1854年5月19日午前、アメリカ側は松前藩からの回答を受け取ったところまでお話が進みました。
この後、同日の午後に、松前側の全権・松前勘解由がペリーの乗船する旗艦ポーハタン号に乗船し、いよいよ直接会談が行われることになります。
その前に、ここまでの日本、アメリカ、双方の思惑を見てみましょう。
まず、日本の松前藩側から。
今回の全権に任命された松前勘解由ですが、家老の家格に生まれたとのこと。頭脳明晰な人物だったらしく、藩主・松前崇広に見いだされて1853年に家老各に就任しています。
1853年ってことは、この交渉の前の年じゃん!抜擢早々、こんな大役を仰せつかったのだから、その苦労を想像すると同情してしまう。
なんせ、田舎の小藩なのに、異国との交渉の矢面に立たされたわけですからね。これは藩主であった松前崇広も同じだったのだけど。
この箱館での交渉後、松前崇広と松前勘解由の運命も変わっていくことになるのですが。
まあ、それはさておき、ここまで繰り返してきたように、条約締結について、松前藩および松前勘解由は何も聞かされていなかった。
踏み込んだ経緯を言うと、1854年3月30日に江戸にあった松前藩の江戸屋敷に常駐していた留守居が、急に幕閣の老中・松平忠優に呼び出され、「アメリカの船が松前あたりに行くかもしれない」と告げられた、とのこと。
日米和親条約の調印が行われたのが3月31日だから、3月30日って前日じゃん!
しかもこの日に教えられたのはこれだけ。
条約調印日となる3月31日、松前藩江戸藩邸に、今度は老中・松平乗全からの「私信」が届きました。
その「私信」にて、条約締結の経緯の一部が伝えられ、「薪水などの補給に応じて穏便に済ますこと」が指示されています。
そして、この私信は、松平乗全と松前とは「外御間柄」であるために特別に教えた、としています。
そう、松前藩の前藩主である松前昌広は、松平乗全の娘と婚約関係にあったのです。ただ、婚約の段階で松平乗全の娘が死没してしまったので成婚には至っていませんでした。それでも以降、松平家と松前家は親しい間柄になっていたそうです。
だから、松平乗全は、条約締結前に「極秘情報」を非公式の「私信」という形で松前藩に知らせたのでした。
とはいえ、最初に老中に呼び出された時点では「ペリー艦隊が来るよ」としか伝えられていなかった松前藩江戸役人にとって、この「私信」はかなり助かったらしい。
すぐさま老中の「お達し」と「私信」を松前藩に送っています。かなりの早便を使用したらしく、発信から11日後の4月11日に松前藩に「第一報」が届けられた、とのこと。
そして幕府から松前藩江戸屋敷に正式な「伝達」が成されたのが、条約締結から三日後の4月3日。それが松前藩に届いたのが4月14日くらい。
なんと、私信が先だった!この期に及んでも、幕府の対応の遅れがわかります。
ここまでが「日本側」代表となってしまった、松前藩の状況。
次にアメリカ側ですが。
ペリーの側も、幕府や松前藩の対応に不満を持っていたらしい。
もともと下田を出港する前に、ペリーは幕府に対し、幕府の役人と通訳を、艦隊に乗船させて同伴することを希望したものの、幕府側の手続きの不備により不可となり、ペリー艦隊には日本側の人間がいなかった模様。
このため、箱館到着前からペリーは現地での交渉に不安を持っており、実際に松前藩と最初に接触した際に、相手が何も知らなかったので、かなり気分を害していたようです。
しかも現地で誰がアメリカと交渉するのかもわからない。
ペリーからすれば、なんなんだこれ、と思ってしまうほどの日本のドタバタぶり。
しかし、冷静かつ明晰なマシュー・ペリー。
松前藩の対応をみて、むしろこれを利用して交渉を有利に進めようと思い始めていました。
次は、ペリーと勘解由の洋上対決をお話しします。本当に!
続く