松前藩に対し、もはや幕府に対したのと同じ脅迫姿勢を隠さなくなったマシュー・ペリー提督。
松前藩の全権・松前勘解由に対し、箱館での遊歩地区についての即時認めることと、認めないならば賠償せよ、と迫ります。
地方の小藩でしかない松前藩に、国家間の関係を持ち出している。黒船の砲艦を背後に並べて。
追い詰められた松前勘解由は、次のような反論をし始めます。
「先日、アメリカ兵が勝手に寺院に入って博打をし、商店に入って品物を持ち去り、勝手に垣根を超えて松前藩官舎に入るなど、治安を乱す行いが頻発している。その粗暴は狂人のごとし」(意訳あり)
と強く抗議しています。
実は、5月19日に行われた、ペリーと勘解由の両名が不在の第一回交渉で、箱館市中での売買について合意がなされた後から、アメリカ兵たちが原因の「事件」が多発していました。
勘解由の抗議にある通り、箱館の治安が悪化し、特に現在進行中の会談の前日にあたる5月20日には、気性の荒いアメリカ兵が戸締りをしていた家屋に押し入り、暴れたため、松前藩の藩士が取り押さえるも藩士にも暴力を振るった、という事件が起こったそうです。しかし松前藩も、狼藉をしたアメリカ兵に下手に逆らうと、新たにアメリカ側と争いになってしまうかもしれない、と対応に苦慮していました。
松前勘解由はこの事件を前面に押し出し、
「先日のアメリカ人の市中での勝手な行動は、箱館の遊歩区域のことは、後日決めるとした条約・第5条に違反しているじゃないか!
また、条約・第2条にある薪水・食料・石炭をはじめ、その他の欠乏品の供給にもこちらはきちんと応じている。なのにアメリカ人たちは店に入って勝手に商品を持ち出すばかりでなく、その価格も聞かずに一方的に洋銀を投げつけ、立ち去ったではないか!これは日米和親条約・第8条に違反しているじゃないか!」
と、さらに反論を重ねます。
ここで出てきた日米和親条約・第8条ですが、
「第8条 物品の調達は日本の役人が斡旋する」
と、あります。つまり、アメリカ側は箱館で物品を調達する場合は、日本の役人を通じて手に入れなければならない、ということ。
なのにアメリカ側は、勝手に市中で売買をし、それ以上に窃盗まがいのことまで引き起こしている。
これは第8条違反と言われても仕方ない。
さらに言えば、アメリカ側は勝手に洋銀を投げつけてよこす行為は、第2条にある「値段は日本の役人が決める」という部分に抵触している。
松前勘解由は、これら複数の「条約違反」を並べ立てて、アメリカ側は条約を守っていない!と非難します。
さらに言えば、条約にはないこの2点を認めさせた5月18日のアメリカ側からの要求事態が日米和親条約に違反している、とも暗に訴えている。
「アメリカ側は、条約を遵守しろ!と言いながら、アメリカ人が条約に違反する行為をしているじゃないか!」
ここまでペリー提督は、「横浜で締結された日米和親条約の決定を実行せよ!」と松前勘解由に迫っていました。
そのアメリカ自身が、条約に違反する行為を行っている。
松前勘解由は、条約をもとに攻めてくるペリーに対し、同じく条約をもとに反論しています。
ペリーの「ヘ」がつく「リクツ」に対し、勘解由は真っ当な「理屈」で返している。
この勘解由からの想定外な反論を受けたペリーは答えに窮し、「船員の中には道理をわきまえない者がいる」と弁明したものの、それまで。
「条約違反」の指摘については、ペリーは何も反論できませんでした。
松前勘解由は、ついにペリーを黙らせた。
黒船来航から始まった日米交渉において、初めて日本が交渉の主導権を握ったのでした。
分が悪くなったペリーは、これ以上、交渉を続ければ、さらに松前勘解由に反論され、要求自体が消滅しかねない、と察したのか、この日の交渉はここまでとし、ペリーが要求した件について、夕方までに回答するように松前勘解由に要求して、山田屋屋敷を後にしました。その際、帰りの道すがら市中を見学する許可を(条約に基づいて)松前側に求め、了承を得ています。
この日の交渉は1時間で終了。
ペリーは、函館の町の中を初めて見学し午後2時ころ、ポーハタン号に帰艦しました。
その日の午後4時ころ、副官ベンテ、通訳官ウィリアムズが「回答書」を取りに松前藩役所を訪ねます。
松前藩側の回答は、「遊歩区域を決定することを拒否する」というものでした。
こうして、ペリー提督と松前勘解由の直接対決の第二ラウンドは終わりました。
松前勘解由は、もはや脅迫者と化したペリーに対し、ある時は柳のように受け流しつつ、隙を突いて理を持って突き刺すことで、なんとかしのぎました。
結果、ペリーはまたもや具体的な成果を得ることはできず、勘解由は逃げ切ったのでした。
続く