1854年5月17日に箱館に入港を果たしたペリー提督。
松前藩は、旗艦のポーハタン号が入港したことを知ると、奉行を派遣してポーハタン号と接触しています。
前回までにお話ししたように、松前藩は幕府から「薪水、食料の補給に応じ、穏便に対応せよ」とだけ伝えられていただけで、日米和親条約について、全く知らされていません。
一方、アメリカ側は、松前側も条約が締結されたことを知っているものと思っていた。そのため、条約に基づく対応を期待していたらしい。
結局、アメリカと幕府の間で日米和親条約が締結されたことを、アメリカ側から説明する必要がありました。
しかし、この使節団の中にはペリーは含まれておらず、いまだポーハタン号の中にいた模様。
この時のアメリカ使節のメンバーは、提督副官ポンテ、主計官ヒリ、司画官ホロンらと3人の通訳官(英語通訳、オランダ語通訳、中国語通訳)の、計6人。
6人は箱館にある豪商・山田屋寿兵衛の屋敷に案内されます。
日本側の応対役は、用人・遠藤又座衛門、町奉行・石塚官蔵、箱館奉行・工藤茂五郎の3人。
アメリカ側の「トップ」であるペリー提督が不在であったのと同様、この日の松前藩側にも全権を任されている松前勘解由は含まれていませんでした。
山田屋屋敷にてアメリカ代表は、まずはお菓子やお茶、タバコなどを供されます。
話を始めたのは、アメリカ側の通訳官ウィリアムズ。
彼は日本語で、今回の艦隊の箱館来航の理由や、一部の艦隊はいまだ横浜や下田に停泊中であることを話し始めました。
とはいえ、前述のとおり、幕府から松前藩には限られた情報しか届いていないため、松前藩も困惑してしまいます。
松前藩が当たり障りのない対応をしていると、アメリカ側は業を煮やしたのか、持参した説明文を取り出して横浜での約定について、説明を始めました。
そして、様々な「要求」がなされました。
幕府が下田で認めたアメリカ側の権利以上のものを、箱館で認めるように迫ったのです。
ペリー艦隊は日本に開国を要求するのと同時に、最初の寄港地である下田にて、アメリカ人が自由に往来すること、下田にアメリカ側の役所を設置すること、なども幕府に要求していました。
しかし通商条約の締結は避けたかった幕府は、下田でのアメリカ人の自由は行動範囲を7里以内と定めて許可したものの、役所の設置を認めると通商につながる恐れがあるため、この要求を拒否しています。
つまり、幕府が拒否した内容を、松前側に認めさせようとしていたのでした。
ここで注意していただきたいのですが、
日米和親条約では下田での往来の自由は認められたものの、アメリカ領事駐在は、3月31日の日米和親条約の中には含まれておらず、箱館から帰還した後に結ばれた日米和親条約の付録で正式に決まりました。
つまり、ペリーが箱館に来航した時点では、下田に関するアメリカの権限は一部が認められただけで、具体的にはなっていなかった。
どうやらアメリカ側は、前日の洋上での松前藩との接触で、松前藩は全容を理解していないようであると認識したらしい。
要は、「今なら相手は何もわかってないから、チョロイぞ」と。
2月に横浜に来航してから条約締結までの、アメリカ側の強引な交渉姿勢を思い出していただきたい。一年後の来航を約束しておきながら、将軍の逝去と新将軍の就任によって幕府が混乱しているタイミングを狙って、わざと半年も早く日本に交渉を求めてきたこと、最新鋭軍艦を見せつけて威圧しながら交渉を進めたこと。
アメリカ側は手段を選ばず、日本に要求をしてきた。
なお、これはアメリカだけではなく、植民地主義に支配されていた国際情勢において、欧米列強諸国がアジア、アフリカの諸国に行ってきた手法そのもの。
産業革命を成し遂げていた欧米列強は、列強諸国と他の地域の国とでは、情報伝達に途方もない技術の差があったことを、十分に認識していたようで、本国と現地の意思疎通が不十分の内に、条約や協定にない権利を現地に認めさせる、ということを常套手段としていました。もちろん、最新の軍隊の威圧のもとに。
その手法を、松前藩にも行いました。
アメリカ側の具体的な要求は、
「下田において認められた往来の自由を認めること」
「提督やアメリカ側要人に対し、寺院などの使節を、住居として提供すること」
「蝦夷の産物などを標本として持ち帰ることを認めること」
「箱館の現地の商人との売買を認め、価格表を提出すること」
等々。
前提として、3月31日に締結された日米和親条約では、下田と箱館を開港する、とは明言されているものの、具体的なものは明言されていなかった。しかも箱館に関しては「一年後に開港する」とだけしか決まっていなかった、という点。
ここで日米和親条約の開港地に関する条文だけを説明すると
第2条 下田は即時、箱館は1年後を(条約港として)開港する。
この2港において、薪水、食料、石炭、その他必要な物資の供給を受ける
ことができる。
物品の値段は日本の役人が決め、支払いは銀貨もしくは金貨で行う。
第5条 下田および箱館に一時的に居留する米国人は、長崎におけるオランダ人お
よび中国人とは異なり、その行動を制限されることはない。
行動可能な範囲は、下田においては7里以内、箱館は別途定める。
確かに第5条で、アメリカ人の行動の自由や、下田での行動可能範囲は定められていますが、箱館については、この時点では何も決められていません。
下田や箱館での細かいルールが決まるのは、前述のように、ペリー艦隊が箱館から下田に戻ってから締結された、日米和親条約の細則を決める「下田条約」の締結によって。
つまり、ペリー艦隊が箱館に来航したときには、「開港すること以外は何も決まっていない」状況だったのです。
アメリカ側は、松前藩が条約の全容を知らないのをいいことに、日米和親条約で決まっていた下田に認められた以上のものを、幕府抜きで松前藩に認めさせようとしていました。「ドサクサに紛れて」とはこういうこと。
彼らは交渉の場で有利な条件を引き出す、のではなく、交渉の場以外で有利な環境を作り、相手が不利な点を見つけて、そこに徹底的に付け込もうとする。
双方が交渉の場についた段階で、すでに7割は情勢が決まっている。
この植民地主義を隠そうとしない相手に対したのが、田舎の松前藩だったのです。
松前藩は当然のように困惑。
上記の寺院の提供要求は、箱館でのアメリカ領事の常駐所となってしまうことが疑われ、また寺院を改装してキリスト教の教会に変え、禁忌であったキリスト教の布教を認めることになりかねない、と不信を高めます。
なお、キリスト教はかなり柔軟な宗教でもあり、古代ローマ帝国の神殿を教会に変えたり、ローマ帝国時代の祝日をキリスト教の祝日に変えたりしています。
ローマにあるサンタンジェロ城なんて、五賢帝の一人であるハドリアヌスが立てた、皇帝廟だったのに、教会に変えてしまっている。
現地の宗教施設を、そのままキリスト教の施設に使用することは、フツーに行われてきました。
そして、「現地・箱館での売買の許可」ですよ。
下手すれば、幕府がなんとか退けた「通商条約の締結」につながりかねない。
これが明文化されてしまえば、箱館では通商も自由、という既成事実になりかねない。
実際、欧米列強の植民地獲得の際には、条約外のことを実行して先に既成事実を作り、された側の中央政府が、後から既成事実をしぶしぶ追認する、という手法が使われています。
それにこの要求、なんかおかしくないですか?
日米和親条約の第2条では、確かに必要な物資の売買は認められていたものの、価格は日本の役人が決める、とされている。
なのにアメリカ側が松前藩に出した要求では、価格表の提出に従って提供すること、となっている。これでは日本側に主導権があるのか判然としない。しかもそれとは別に、アメリカ側が現地の商人と売買する許可を求めている。
日米和親条約で決まったこと以上のことを要求しているように思えてきますね。
*2023年12月26日 以下の内容を追記させていただきます。
第一回目の交渉におけるアメリカ側の、この点での要求を詳しく説明すると、
「箱館の商人にアメリカ人との売買を許し、そのための仮の通貨を発行すること」を要求していました。
松前藩はペリー艦隊の来航前に、箱館の商人に対し、アメリカ人と売買してはならず、店頭で望まれた商品はそのままアメリカ人に渡すように指示しており、そのために店頭には高価な品物を並べないように、とも指示していました。
この指示によって、店頭にはアメリカ側が欲しくなるようなものは並んでいなかったのですが、その理由として松前藩はアメリカ側に、「箱館は僻地だからアメリカが望むような商品はないよ」と言い訳していました。
そんなことはないんだけどね。以前の記事でお話しした通り、松前藩はオジロワシや毛皮が豊富だったほか、アイヌを介して中国やロシアなどの珍しい品物も流入していたので、下田にはない品物もありそうなんだけどね。
良い言い方をすれば、そこは松前藩のしたたかさというか。
まあ、なんでも明確さと速さを求める「アメリカ式」に対して、田舎の松前藩はしたたかなやり方で対応していたわけです。
しかし、その後、アメリカ人が箱館市中の商店を回ってよく見てみると、なんかそれなりに良い商品が散見される。ある店では、一度商品棚を見て去った後、すぐに戻って同じ商店の棚を見ると、違う商品が並んでいた、なんてこともあったらしい。
アメリカ側は松前藩に不信を持ち、今回の交渉で「ちゃんと買い物させろ!」と強く迫ったわけです。
仕方なく松前藩側はこの要求をのみ、箱館でのアメリカ人の売買を自由にすると許可したものの、代金は役所に支払うように定めました。なんとか箱館の現地住民とアメリカとが直接、お金をやり取りする事態を避けたかったらしい。
代金を役所が受け取ることで、通商の自由がなし崩しになる事態を避けようとしていたようです。
また洋銀1枚=2朱金6の通貨比を定めました。当時のレートでは1ドル=4800銭となっていました。
このあたりは、日米和親条約を逸脱しかねない内容ですね。ペリーの要求が一部通ってしまった、と言えるかもしれない。
*追記ここまで
なお、「現地の標本の採取を認めろ」ですが、ペリーは好奇心がかなり強い人物だったらしく、航海中も気象観測や、琉球や香港など各地での標本採集に熱心だったらしい。
ちなみに、ペリーは箱館来航中に、箱館湾内でホタテ貝を採集し、これをアメリカ本国に持ち帰ります。その後、ホタテ貝が新種の貝であることがわかり、1856年に
「patinopecten yessoensis」という学名がつけられます。
「patino」は皿、「pecten」は櫛、そして「yessoensis」は蝦夷。
つまり「蝦夷産の櫛のある皿」という名前になります。
なんと蝦夷にちなんだ学名がつけられていたのです。ホタテ貝は、ペリーによって「国際デビューした」と言えますね。
さて、アメリカ側からいきなり重要な要求を次々と出された松前藩ですが、当然のように動揺します。
近代船である黒船が箱館湾にある状況で、威圧的かつ切迫なアメリカ側の要求に、幕府と同様に松前藩も圧倒されてしまいます。
しかし松前藩はアメリカ側に対し、幕府から何も聞かされていないこと、幕臣がいないので返答しようがないことを、なんとか訴えました。
この後、アメリカが要求を繰り返し、松前側が「幕府の見解を知らないので答えようがない」と繰り返すことが延々と起こります。
最終的には松前藩の「時間的な猶予をくれ」という要求をアメリカものみ、翌日の明朝九時までに松前側が返答することで、この日の「第一回交渉」は終了しました。
時間的猶予といっても、明日の朝九時って・・・。
それでも、なんの権限もない松前側が、なんとかその場を逃げ切った、と言えます。
アメリカ側は、交渉の場となった山田屋屋敷を後にして、港に向かう途中の箱館の町の様子を書き残しています。
「この館(山田屋屋敷)の側の小路を出ると、通りには20フィートないしそれ以上の幅で、一部は割石の舗道で埃はキレイに掃かれてあった。
私どもが通ったときには通りの両側に、人々は幾列にもなってひざまづいていた。
店も家も全て戸を閉めて、窓には紙が張ってあった。群衆の中には一人も女や子供は見られなかったし、大した人数でもなく騒々しくもなかった」
上記は管理人がところどころ中略しています。
その後、一行は役人や住人の民家に案内されて歓待を受け、喜んで艦船に戻っていった、とのこと。
こうして、箱館での「日米会談」の第一回目が終了しました。
松前藩はどう対応するのか?
続く