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赤レンガ道庁 その3

 赤レンガ道庁には、絵画も展示されていました。

 

 

 

 

 

 光が反射して申し訳ありませんが、兵隊さんが畑仕事をしていますね。

 その後ろには、何やら騎馬の列が見受けられます。

 

 

 

 

なんと、北海道を視察されている明治天皇が描かれていました。

 

明治5年(1872年)ころから始まった、開拓使による北海道開発の10年計画が終了するのに伴い、開拓使長官の黒田清隆明治天皇行幸を希望。

 

1884年8月29日から9月7日まで、明治天皇が北海道を行幸されました。宿として豊平館が建設され、札幌近郊の各地の視察が行われました。

 住民には事前に、なるべく歓迎などはせずに、平常通りにいるようにと通達されておりました。絵では明治天皇が視察されているにもかかわらず、普段通りの作業が行われていますが、これは事前の通達によるものです。

 

 

 

 

 

 

そして、なにやら厳かな場所に来てしまいました。

 

重要な会議が行われていた模様。

 

 

 

 

長官が執務をした場所でしょうか?

 

いかにも「偉い人」の座る場所、って感じ。

 

 

 

 

壁には歴代の北海道知事や、開拓使も含めた長官の肖像がかけられていました。

 

 

 

 

これは名前を見ずともわかるかもしれない。

初期の開拓使長官であった黒田清隆です。

 

薩摩藩の下級藩士だった黒田清隆は、幕末・開国の時期の最重要人物。

 

1863年に薩英戦争に参加。

 また薩摩と長州の同盟の必要を説き、西郷吉之助(後の隆盛)と桂小五郎(後の木戸孝允)とを引き合わせて薩長同盟へと導きます。

 

 戊辰戦争でも第一等に匹敵する軍功を上げ、箱館戦争でも指揮を執って、内戦を終結させました。

 その後は北海道を含む北方の開発と国境画定に尽力し、疑獄事件なども起こしつつも、北海道開拓の道筋を確立させました。

 大久保利通がテロリストに暗殺されると、薩摩藩閥の第一人者となっていきます。

 

 上記のように、大久保利通西郷隆盛にも匹敵する明治維新の第一人者に並ぶ成果をあげたものの、疑獄事件などのために人望が低く、また民衆の印象も芳しくありませんでした。

 

 で、新政府で黒田清隆にどういう処遇を与えるか、で色々と揉めた挙句、黒田を慮った明治天皇は、なんとか黒田のメンツが立つように改革を求め、その結果、内閣制度が確立することになりました。

 

 なんと、今に至る内閣制度の最初の提言者は、「権威」の長たる明治天皇だった、というのが驚き。

 

 管理人が歴史を勉強しなおして、最も印象が変わったのが明治天皇でした。

 なんとなく「天皇」は「憲法」と正反対の立場にあるように思っていたのですが、なんと今の議会制民主主義の基礎を築くうえで、実は明治天皇が大きな役割を果たしていたとは!

 

 日本では「権威」と「権力」が、互いに協力して議会制民主主義が確立したのでした。

 

 黒田清隆のお話からそれましたが、清隆は1887年に成立した最初の内閣である伊藤博文内閣のあとを受け、第2代内閣総理大臣に就任するに至りました。

 

 そして黒田が総理に在任中の1889年に、大日本帝国憲法の発布の日を迎えます。

 

 大日本帝国憲法伊藤博文が中心となって起草されたのですが。

 

 その後も黎明期の内閣制度で活躍し、1900年に亡くなりました。

 

 薩英戦争から戊辰戦争、北海道開拓、ロシアとの交渉、大日本帝国憲法の発布。

 

 黒田清隆は、この時代のすべての「大事件」に立ち会った、正に明治維新の証人。

 

 武断派の印象がありますが、榎本武揚など旧幕府側の人物の助命と復帰を嘆願したり、外国との戦争を避けるために条約交渉をするなど、実は和平派でした。

 

 「国境」という国の形を定め、「憲法」という国の骨格を定めた人物。

 

 明治維新の大英雄は、北海道の歴史に欠かすことのできない存在です。

 

 すんません、長くなったんで続く。