今回のお話の舞台は札幌。
それも赤レンガ道庁です。
北海道を象徴する建物で、北海道のイメージと言えば、時計台かクラーク博士像か、この赤レンガ道庁が思い浮かぶはず。ススキノはダメよ。
なんだかんだ言って、北海道の歴史には赤レンガ道庁を欠かすことなんてできません。
今回も画像をご紹介しますが、撮影は10年前とは言わないけども、コロナ前になります。現在、赤レンガ道庁は改装のために外囲いがされており、見ることができません。
2025年に公開されるらしいので、それまでお待ちください。
というわけで、これからご紹介する画像は2019年以前のものです。
真夏の札幌。八月の画像です。涼しいはずなんだけど、最近は異常だから保証できません。
なお、札幌駅近辺は、最近、かなり景色が変わっています。この画像も、決して現在のものとは一致しないのであしからず。これから5年以内に、もっと変わります。今のうちに見ておこう。
こちらが赤レンガ道庁。1888年(明治21年)に完成しました。
ちなみに北海道の開拓には欠かせない「開拓使」ですが、1882年に廃止され、北海道庁へ移管されています。
つまり開拓使はこの赤レンガ道庁を使用していません。
それでも、新政府が北海道の開拓に本腰を入れてから20年くらいしか経っていない時期に建設されたため、北海道開拓の総本部のようになっていきます。
なかなか重厚な構え。文明開化を実感させる作りですね。
それでは中に入ってみましょう!
いきなり出迎えてくれるのが、この大きな階段。
赤いジュータンがしかれた大きくて優美な会談は、「西洋式」の象徴でもあります。
館内も、なかなか風格のあるものになっています。建築に関する語彙が少なくてごめんね。
2階建てで、様々な資料室がありました。
以下、順不同ながら、ご紹介。
これは間宮林蔵。
1780年に、現在の茨城県に生まれた間宮林蔵は、農民の子どもでした。しかし算術に長けていたために幕府の下級役人に取り立てられます。
そして1799年に、国後場所に派遣されます。国後場所とは、国後島、択捉島、ウルップ島のこと。ええ、大左遷ですね。網走左遷なんか目じゃありません。
いっとくけど、網走は結構いいところよ。住めば都なんだけどね。
とにかく、国後場所に派遣された間宮林蔵ですが、その時、国後島にはあの伊能忠敬が派遣されて測量を行っており、間宮林蔵は伊能忠敬の下で測量について学びつつ、蝦夷地から千島列島のウルップ島までの測量を完遂した、とのこと。
その後、間宮林蔵はそのまま蝦夷地にとどまることになり、1807年に択捉島勤務となりますが、その時に択捉島がロシアの攻撃を受けることになります。
日本の対外的な脅威の始まりと言えば、1853年の黒船来航が最初のように思われますが、実は1792年に、ロシア皇帝エカチェリーナ2世が日本との通商を求めて、アダム・ラクスマンを根室に派遣していました。
1804年、ロシア皇帝アレクサンドル1世は、改めてニコライ・レザノフを使節として日本に派遣しますが、当時の幕府はレザノフをかなりぞんざいに扱ったらしい。
そのためレザノフは日本に敵対心を持ち、武力を持って報復することを企図します。
そして国後島、択捉島の日本の拠点、勢力地を攻撃し始めました。
ロシアはこれ以降、千島列島や樺太の日本施設への攻撃を繰り返します。
江戸から遠い蝦夷地のさらに奥の騒動のため、幕府も当初は事態を深刻に受け止めていなかったらしいのですが、その後、ロシアとの紛争に本腰を入れ始め、北方防備を強化していきます。
で、この1804年のロシアによる択捉島への攻撃の際に、間宮林蔵もそれを経験していました。
林蔵はこの時、ロシアに徹底抗戦することを主張するものの、ロシアの攻勢にあって撤退を余儀なくされます。
そう、間宮林蔵は、伊能忠敬によって測量を受けたため、当時の日本人の中でも測量技術に関しては優秀な人材であり、千島や蝦夷地の地理、風習に詳しく、アイヌ語も解することができた、蝦夷地についての専門家になっていました。
その上で、ロシアの攻撃を身をもって経験していたため、国防の観点も持ち合わせていた。
間宮林蔵が、ロシアの侵攻に備えるために、幕府から樺太の調査を命じられたのは天命であったと言えます。
1808年に樺太探索を開始した間宮林蔵は、それまで日本人が到達したことがなかった北樺太に足を踏み入れ、北樺太西岸にあるラッカにたどりつきます。
ラッカは樺太の北部にあり、目の前にはユーラシア大陸が見える場所。
しかし樺太とは海で境されている。
そう、樺太は島だったのです!
間宮林蔵と松田伝十郎は、樺太を島だと発見。その場に標柱を立てます。
その後、間宮林蔵は、鎖国の禁を犯してまで、樺太から対岸の大陸へ、海を渡ります。なお、鎖国は死罪に処される大罪です。
林蔵は対岸の大陸周辺やアムール川河口を調査し、実はロシアも極東を支配できているわけではないことを明らかにします。
ペリーの来航の50年前に、すでに間宮林蔵は、不穏な国際情勢に接していたのでした。
それは日本が、世界に吹き荒れる「植民地主義」に初めて接したとき、とも言える。
以後、100年以上、蝦夷地改め「北海道」は、植民地主義に対する日本の方針を示す地となっていきます。
続く