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ペルリ提督、函館に上陸す!その7

 1854年5月19日の午前の会談後、アメリ使節は艦隊に戻ります。

 

 そして同日の正午頃、松前藩の全権である松前勘解由が、ペリーを表敬訪問するために、数名の家臣と共に船でアメリカ艦船へ向かいました。

 

 徐々に近づくアメリカ艦隊は、巨大でした。

 

 それまで日本で一般的な船と言えば、一枚帆の弁財船で、大きい千石積船クラスで100トン、主流だった廻船で50~80トンくらい。

 

 それに対しペリー艦隊は、「先遣隊」で帆船であったサウザンプトン号が567トン、ヴァンダリア号が770トン、マセドニアン号が1726トン!

 帆船でも日本の船を圧倒していますね。しかもそれぞれ6~8門の大型砲台を搭載している。

 

 そしてペリー艦隊の第二陣は、幕府や江戸住民の心胆寒からしめた蒸気船。

 ミシシッピ号が1692トン、ペリーの乗艦する旗艦・ポーハタン号に至っては2415トン!!!

 

 5隻にはそれぞれ300人くらいが乗船していたそうなので、合計1300人の「アメリカ兵」が、地方の松前藩にやってきていたのです。

 
 正直、装備から言っても、アメリカが武力で松前を占領することは可能だったと思われます。

 

 しかも船と言えば輸送船しかなかった当時の日本。戦闘に徹した「軍艦」なるものを見るのも初めて。

 確かに姿を見ただけで、幕府が狼狽えたのもわかります。

 

 その上、船足も早かった。

 当時の日本では北回り船もしくは西回り船という、箱館から敦賀へ向かう便や、箱館から下関を経由して瀬戸内海に入り大阪へ向かう航路が発達していました。日本海の方が航海がしやすかったためです。

 それに比べて、箱館から太平洋を通って江戸へ直接向かう東回り航路は、北回り船や瀬戸内航路と比べて危険が高く、日数も日本海ルートよりも多くかかっていました。江戸ー箱館の船の日数は20日間もかかったそうです。

 

 この難しい東回り航路を、ペリー艦隊はたったの4日で通過してしまったのです。

 

 自らが乗船する船が巨大軍艦に近づくたびに、松前勘解由は何を思ったか。

 

 こんな軍艦の中に入っていったら、「YES」というまで帰ってこれなさそう。

 しかも対応を間違えたら、本当に箱館を占領されるかもしれない。

 

 箱館や、その先の北海道の歴史の如何が、松前勘解由にかかっていたのです。

 

 

 一方、松前側を迎える前に、ペリー艦隊は、旗艦を一時的にポーハタン号からミシシッピ号に変更し、ミシシッピ号で松前藩使節団の応接にあたることになります。

 

 

 松前藩使節は、副官ベンテ、通訳官ウィリアムズの出迎えを受け、ついにミシシッピに乗船します。

 

 松前一行はベンテ、ウィリアムズの案内により客室に到着。

 

 入口で松前勘解由を出迎えたのは、なんとペリー提督でした。

 

 これが幕府を脅かした、異国の提督。

 たった一人で、日本を震撼とさせている人物。

 

 勘解由には、ペリーはどのように見えたのか?

 

 船室には饗応の用意がしてあり、、ペリー提督は一行を席に案内します。

 

 この「会食」の松前側の出席者は、松前勘解由、遠藤又座衛門、石塚官蔵、関央、蛭子次郎、金田善右衛門ら。

 

 一方のアメリカ側は、ペリー提督をはじめ、副提督ベンテ、通訳官ウィリアムズ、提督秘書官ペリー(マシュー・ペリー提督の息子)。

 

 全員、着席の後、お菓子やお酒、料理などが振舞われます。

 

 饗応が進む中、口火を切ったのはペリー提督でした。

 

 「幕府と和親条約が結ばれたのだから、藩主自らがここにきて、自分たちを出迎えるべきだ。藩主自身の来訪がないのであれば、提督自らが松前表へ出向かなければならないのか?」

 

 と不満を表明。

 

 確かに、ペリーは大国・アメリカの大統領から全権委任されている立場であり、日本の中央政府である幕府とも交渉してきた身。

 一国の代表が来ているのだから、地方のトップが出迎えて然るべきではあります。

 

 アメリカの日本駐在大使が北海道に来たのに、知事がわざと会わずに、代理の下級の者をよこす、というのは、確かに失礼に当たるかもしれない。

 

 この不満は、箱館に来訪した当初からペリーが持ち続けていた不満であり、機会があるたびに松前側に、藩主との会合を要求していました。

 

 ペリーからの第一声は、決して友好ムードを演出するようなものではありませんでした。

 

 いきなり険悪な空気が漂い始めた松前アメリカのトップ会談。

 

 

 このペリーの攻撃的姿勢に対し松前勘解由は、「日本の慣例から、藩主が松前を離れることができないので、自分が代理として全権を託されてここにきている。」と、日本の習慣を上げたうえで、自分は全権を任されているから、交渉する相手としては藩主が来ているのと同じである、と、ペリーの不満をやんわりと受け流します。

   

  しかし、なんだかスッキリしない回答ではあります。

  確かに具体的な交渉をするには問題ないのだけど、ペリーはアメリカ代表としての自分のメンツから、藩主自身の来訪を要求している。

 勘解由はやんわりと矛先をかわして、論点を違うほうへもっていってしまいましたね。

 

 これは、「箱館交渉」の全般にいえることですが、ペリーの威圧的で攻撃的な口調に対し、勘解由は終始、「なんかスッキリしない回答」で応戦します。

 明確な返事を求めるペリーを、わざとイラつかせているかのような。

 

 ペリーにとって松前勘解由は、一番、やりにくい相手であった、と言えるかもしれない。

 

 そして勘解由は、ペリーから「スッキリしない感じ」が消えないうちに、すぐさま返す刀でペリーにたたみかけます。

 

 

 「条約は明年の発効のはずなのに、アメリカ側は条約にないことを要求しているではないか!」

 

 

 そう、この段階では、箱館に関しては条約は発効していない。

 

 松前勘解由は、わずかな情報から、この点を抜き取ってペリーにぶつけた!

 

 気持ちも整わないうちに、勘解由の明瞭な反撃を受けたペリーは返答に困り、攻撃的な姿勢から一変し、

 「(それらの要求は)条約後に(幕府)高官と取り決めたものであるから、もし勘解由に全権があるのなら、今回の来訪に際してこれを締結したい」

 と苦し紛れに答えます。

 

 お分かりですか?ペリーは譲歩してしまった。

 

 これまでは「幕府と話し合って決めたのだから認めろ!」と、幕府と合意されているとウソをついて、松前には「認めろ!」という要求のみを繰り返していた。

 それが勘解由に反論されたことで、ペリーが主張する「幕府との取り決め」なるものが、「条約後に高官と話し合って決めたものである」という言質を松前側に与えてしまった。つまり明文化されていない、と。

 もちろん、「条約後に高官と話し合って決めた」もウソです。

 ペリーもなかなかのクセ者。要求自体を取り下げようとはしていない。

 

 ただ、勘解由に一本取られてしまったのは事実。

 

 

 このペリーの返答に対し、松前勘解由は

 

 「自分はこの地方の全権をゆだねられているが、自分も藩公も共に朝廷の指令なくしては、アメリカとの交渉の範囲を決定しかねる」

 

 と返答。

 

 そして、これをもって、この日の交渉を打ち切ってしまいます。

 

 

 ペリーの「先制攻撃」に対しては、柳の如く受け流し、相手がひるんだ隙に理をもって刺す。これによって、これまで強気だったペリーを、「お願いする側」にしてしまった。

 そして、決定権はないとして話を打ち切る。

 

 これまでの交渉で、松前側は、アメリカは急いでいる、と感じたようです。

 

 アメリカ側とは情報量に大きな差があった中で、わずかなことを手掛かりにアメリカ側を分析し、「直接対決」の場でそれを実行した。

 

 松前勘解由と応対役の作戦勝ちですね。

 

 

 この後、ペリーは松前一行よりも早くポーハタン号に帰還します。

 その直後、箱館湾が「大しけ」となったために松前一行は船を出ることができなくなってしまいます。そのままミシシッピー号に居残って、アメリカ側の配慮によって、大砲や装備、船室など、艦内の様々なところを見学させてもらったそうです。

 案外、アメリカ側も寛容ね。

 そして午後4時ころ、ミシシッピー号を後にしました。

 

 

 これがペリー提督と松前勘解由の直接対決の第一ラウンド。

 

 

 アメリカとの外交交渉は、北の地でも行われていました。

 

 

 

 続く