お話を松前藩とペリー提督との交渉に戻しましょう。
1854年5月22日に「第二ラウンド」が開かれて以来、松前藩とペリー艦隊との交渉は、一時、中断しています。
その間、ペリー艦隊は5月24日にサウザンプトン号を室蘭に派遣します。
サウサンプトン号は5月27日に噴火湾に到着し、絵鞆半島沖に近づき、室蘭港などを視察しています。
函館港は地形的にも良港なのですが、室蘭港も負けていないほどの良港です。
そして、開拓が本格的になると、小樽と並び北海道と本州の玄関口として栄えます。
道内で採掘された石炭や木材は、札幌を経由せずに直接、室蘭に送られて、船で本州へ運ばれていきました。
北海道の鉄道路線図に、その名残が見えます。明確なのは岩見沢と苫小牧を結ぶ路線。道北・道東から苫小牧へ、札幌を避けるバイパスのように見えます。これは道北・道東の産物を室蘭へ運ぶための路線でした。
話を戻します。
着々と計測を進めるペリーでしたが、松前藩との交渉では思うような成果を挙げることができていない。ペリーはかなりイラついていた模様。
特に交渉相手である松前勘解由に関して
「勘解由は明らかに無気力な男で、なにか責任をとることを恐れているにもかかわらず、全ての拒否を、穏便にあたかも我々に同意してくれることを望んでいるらしかった」
と記しています。
「察してよ〜」という感じでしょうか?日本人ならわかる心情ですね。
そう、松前勘解由はアメリカとの交渉を通じて、「言質を取られないこと」「決定権はないということ」「はっきりとは拒否しないこと」を貫いている。
勘解由からすれば、なんせ条約のことを知らない以上、なんとも言えないとしか言いようがない。幕府に無断で決めることもできないし、かといって「拒否」を明確にすると、あとで幕府から「条約違反を追求されたぞ!」と責められるかもしれない。
「お前が全権を持っているんだから、お前が決めろよ」と思うペリーにとって、この煮えきらない態度は、なんとも言えない気持ちの悪さを感じさせたようです。
真っ向から正反対の意見をぶつけられて激昂することもできず、イライラだけが募る日々。
時間を無下にしているうちに、下田での再交渉の日が迫っている。
一方の松前勘解由も、ペリーの前では涼しい顔で「おとぼけ」を演じていたものの、裏では非常に悩んでいました。
その時の様子の記録をそのまま掲載します。管理人には完全には意味がわからなかったので、誰か現代語に訳してもらえると嬉しいです。
「今日提督上陸いたし追々申聞候次第、不二容易一義ニ茂有レ之、於二横浜一何様之御約定有レ之候哉相分り兼候得共、万一異人共即出帆いたし、江府江罷越候ハヽ、如何様の義可二申出一哉茂難レ斗、左候節は実ニ不二一通一義ニ茂及可レ申候、兼而御達有レ之候ニは、万事平穏ニ取斗可レ申旨御達ニ付、是迄取扱来候得共、横浜表之義は、何分承知不レ仕候得は、真偽之程は難レ斗候得共、万一御約定ニ相振れ候義等有レ之、彼是申立候様ニ而は、以之外之義ニ付、一同深心痛いたし候」
とにかく、横浜で何が決まったのか、さっぱりわからない。
松前勘解由をはじめ、松前側が事態をかなり深刻に受け止めていたことがわかります。
ここで一つの打開策が提案されます。
ちょうどそのころ、蝦夷地の調査のため江戸から派遣された、幕臣である目付・堀織部、勘定吟味役・村垣範正、徒目付・平山謙二郎、通訳・名村五八郎、支配勘定・安間純之進、通訳・武田斐三郎の一行が、津軽海峡を挟んだ対岸の津軽・三厨まで到達していました。
なお、この中のメンバーである平山謙二郎と名村五八郎は、「幕府の手違いでペリー艦隊に同伴できなかった幕臣」でした。特に平山は、1854年2月にアメリカ艦隊が再来航した際に、ペリーの応接係を努めていた人物。
これを知った松前藩内では、すぐに三厨に使いを出して、幕府調査団に平山、名村の両名を箱館に派遣してもらうべきだ、という意見が出ます。
そして、平山・名村が到着するまで交渉を待ってほしい、とすぐにペリーに伝えるべき、と提案がなされます。
しかし藩内の慎重派は「事を急がず、ペリーの出方を見るべきだ」と主張。
この慎重意見に対し、派遣要請派は「もし、ペリーがすぐに出港して江戸に帰り、幕府に対して箱館での不満を述べると、予想外の問題が生じかねない」と、危機感を強調します。
そう、条約の内容を知らない以上、もしかしたらペリーの主張が正しいかもしれないのです。そうなると、幕府は違約を盾により不平等な内容の条約を結ばれるかもしれないし、当然、松前藩への責任も始まる。
ペリーとの直接対決ではなんとかしのいだものの、危機は迫っていた。
もはや松前藩単独で対応するには、限界が近づいていました。
松前勘解由もついに決断し、津軽の幕府調査団に平山・名村の派遣を要請するとともに、ペリーにも幕臣である両名の到着を待つように要請することになりました。
津軽で松前藩の要請を受けた幕府調査団は、本分は蝦夷地の調査にあるものの、事態の重大さを鑑み、また松前側が先にぺリーに「平山と名村が来る」と伝えてしまっていることもあり、今更、ペリーへの約束を取り消すこともできないため、調査団の中から平山謙二郎、名村五八郎の他、安間純之進、吉見健之丞、吉岡元平、武田斐三郎を派遣することにしました。
すぐにペリー提督と面会します。ペリーも横浜などで知っていた平山の顔を見て安心した様子。そのうえで、彼らが幕臣であることも確認。
これまでの経緯とアメリカ側の要求を書いた書面を平山等にわたし、平山を始めとした「幕臣たち」は、翌日、回答すると約して、その日の面会を終えます。
続く
追記
ここで登場した「幕府調査団」のメンバーは、全員、後の幕末・開国から北海道開拓時に活躍することになります。一人ずつ紹介すると
1,堀利煕(堀織部)
この後、日露和親条約が締結される運びとなり、堀は日露の国境を確定するために蝦夷地・樺太の調査のために派遣され、そのまま箱館奉行となります。
奉行在任中も蝦夷地や樺太の巡察を行いますが、その一行の中には武田斐三郎や、榎本武揚、後に札幌を作った島義勇、新政府で中心人物となる郷純造など、のちの北海道開拓の主役となる人物がいました。3名はまだ若く、この時期の蝦夷地の状況を熟知し、北海道を作って行くことになります。
堀は箱館奉行での実績を評価され、後に新設された外国奉行(幕府の外交部門)と神奈川奉行(横浜などで外国人との対応にあたる一方、外事警察のような役割も担った)に就任。幕末の外交官僚のトップとなります。
しかし後にプロイセンとの交渉中に疑惑に巻き込まれ、幕府の追求に対し、堀は弁明せずに切腹して果てました。
この疑惑を話すと長くなるのだけど、交渉相手のプロイセン外交官に問題があったらしい。
2,村垣範正
ペリーとの交渉の後、ロシアのプチャーチン艦隊の再来日に際して、ロシアとの応接係となり、台場の普請や大砲、大船の建造などに関わり、1856年7月に堀利煕の後任として箱館奉行に就任。蝦夷地の調査・移民奨励・開拓を推進しています。
箱館奉行就任中の1857年にアイヌの間で天然痘が蔓延すると、幕府に種痘のできる医師の派遣を要請し、幕府は当時、種痘の第一人者となっていた桑田立斎を派遣します。桑田は蝦夷地にて6400人のアイヌに種痘の接種を行って回復に向かわせ、蝦夷地での医療の向上に寄与することになります。
その後、外国奉行に昇進し、翌年には神奈川奉行も兼任となり、幕府外交部門のトップとなります。
1860年には、日米通称修好条約の批准書交換のための使節団の副使としてアメリカに派遣されますが、なんとポーハタン号で太平洋を渡ったのでした。そして当時のアメリカ大統領のジェームズ・ブキャナンと会見します。
最初に箱館でペリー艦隊を見たときに、まさか自分が目の前のポーハタン号に乗ってアメリカに行き、大統領と面会するなんて、夢にも思わなかったでしょうね。
村垣はその後、疑惑によって自決した堀の後を引き継いでプロイセンとの交渉にあたります。
1861年にロシアのポサドニック号が対馬の芋崎浦を占拠する「ロシア軍艦対馬占領事件」が発生した際には、箱館でロシア領事のゴシケヴィチと交渉し、退去させています。この「ロシア軍艦対馬占領事件」も、今回のお話に負けないくらいの事件ですので、調べてみてね。箱館はアメリカだけが相手だけど、対馬の事件では多国間の思惑が絡んできます。
こうして幕府を代表する外交官となった村垣は、若年寄(老中に次ぐ重職)にまで出世するも、そこで明治維新を迎え、新政府には参加することなく、この世をこの世を去りました。
3,安間純之進
ペリーとの交渉の後、箱館奉行で職を歴任し、箱館台場の建設に尽力。なんとこの功績で将軍から直接「褒美」をもらったらしい。その後、旗本として認められたものの、維新後は新政府に参加しなかった。
安間は箱館奉行在任中に日記を記しており、現在、その日記は幕末における北海道の様子が記録された一級資料として北海道立文書館に保管されています。
4,平山謙二郎
1854年2月のペリーの再来日に際し、その応接係に任命された。1857年には幕府が新たに設置した洋楽研究・教育の拠点である蕃書調所の確立に尽力し、日露の条約締結にも貢献。
しかし安政の大獄で免職されてしまう。
その後、幕府に復帰するも、第二次長州征討に参加した際に彼が献策した作戦によって、幕府側の小倉城の落城を招いてしまいます。
それでも後に将軍・徳川慶喜の側近として使えることになり、将軍の名代としてフランス公使ロッシュと会見するなど、幕府でもかなり重要な地位に上り詰めます。
しかしそれ故に戊辰戦争では幕府側の強硬派となってしまい、幕府内でも孤立し、逼塞の処分を受けることになります。維新後は徳川慶喜に従って静岡に移り、神道家として活動を開始し、大きな宗教団体のボスみたいになったらしい。
5,名村五八郎
若い頃から蘭学を学び、オランダ語の通訳となっていた名村は、1848年に松前から護送されてきた、日本に密入国したカナダ人のラナルド・マクドナルドの通訳を努めたが、このときにマクドナルドから英語を学んだとのこと。
そして1854年に日米和親条約が締結されると、その和訳を担当した内の一人となりました。つまり日米和親条約の内容に精通していたことになります。
箱館でのペリーとの交渉後は村垣範正に従うことが多く、村垣が箱館奉行に就任すると名村も箱館で勤務することになりました。
1860年の」「万延元年遣米使節」にも村垣に随伴して通訳として加わり、アメリカ大統領とも会見しています。
その後、箱館奉行は箱館市中に「英語稽古所」を開設すると、名村はその教授に就任し、多くの子弟に英語を伝授していきます。名村の指導は素晴らしく、箱館の英語稽古所は長崎通詞にも劣らない「箱館通詞団」となっていき、彼らは幕末から開国期の日本の国際化において必要とされる人材となっていった。
名村は箱館での英語教育が認められ、英語稽古所の開設4年後に江戸に呼び戻されて、幕府通訳団の中心的存在となった。
維新後は新政府に参加せず、明治9年に49歳でなくなった。
6,武田斐三郎
おそらく、北海道では知名度の高い人物。
若い頃、緒方洪庵が大阪で開いていた適塾に通い、師事を受ける。武田は優秀であったらしく、後に塾頭となりました。適塾は蘭学を教える塾で、オランダ語はもちろん、科学、医学など分野は多岐に及んだとのこと。適塾は立身出世や試験重視の勉強ではない「目的なしの勉強」が実践され、学問への興味関心が重んじられていたそうです。
そのため多くの人材を輩出し、福沢諭吉、大鳥圭介、大村益次郎らが卒業生に名を連ねています。卒業生はみな、新時代の中心となっていきました。
適塾で頭角を表した武田斐三郎は、2年後に緒方洪庵から佐久間象山を紹介され、その下で砲学や兵学を学びました。そして
武田が27歳のとき、ペリーが1853年に初めて来航します。その際に佐久間象山に連れられて、吉田松陰とともに浦賀まで行き、黒船を目撃しました。
まさか1年後に、ペリー提督と会談することになるとは想像できなかったでしょうね。
武田はその後、幕府に才能が認められて旗本として登用され、長崎でプチャーチンとの交渉に通訳として参加。
江戸に戻ると幕府から、蝦夷地を調査する幕府調査団への参加を命じられ、堀織部に従って津軽に至ったときに、松前藩からの要請を受けて箱館へ向かいます。
そしてペリーとの交渉に通訳としてあたった。
その後、箱館奉行が開設されるとそこに従事することになり、10年の間、箱館で機械・弾薬製造の任に従い、弁天台場の設計も任され、そしてあの五稜郭の建設の中心人物となります。
箱館に諸術調所が開設されるとそこの教授となり、前島密、榎本武揚、井上勝(長州5人衆の一人。開国後の鉄道行政の中心人物)を輩出します。
当時幕府では兵器国産化構想が立ち上げられ、武田はこの箱館での教授としての実績と、兵学や砲学の知識が認められて江戸に呼び戻され、江戸開成所教授や大砲製造所頭取に任命され、幕府の装備や軍組織の近代化に尽力します。
ところが戊辰戦争が勃発すると、儒学者であった兄が、倒幕派の大洲藩に関わっていたために斐三郎は幕府内で疑われ、自宅を急襲される事態まで発生します。武田はなんとか逃げ出し、師である佐久間象山の故郷であった松代藩に匿われ、松代藩の兵制士官学校の教官を務めることに。
明治維新後は新政府に参加し、日本の軍の近代化の中心人物となったほか、明治時代の科学分野の第一人者となっていきます。
そしてフランスの軍事顧問団と激しい折衝の末に、1875年に陸軍士官学校を設立させました。
しかしこのときのフランス顧問団との交渉は厳しいものとなり、武田は神経をすり減らします。開設後も士官学校の運営に奔走したため、ついに健康を害し、1880年になくなりました。53歳でした。
以上が「幕府調査団」のメンバー。
多くがまだ若かったのも事実。
幕府は、国際交渉の際に、箱館交渉に参加したメンバーを重用していくことになります。
そして全員が、その後の開国の際に重要人物となっていきます。
いや、このペリーとの箱館での交渉が、若い彼らに大きな経験をもたらした、と言える。
箱館でのペリーとの交渉は、日本の近代化にとって、ターニングポイントとなる出来事だったのです。