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ペルリ提督、函館に上陸す!その8

 アメリカ艦船での「第一ラウンド」から2日後の1854年5月21日、アメリカ側から伝達使が来て、「明日の午前11時ころにペリー提督が上陸し、一同と会見したい」との申し出を受けます。

 

 ここから松前側はてんやわんやの大騒ぎになります。

 

 応接の場所はどこにするか、その応接室のしつらえなど、様々な準備に追われます。

 また、5月19日に松前一行がポーハタン号を訪ねたときに饗応を受けているので、こちらもペリー提督をはじめ使節一行に相応の饗応をしなければならない、と酒や料理の手配が始まり、かなり気を使われていた、とのこと。

 

 

 そして1854年5月22日、箱館の沖の口にて、ついにペルリ提督が上陸し、函館の土を踏むことになります。

 

 日本の開国の歴史に欠かすことのできないこの人物は、確かに北海道に上陸していたのです。

 

 

 箱館に上陸したペリー一行は、5月18日の会談場所となった山田屋屋敷に案内されます。

 

 

 案内された会見所にて、まずアメリカ側が、今回の交渉の出席者の名簿を提出。松前側も出席者を紹介して、一堂、着座します。

 なお、松前側の出席者は、全権・松前勘解由を筆頭に遠藤又座衛門、石塚官蔵ら、アメリカ側にとっては「いつものメンバー」でした。

 

 

 こうしてペリーと松前勘解由の「直接対決」第2ラウンドがはじまりました。

 

 

 会見の冒頭、アメリカ側の通訳官ウィリアムズが、松前勘解由に対し、本当に全権を委任されていると確認できる信任状を見せてほしい、と要求します。

 

 前回の「第一ラウンド」で、ペリーはこの点で勘解由にやり込められていましたね。

 

 ただ、アメリカ側も、箱館滞在中に誰と交渉してよいのか、わかっていませんでした。最初の洋上会見で、勘解由からは言葉だけでは「全権が任されている」と言われたものの、本当かどうか不審に思っている様子が見て取れます。

 

 これに対し、遠藤又座衛門は、4月17日付で松前藩主・松前伊豆守(崇広)から松前勘解由に下された手控書、すなわち全権委任状を公開します。ペリー側はそれを漢文にすることを要求し、松前側も応諾して漢文に翻訳しました。

 この漢文を見て、アメリカ側は初めて松前勘解由が全権を任されていることを信用したようです。

 するとペリーはすぐに藩主との会見の要求などを取り下げ、松前勘解由との交渉のみに専念するようになりました。

 この辺りのペリーのビジネスライクっぷり、というか、無駄なことに時間を割かない、というか。切り替えが早いですね。

 ただ、実際、ペリーも急いでいました。6月の中旬頃から、下田にて日米和親条約の細部を決めるための幕府との交渉が始まる予定になっていたのです。

 

 交渉相手を見定めた後、アメリカ側からの要求が始まりました。

 

 ペリーはこの日の「直接対決」において、要求項目を一つに絞っていました。

  

 それは、「箱館での遊歩地区の設定と範囲」について。

 つまり、箱館アメリカ人が自由に行動できるように認めろ!と。

 

 これは日本の主権にまで及びかねない、重大な問題です。

 

 

 懸案となっていたのが日米和親条約の第五条について。

 

 

「第5条
  • 下田および箱館に一時的に居留する米国人は、長崎におけるオランダ人および中国人とは異なり、その行動を制限されることはない。
  • 行動可能な範囲は、下田においては7里以内、箱館は別途定める。」

 

 

 繰り返しますが、条約では「箱館については別途定める」とある通り、日米和親条約では箱館について、何一つ決まっていない状態。

 

 しかし、松前藩は、いまだ条約の全容を知りません。

 

 ペリーの狙いは、相手が事態を理解していないうちに、条約にない権利を得ること。

 

 そして、幕府抜きで勝手に決めた「権利」をもって、下田の再交渉の場で「既成事実」を認めさせ、有利な条件を獲得すること。

 

  

 ペリー提督は強い調子で

箱館の遊歩区域については、同地を視察した上で決定することを江戸での交渉相手だった林大学頭とすでに決定済みである」

箱館での交渉相手になるはずであった幕府の役人がいないのだから、全権を任されている松前勘解由がこの場で、即刻決めろ!」

 

 と、まくしたてます。

 

 そして、

 「下田は狭い土地だったので行動範囲は7里としたが、箱館は広いので10里とする」

 と要求しました。

 

 

 ペリーの主張する幕府側の役人の不在ですが、以前、お話ししたように、ペリー艦隊に乗船するはずだった幕臣が、幕府の手違いで乗船できなかった、のは事実です。

 だから、松前勘解由が幕府の代理としても交渉し、決定すべきである、とペリーは訴えている。

 が、これもペリーのハッタリです。幕府は幕臣を乗船させることに同意したものの、その幕臣には箱館のことを交渉・決定する権限は与えられていなかったためです。幕府としては、あくまでも付き添い役の同行を認めただけ。

 

 ぺリーは最初は幕府の交渉相手がいないことに戸惑い、不安を感じたものの、現地で松前側と接触しているうちに状況を理解し、さらには松前側はそれ以上に困惑していることから、むしろこれを交渉で前面に出そう、と判断した模様。

 ペリー自身がはなしているように、箱館の遊歩区域の範囲は箱館視察を終えた後に、幕府側の交渉窓口である林大学頭と交渉して決めることになっていたので、現地で決めるには無理があるのだけど、その話の隙間を、幕府のミスによる交渉相手の不在を理由に、松前勘解由相手に強引に迫って押し切ろう、としているのがわかります。

 ペリー自身が自覚している「無理筋」を埋める「リクツ」は、もちろん黒船艦隊での威圧です。

 

 忘れてはいけないのが、松前側は、箱館湾に停泊している黒船艦隊の大砲が向けられている中で、交渉させられていること。

 

 現代の裁判所や商談ではないのです。軍事力を背景に脅されているのです。

 

 実際、ペリーはこれまでの幕府との交渉でも、かなり強引に要求を認めさせています。それもこれも「黒船艦隊」という、暗黙の威圧があればこそ。

 

 その上で、下田よりも範囲が広い10里四方を、アメリカ人が自由に行動できるように要求している。

 

 松前勘解由は、箱館で、ペリーと対等に接しているのではないのです。喉元に刀を突き付けられながら、交渉しているのです。

 

 

 ペリーは箱館においても、黒船を使って脅して認めさせようとする姿勢を変えていませんでした。

 

 

 松前勘解由は、どうするのか?

 

 

 続く