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ペルリ提督、函館に上陸す!その9

 1854年5月21日、箱館では、松前藩アメリカとの「開国交渉」の真っ最中。

 

 ペリーからの強引な要求を受け、松前勘解由は、努めて冷静に返します。

 

 

 「箱館の遊歩区域について、同地を視察した上で決めると林大学頭と合意しているというのであれば、江戸に行ってから林大学頭相手に協議すべきである」

 

 と、至極真っ当な返答をします。

 誰もが、こういう返答を思い浮かべたでしょう。

 しかし、この交渉は、黒船艦隊の威圧の下で行われている。

 「喉元に短刀を突き付けられている状況」だったのです。この返答をするには、相当な勇気と覚悟が必要。

 

 松前勘解由はさらに続けます。

 

 「この場ですぐに決定したい、という要求は、「箱館については後日、決定する」という条約文と異なる」

 

 と反論します。

 

 「条約文と異なる」とは、すなわち日米和親条約の第五条。

 何度も繰り返しになりますが、第五条では下田での遊歩区域を7里と定めていますが、箱館については別途交渉して決める、となっている。

 

 松前勘解由は、条約に関する全容について完全には把握していないものの、断片的な情報はちらほら松前側に入り始めており、わずかな情報からペリーにやり返している。

 

 

 ペリーもこの返答で、計算に少し狂いが生じてきていたらしい。

 松前勘解由が、想定外に条約に関する具体的な内容をもとに反論してきたため、松前側がどこまで条約を把握しているのか、つかみきれなくなっていた模様。

 

 しかも松前勘解由からは、なかなか理屈のある返答が返ってくる。

 ハッタリが過ぎると、返って勘解由に弱みを握られることになるかもしれない。

 

 

 ペリーは慎重に言葉を選びつつ、

 

「後日決定する、という条文は、箱館で決定するという意味だ」

 

 と主張。

 

 ペリーもなかなかやりますね。

 

 確かに日米和親条約・第5条では「箱館については別途決める」としか書かれていない。

 「いつ、どこで決めるか」について、全く決まっていないのです。

 確かに箱館で全権を任されている松前勘解由に迫る「リクツ」は成り立ちます。

 

 さすがに列強の一角である大国・アメリカを代表しているだけあって、国益を引き出す交渉術に長けている。

 

 

 このペリーの「リクツ」に対し、松前勘解由は

 

 「自分はこの地方を管轄する地方政府の代表であって、その役目は中央政府から受けた命令を守ることだけである」

 

 として、自分の立場では中央政府である幕府の命令を守ることだけしかできない、と改めて表明した上で、

 

 

 「ペリーが要求している交渉内容は、とても重大であるため、中央政府の命令がなければ、(松前藩は)決定することはできない。江戸の幕府に問い合わせ、命令が来てから、この件について回答する」

 

 

 と答えます。

 松前勘解由の返答は一貫している。

 「地方政府の自分には、国の方針に関わることについて決定する権限はない」

 黒船の大砲が向けられる中、勘解由が突破する道はこれしかなかった、ともいえる。

 

 

 しかし、これまで何度も松前藩と交渉してきたペリーは、松前勘解由のこの回答も想定済みでした。

 「そらきた!」と言わんばかりに、以下のことを話し始めます。

 

 

「林大学頭は、50日後に幕府側の役人が来て、遊歩区域を決めるといったが、その幕府側の役人が来ていないじゃないか!幕府側の役人がいないばかりに、遊歩区域の決定もできない。幕府側の役人がいない以上、松前勘解由が交渉相手となり、決定すべきだ。

 松前勘解由は地方の代表で中央政府の命令がないと行動できないというが、その中央政府の代表がいないのだから、松前勘解由がそれに代わる、というのは、大きな問題ではないのに、なぜ交渉を渋るのか、甚だ疑問である。今、勘解由が下田の事例にならって決定すれば、それで済むじゃないか!」

 

 

 繰り返しますが、幕府の手違いで幕臣がペリー艦隊に同行できなかったのは事実。しかし同行予定だった幕臣には決定権は与えられていません。

 それでもペリーはそれを「幕府のミスで交渉できない」と拡大解釈して、勘解由に要求をのむように交渉している、否、脅迫している。

 

 もはやこの会談が、話し合いではなく「脅迫」であることを隠さなくなったペリーは、勘解由に、トドメと言わんばかりに強烈な脅し文句を投げつけます。

 

 

 「箱館に来るまでにかかった費用と、今までの滞在に要した費用は甚大であり、1万両余になる。そのため、(幕府からの返答を)長く待ち続けることはできないので、即時決定すべきである!」

 

 

 ペリーは、松前勘解由が決定を避け、時間稼ぎをしていることに気づいていました。

 

 「無駄な時間」のためにアメリカ側に損害が出ていることを強調し、これまで同様、勘解由に決断を促しつつも、今度は以下のことを付け加えます。

 

 

 「もし、それができないならば、江戸に行って林大学頭と直談判せねばならぬ。また先に、50日後に箱館で遊歩区域の件を決めることを「国政」(おそらく中央政府の意味。すなわち幕府)が許したのに、今、定めることができないというのであれば、これは「国政之失約」、すなわち「幕府がアメリカにウソをついた」ことになる。

 したがって、林大学頭は上記の費用を「償還」しなければならない。

 これはまさに両国の「和好」ならざることであり、その「罪」は「国政(=幕府)」にある!!」

 

 

 露骨に松前勘解由を脅迫している!!

 

 松前勘解由が決めないのであれば、それは「日本とアメリカとの公約の違反」である!として、国家を出して、地方の小藩の代表である松前勘解由に圧力を加え、その上で「お前が決めないのなら、幕府の林大学頭に言いつけ、国家賠償を求める!」とまで言っている。

 

 ここで松前勘解由の立場になって、もし本当にペリーの言う通り、日米和親条約で函館について、現地で決めなければならない」とされていたら?と考えてみましょう。

 

 松前藩が勝手に「国家間公約」を破ったことで、アメリカが激怒するのは必至!ただでさえ弱腰の幕府は、ペリーの言うとおりに思い賠償金を課せられるばかりか、「違約された!」を口実に、日米和親条約を、アメリカ側に有利な内容に変えるように、さらに要求されるかもしれない。

 

 そうなれば、当然、幕府から松前勘解由の責任が追及され、そればかりか松前藩自体が重大な処罰を受けるかもしれない。取り潰しとなってもおかしくない。

 

 暗に中央政府の林大学頭の名前を繰り返しているところに、ペリーがかつてないほど、勘解由を追い詰めようとしているのがわかります。

 

 

 ここでペリーは「50日後に箱館で協議・決定すると林大学頭と協議済み」としていますが、この「50日」と言う数字は、おそらく3月31日に日米和親条約が締結され、ペリーの即時開港が決定したことが由来と思われます。

 

 この3月31日に、ペリーと林大学頭の会談が行われたのですが、その際、ペリーは下田開港に係わる細則を、下田ですぐに協議したい、と主張しています。

 これに対し林大学頭は、「まだ下田奉行ができていないので、その設置のために50日くらいは待ってほしい」(管理人意訳あり)と返しています。 

 そう、条約締結時点では、開港した下田には対応するための奉行ができていませんでした。下田奉行が設置されたのは1854年4月21日のこと。

 この林大学頭の返答に対し、ペリーは「50日が必要というのはわかった。その間に我々は箱館港を見ておきたいので、よろしいか?」と許可を求め、林大学頭も了承しています。

 

 ペリーが松前勘解由に「50日」と言ったのは、この時の林大学頭との会話で出た「50日」が根拠となっているようです。

 

 しかし!このペリーと林大学頭の会話には続きがあるのです!

 

 この時、林大学頭は、ペリーに対し、箱館見学を許可するとともに

 「ただし、箱館へは見学にいくことだけに限る」

 と念を押しており、それに対しペリーも「承知した。」と返しています。

 (上記のやり取りは、漢文であったため、漢文に弱い管理人の意訳・推測も入っています。あしからず)

 

 そう、ペリーは、林大学頭に、箱館で勝手なことをしない、と確約しているのです。

 

 なのにヌケヌケと「勝手なこと」をやっている。

 

 しかも「50日」という言葉は確かに出ている。

 

 拡大解釈、事実の捻じ曲げ、ハッタリ、でっち上げ。

 

 どんな手でも使ってくる。

 ペリーは虚実ないまぜにして、いまだ全容を把握していない松前勘解由にゆさぶりをかけています。それも黒船の大砲を向けながら。

 

 

 追い詰められた松前勘解由。どう返答するのか?

 

 

 

 続く!