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赤レンガ道庁 その2

 赤レンガ道庁館内の探索は続きます。

 

 

 

 

 

 これはかつて択捉島に建てられていた標柱らしい。

 

 21世紀の今でこそ、世界のあらゆる場所は「国境」で境され、国境の中ではそれぞれの国が独立を保障されていますが(そう願う)、開国直後の18世紀は異なりました。

 欧米列強による植民地獲得競争が続いており、北海道や千島が日本領である、ということも、決して国際的な認識とはなっていなかった時代。

 そして帝政ロシアが南下政策を行っている。

 

 新政府にとって、北方の国境確定と内地化は急務でした。

 

 

 

 

 

 

なんかの紙切れに文字が書いてありますね。

 

 

 

 

 

 

 これは日露通好条約の条文でした。

 

 1854年に日米和親条約を締結したのに続き、イギリスとも日英和親条約を結びます。

 日露通好条約(和親条約)は、幕府が3番目に結んだ対外条約になります。

 

 しかし、日米和親条約、日英和親条約とは性格が異なります。

 

 アメリカ・イギリスとの和親条約では、下田、箱館、長崎の開港や薪水供給などが取り決められ、日露和親条約にも同様の内容がありましたが、前2者と異なり、日露和親条約には国境に関する条文があったのです。

 

 この条約では、択捉島と得撫島(ウルップ島)の間を、両国の国境とする、とされています。

 

 問題になったのは樺太の領有問題。

 ロシアは、日本の影響が及び始めていた樺太南部の亜庭湾(アニワ湾)周辺を日本領とし、それ以外をロシア領とすることを提案。

 日本はこれを拒否し、北緯50度付近を国境とすることを提案します。

 

 北緯50度線だと、日本領の方が若干、広くなる。

 

 ただ、樺太は極寒な地域な上に急峻な山が南北を貫く地理で、開墾できる土地も限られ、農作物を栽培できる時期も限られる。しかもオホーツク海沿岸にありがちな湿地が広がる。

 

 北海道が食料基地となったのは、かなり後ですからね。開墾や湿地の埋め立てはもちろん、寒さに強い作物のための品種改良などが行われた結果。

 管理人の幼少期は、北海道の米なんて「まずくて食えない」というのが固定した認識でした。変化したのが1990年に登場した「きらら397」から。あきらかに品質が違ったそうです。そこから北海道米の味が向上し、今では北海道は日本有数のコメどころになっています。

 

 ただ、170年前の江戸時代には、そんなことを予測できるわけがなく。

 むしろ樺太は「不毛の地」とされていました。

 そのため、幕府内部でも樺太を放棄してもいいのではないか、という意見もあったそうです。

 

 日露の樺太を巡る国境問題は、なかなか妥協点を見いだせませんでしたが、最終的には「樺太には国境を設けない」ということで合意に達しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 続いての条約文は、樺太・千島交換条約です。

 

 日露通好条約締結後、樺太は日本人とロシア人の雑居の地となりましたが、クリミヤ戦争終結により国力に余裕の出てきたロシアは、樺太の開発を本格化させます。

 そのため、樺太では日露の紛争が多発するようになりました。

 

 成立間もない新政府にとって、蝦夷地の開拓だけでも手一杯なのに、その上「本土」から遠く離れた樺太の紛争にまで対処する余裕はありませんでした。

 そのため政府内でも「樺太領有派」と「樺太放棄派」の意見対立が起こり、次第に開拓使長官であった黒田清隆の「樺太放棄論」が主流となっていきました。

 

 そして1874年3月にロシアのサンクトペテルブルグにて、全権大使の榎本武揚が「樺太・千島交換条約」に調印。

 樺太全島をロシア領とし、ウルップ島以北の千島列島を全て日本領とすることで、合意に達しました。

 

 これで、日露の国境問題は一応の決着を見ることになるのですが、ロシアのアジア、極東進出は止まらず、日本は引き続き「ロシアへの備え」をせざるを得ず、北海道開拓は重要な国家プロジェクトとされました。

 

 

 

 続く