紀の国際社会で立場を認められるには、キリスト教の信仰に沿うことも必要であったと思われます。

 

 クラーク博士は8か月で北海道を去りますが、その後もクラークイズムを継承する人物が教頭に就任していきます。

 当時の札幌農学校のカリキュラムは、日本の中でも高いレベルにあったそうです。

 

 新渡戸稲造は、札幌農学校卒業後、より高度な学問を学ぶために、東京帝国大学の前身となる「東京大学」へと入学しますが、そのレベルの低さに失望してしまい、すぐに退学してアメリカへと留学していきます。

 

 札幌農学校が教育の場であると同時に、研究の場としても発展し、リアルタイムに進行する北海道開拓の経験、知識を集積することで、19世紀に主流だった「植民地学」の国内における最先端の学校となっていきます。

 

 そして札幌農学校で得られた開拓のノウハウは、台湾開発にも生かされていきます。

 

 当時の台湾は清王朝から「化外の地」とされて、清王朝の統治下にあったとは言い難い。一方で、欧米列強は台湾の対岸にある中国大陸まで迫っていました。

 

 日本にとっては台湾も、植民地主義を生き抜くためには重要な場所。

 

 

 世界地図を見てみましょう。

 

 本州、九州、四国という「本土」から見て、北海道、朝鮮半島、台湾はどのように見えますか?

 

 もし、これらの地が欧米列強の支配下になってしまうと、「本土」はダイレクトに列強の脅威に接することになってしまう。

 

 国防の上で、看過できない事態でした。ダイレクトに接する前に「緩衝地帯」を設けなくてはいけない。

 

 これはなにも19世紀だけに当てはまることではありません。

 

 ウクライナを見てください。なぜ、プーチン大統領ウクライナに侵攻したのか?

 

 プーチン大統領の身になって考えてみましょう。(ロシア国民の、ではありません。ロシア国民は戦争ではなく平和を願っていると思う)

 

 ソ連崩壊後、多くの共和国が独立を果たします。

 しかし、かつての「東側」の国々は、次々とEUNATOに加盟していく。

 かつてモスクワと西側諸国の間には、多くの味方である東側の国が存在していたのに、それらが「西側」へと変わり、少しずつ首都モスクワに、近づいている。

 

 アメリカや西側に潜在的に脅威を持っている人にとって、それは自国の安全保障を考えるうえで容認できない事態。

 

 そして、ウクライナNATO加盟の動きを見せている。

 

 ウクライナが「西側」(死語)になってしまえば、ロシアはダイレクトに西側と接することになってしまう。

 

 ・・・・・まあ、思想としては古いので若い人にはわかりづらいかもしれないけど、そういう理由で戦争が始まってしまった。

 

 まだまだ「19世紀的思考」は残っているわけです。

 

 その上で、19世紀の首都東京から地図を見てみると、プーチン大統領の気持ちを覗けるのでは?もちろん理解なんてできないけどね。

 

 当時、東京の新政府から見て、北海道、台湾、朝鮮半島は同じように見られていたのではないか、と思われます。

 

 そして欧米の進出を防ぐためにも、これらの地域を開発して、「内地化」する必要があった。

 欧米列強の植民地統治は、現地からの搾取であったり、不利な交易を強要することでしたが、日本で「植民地」とされたそれらの地域では、そのような収奪を行うわけにはいきません。

 なんせ、欧米の植民地と異なり、本土への防壁や緩衝地帯とならなければならない。

 

 もちろん、新政府もこれらの地域に対し、19世紀的な見方をしていたと思いますが、収奪ではなく、本土と同レベルにする必要があったのでした。

 

 そしてその「先例」となった北海道開拓によって得た知見を、台湾に移植していきます。

 

 1898年から台湾総督に所属していた後藤新平は、台湾の開発に取り組み、病床にあった新渡戸稲造を熱心に説得して、台湾総督府にスカウトすることに成功します。

 

 台湾総督勤めとなった新渡戸稲造は、台湾の殖産のためにサトウキビやサツマイモの生産、改良に心を砕き、台湾の糖業の発展に貢献することになります。

 台湾の高雄市の台湾糖業博物館には、「台湾糖業の父」として新渡戸稲造の胸像が置かれている、とのこと。

 

 また、新渡戸稲造のスカウトと共に、後藤新平札幌農学校卒業生を台湾総督府に採用していくようになります。当時、後藤は、札幌農学校を、台湾の植民地事業を行うための人材供給地としていた、とのこと。

 

 こうして北海道の知識が導入された台湾は開拓が進み、ついに台湾統治は黒字となり、本土並みの開発レベルに達します。

 

 そう、北海道と台湾は兄弟と言える。

 

 

 北海道は、台湾の方に人気の観光地ですが、それは、台湾にはない雪景色や風景があるから、だけではないと思います。

 

 北海道には、台湾と同じものがあるからです。

 

 

 

 

 

 

 

 この赤レンガ道庁も、台湾総統府に似ている。

 

 北海道と台湾は、今、世界で見ると先進地域となっている。

 

 それは植民地主義が吹き荒れる19世紀に、独立を維持するために、同じ努力を経験してきた結果とも言えます。

 

 台湾は今、大変な国際状況にあるのは、日本からでもわかります。

 

 北海道がある限り、台湾は永久に孤立しません。

 

 もし、大国の脅威のよって孤独を感じたり、決断を迷ったら、北海道に来ることをお勧めします。

 同じ時代に、同じ経験をした場所です。

 

 

 ・・・・まあ、そんな大層なことじゃなくても、北海道で遊んでね。

 

 

 ああ、台湾に行きたくなってきた。

 

 

 

 追記

 

 19世紀、明治政府は北海道、台湾、朝鮮半島の開拓を急いだ。

 

 一つは完全に本土となり、一つは親日の国となり、一つは反日(?)の国となった。

 

 これら3つの地域の違いはどこにあるのか?調べてみよう!