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ペルリ提督、函館に上陸す!その5

 最初の「交渉」の翌日、1854年5月19日の午前九時ころ、約束の「回答」を受け取るため、前日の交渉の場にもいた副官ペンテ、通訳官ウィリアムズが再び箱館に上陸します。

 松前藩側も同じく、前日の交渉の場にいた遠藤又座衛門と石塚官蔵が応接にあたりました。

 

 その際、遠藤は松前藩の「回答書」を、アメリカ側に手渡します。

 

 その「回答書」の内容ですが、長い文書なのですが、ところどころ重要な個所が出てくるので、ここで全文を掲載します。

 

 

 

(前略)昨日貴下等は吾々と友交関係を維持せんことにつき語られたり。而してそのうちには、両者共に相互に権利を守る義務、親愛の惜を害することを行わざるべき義務を包含さるるや確実なり。余等はまぬかれ得ざる主要任務として、公共の建物を監視し、人民を支配するためにこの地に配置され居るなり。もし貴下らが、かかるまでにこのことを強制し、三軒の家屋を強請するとせば、貴下らの友交的声明に相反することにならざるか。
昨日貴下等が交誼に関するいくつかの細目を明らかにしたが、即ち三月三十一日横浜において、両国高官との間に一条約が締結され、それに基づいて下田においてなされたと同様、通商や休息、絵画を作成するための家屋三軒を入手することを実現するため、箱館に来りしことを説明せり。
横浜にて条約締結されたる後、それについて何等の命令も文書もなく、また貴下が浦賀からもたらした余等への通牒については、余等がいま初めて貴下等自身より知りたるもので、これらの点につき何等の証明も説明していないことは、余等の大いに不審とするところであり、しかも朝廷より何の指令を受けざる前に自ら行動を起すことは、甚だ重大なる事と断言すべきである。何ぜならば、わが封領全体に亘(わた)って苟(いやし)くもせざる慣例によれば、先ずその命令を待つべきで、余等がそれを犯す得べきことにあらず、問題の重要と否とを問わず、事国家に関することは藩公に照介し、藩公はこれを朝廷に具申し特別な命令を受けたる後に行動すべきである。貴下等は横浜および下田においてのあらゆる経験に徴し、右の如きこの国の慣例ならびに法律なることを知り居るに相違なし。されど余等が持ち居る食料品、即ち卵・鶏・鰊魚・鴨その他の商品は、たとえそれが下等品であっても、当座の供給に応じ、同様に郊外への散策、村や市場や店舗への立寄りを認めるなど、貴下等の希望する要求も許容しているではないか。云々、(『ペルリ提督日本遠征記』)」

 

 

 上の文章はコピペなのですが、一応、管理人は「ペルリ提督日本遠征記」の和訳本を購入しております。

 

 

 

 で、文章についてみていくと、

 

 まず松前側は、

 「昨日貴下等は吾々と交友関係を維持せんことにつき語られたり

 として、アメリカ側から「松前側と友好関係を持ちたい」と申し出された、と前置きしています。

 あんたらから「仲良くしようね!」と言ったでしょ!と、念押ししてますね。

 

 

 その上で、

「而してそのうちには、両者共に相互に権利を守る義務、親愛の惜を害することを行わざるべき義務を包含さるるや確実なり」

 つまり

 

 「でも、その「友好関係」には、お互いの権利を守ることや、お互いが嫌なことをしない、ということも含まれるでしょ!」

  と調子を変えている。

 一行目と対照的に少し不満気味。

 

 なんか雲行きが怪しくなってきましたね。

 

 

 「余等はまねかれ得ざる主要任務として、公共の建物を監視し、人民を支配するためにこの地に配置され居るなり」

 

 自分たちは、予期せぬ事態が起こったから派遣され、公共施設や住民の安全を守るために箱館に居るんだよ、と、暗にペリー艦隊の箱館来航を「迷惑」と訴えている。あんたらがこなければわざわざ松前表からここまできて治安維持活動をしなくていいのに、って。

 

 

 

 「而して貴下らの欲するが如く建物を提供するは、貴下らにとりては快きことなりとも、その結果は吾々にとって甚だ重く且つ大にして、人民は何人を支配者と見るべきかを殆んど知らざるに至らん。」

 

 あんたらの要求通りに建物を提供すれば、あんたらはうれしいだろうけど、こっちには迷惑だし、住民も松前アメリカのどっちが箱館を統治しているのか、わからなくなるじゃないか!

 
 松前藩が、住宅の提供を理由に施政権まで奪われるのではないか?と猜疑心を抱いているのがわかります。

 

 

 

 

 「もし貴下らが、かかるまでにこのことを強制し、三軒の家屋を強請するとせば、貴下らの友好的声明に相反することにならざるか。」

 

 アメリカ側の方から「友好関係を築こう!」と言い出したくせに、家屋を強引にねだるのなら、自分が言ったことに矛盾するじゃん!

 

 それはそうっすよね。

 

 ここまでは松前藩も、「リクツ」を並べ立てて、上手く言い返している。

 

 

 

 「昨日貴下等が交誼に関するいくつかの細目を明らかにしたが、即ち三月三十一日横浜において、両国高官との間に一条約が締結され、それに基づいて下田においてなされたと同様、通商や休息、絵画を作成するための家屋三軒を入手することを実現するため、箱館に来たりしことを説明せり。」

 

 この下りでは、前日の第一回目の会談で、アメリカが要求した内容を確認していますね。

 ここで重要なのは、アメリカ側が「下田においてなされたと同様」のことを、松前藩に要求した、という点。

 何度も繰り返すけど、この時点では箱館に関して、何一つ決まっていません。

 

 なぜ、幕府ではなく松前藩に要求するのか?

 

 条約の細部を決める下田での交渉が始まる前に、既成事実を作ってしまいたいのでは?と推察される。

 

 

 

 

 「横浜にて条約締結されたつ後、それについて何等の命令も文書もなく、また貴下らが浦賀からもたらした余等への通牒については、余等がいま初めて知りたるもので、これらの点につき何等証明も説明もしていないことは、余等の大いに不審とするところであり、しかも朝廷より何の指令も受けざる前に自ら行動を起こすことは、甚だ重大なる事と断言すべきである。」

 

 

 まず、横浜で締結されたという条約について、松前藩には幕府から何も正式書類などは届いていない、と自らの立場を説明。

 

 そして次に気になる一文がありますね。

 

 「貴下らが浦賀からもたらした余等への通牒については、余等はいま初めて知りたるもので」

 

 この文章から察するに、「ペリー艦隊が、浦賀で幕府から松前藩に渡すように、と言われた命令文」のようなものを、見せてきた、らしい。

 

 最初に松前側とアメリカが交渉した際に、松前側が条約を把握していなかったので、アメリカ側が説明する必要があった、と書きましたが、アメリカ側は「松前は条約について何もしらない」ということを確信し、松前が全容を知らない様子を見て、さらなる圧力をかけるために、「幕府の命令文」なるものを偽造した可能性があります。

 フツーに考えて、そんな重要な公文書を、交渉相手に委ねるか?

 

 松前藩はさらに猜疑心を高めたことでしょう。

 

 実際、「これらの点についてなんら証明をしていないことは、余等の大いに不審とするところであり」として、「こんなもん信用できるか!」と不満を表明していますね。

 

 

 その後、気になる文章があります。

 「朝廷より何の指令も受けざる前に自ら行動を起こすことは」

  ここで「幕府」ではなく、「朝廷」が出てくる。

 

 この一年間、歴史を語ってきましたが、その多くは朝廷と幕府の関係が成立すること、すなわち「権威(朝廷)」と「権力(幕府)」の分離が確立されるまでの過程に、文字を割いてきました。

 

 日本史とは「権力」が「朝廷」と「幕府」の間を行ったり来たりしていた。

 そして江戸時代においては、「幕府」が朝廷を完全に影響下においたはず。

 

 やはり外国との交渉となると、朝廷が出てくるのか?

 

 そう、「黒船来航」は、日本の「権威」と「権力」の関係にも大きな衝撃を与えた。

 日米和親条約以降、幕府は他の列強諸国とも和親条約・通商条約を結んでいきますが、その過程で国内では「攘夷論」が高まり、海外勢力に押される形で幕府が「鎖国方針」をなし崩しにしていく様が露呈され、「権力の実行機関」としての幕府の威厳が低下。朝廷の存在が大きくなりはじめ、存在感の低下を自覚した幕府は、「公武合体」などを行うことで、権力の正当性を維持しようとするも、いち早く西洋化に取り組んだ西国諸藩では幕府ではなく、再度、朝廷を中心とした政治革命が企図され始めます。

 

 室町幕府の威厳が低下した戦国時代において、大名は幕府を超えて朝廷と交渉を始めます、戦国の覇者となった豊臣秀吉が関白についたのも、その時は朝廷が重んじられていたから。そして、そこからようやく「脱出」した徳川家康は、権謀術数を駆使して権力を握り、「禁中並公家諸法度」にて朝廷を完全に支配下においた、はず。

 

 しかし、「異国の侵略」という、それまで想定していなかった未曽有の事態によって、世間では「幕府が政治を決めるのは、正しいのか?何が根拠なのか?」という根源的な疑問が惹起され、幕府に対するアンチテーゼとして朝廷が存在感を増し始めたのです。

 禁中並公家諸法度も、それを定めた幕府への信頼が低下していく過程で、形骸化していきました。

 

 日米和親条約の締結によって、鎖国が解かれたばかりか、「権力」の側の理論的根拠の限界も露呈してしまったのでした。

 

 話を進めます

 

 

 

 「何ぜならば、わが封鎖全体に亘って苟くもせざる慣例によれば、先ずその命令を待つべきで、余等がそれを犯す得べきことにあらず、問題の重要と否とを問わず、事国家に関することは藩公に照介し、藩公はこれを朝廷に具申し特別な命令を受けたる後に行動すべきである。」

 

 松前藩は、問題が重要かどうかは関係ない!まずは命令を待たなければならないのが、こっちの慣例だ!と、とにかく命令がなければ何もしない!と宣言しています。

 何かを決めるにも松前藩主に報告しないといけないし、松前藩主にも決定権はないので朝廷に報告しないといけない。報告後に朝廷から命令書が来てから、初めて行動できる、としています。

 

 ここでも藩主から幕府ではなく、朝廷へ報告する、となっている。まあ、朝廷に報告するには幕府を通さないといけなかったとは思うけど、当時の「体面」としては、外交上の決定権は幕府にはなく、朝廷案件、と(現実とは違うけど)されていたのかもしれない。

 ここはもっと詳しい人に聞いてね。

 

 

 

 「貴下等は横浜および下田においてのあわゆる経験に徹し、右のごときこの国の慣例ならびに法律になることを知り居るに相違なし。されど余等が持ち居る食料品、即ち卵・鶏・魚・鴨そのほかの商品は、たとえそれが下等品であっても、当座の供給に応じ、同僚の郊外への散策、村や市場や店舗への立寄りを認めるなど、貴下等の希望する要求も許容しているではないか」

 

 

 あんたら(アメリカ側)は、下田や横浜で長く過ごしたんだから、日本の慣例や法律だって知ってるんだろう!こっちが提供している食料品は、下等品かもしれないけど、ちゃんと要求通りにしてるじゃないか!

 

 そう、彼らは箱館に来る前に横浜や下田に滞在し、松前藩の上部組織の幕府を相手に交渉していたのです。外交官だったら、日本のことを熟知できているはず。

 

 そしてペリー艦隊が、二回に分けて箱館湾に入港したことを思い出していただきたい。一回目の「先遣隊」が入港してから、船員が勝手に上陸して、すでに箱館の町をすきに散策し、商店などで買い物していたのです。

 そして先遣隊の1週間後に、ペリーの乗船する旗艦が入港。

 アメリカ側からの要求も、二度目の入港の後から始まりました。

 松前藩は、それだって目をつぶっていたじゃん、と言い返しています。

 

 アメリカとしては、明確な「公式文書」に残しておきたかったのでしょうね。

 そう考えると、先遣隊の船員が勝手に上陸して行動していたのも、そのための「既成事実」を作ろうとしたためかもしれない。

 

 

 

 

 とにかく、松前藩は、アメリカ側に不満をぶつけ、「できないものはできない!」と強く宣言しています。

 

 

 松前側の反論が、思いのほか筋が通っていたためか、アメリカ側はこの回答を受けてから、使節団内で会議を行った模様。

 

 その後、アメリカ側が説明をはじめ、「家屋の要求については、それは漢文が使われているため、官邸や役所の意味で間違って伝わってしまった。」として、「誤解だよ~」と言っている。

 その上で改めて、寺院を要求したのは、一時的な休息所を望んだだけで、宗教施設に使うつもりはなかった、と話しています。

 

 これ、信じられます?

 

 だって、本物かどうかも怪しい「幕府から預かった命令書」を、いきなり出してきたし、前日の要求についても「漢文の間違いだった」と言ってる。

 

 松前藩から予想外の回答が来たので、とりあえず引いた、と見えてしまう。

 

 

 ただ、松前側も、それが「でまかせ」かどうかは別にして、この場を終えるために、この説明を受け入れた。

 

 そして、後で、松前側の全権を委任されている、家老・松前勘解由が、ペリーを訪問する意向を伝えます。

 

 アメリカ側も、松前勘解由の訪問を受諾し、一旦、艦船に戻りました。

 

 

 

 次回は、いよいよ松前側の主役が登場!

 松前勘解由の「こんにゃく問答」が始まるよ!!