箱館を後にしたペリー艦隊は、下田に到着。
下田にて、日米和親条約の細部を詰める協議が始まりました。
この下田での交渉で、箱館については2点が決まりました。
一つは、箱館では石炭の補給をしなくてよくなったこと。
二つ目は、遊歩区域の広さについて。
で、下田でもペリーは揉めたそうです。
幕府は当初、箱館交渉にも関係した村垣範正の「箱館に遊歩区域については、現地調査をした上で、来年3月の開港時まで決定しない方がいい」という意見を受け、ペリーに「来年3月に決定したい」と伝えたところ、ペリーはこれを強く拒否!
幕府に即時決定を迫ります。ここでもペリーは決断を急がせますね。
松前勘解由は、急かすペリーにノラリクラリと受け流しますが、幕府はそれができなかった。
黒船の大砲を背にしたペリーの脅しにより、しぶしぶ遊歩区域を3里四方とすることを提案しますが、ペリーはこれも拒否し、逆に下田と同じ七里を要求。
結局、両者の間をとって、箱館での遊歩区域は5里四方と決定しました。
結局、幕府はまた、ペリーに屈してしまった。
まあ、松前勘解由は「地方代表だから決める権利はない」という言い訳ができたけど、決定権のある幕府にはそれは使えなかったので、仕方なかったのかもしれないけど。
1854年6月20日、下田にてペリーと林大学頭は、13か条からなる日米和親条約付録、通称「下田条約」の条約文書に署名。
日本を、新しい時代に引き込んだ日米和親条約の一連の交渉は、これにて全て終了することになります。
1854年7月24日、箱館に箱館奉行が設置され、外国との窓口や蝦夷地開拓の拠点となっていきます。
幕府はその後、同年10月14日にイギリスと「日英和親条約」を結んで長崎と箱館を開港し、10月23日にはオランダにも下田、箱館を開港することになります。
そのため箱館は、アメリカのみならず多くの国に開かれた港町となっていき、名実ともに日本のどこよりも早く「新時代」に突入していくことになります。
しかし、欧州で1853年にクリミヤ戦争が勃発。
当初、ドナウ川、クリミア半島付近に限られていた戦場が広範囲に広がり、極東のカムチャッカ沖でも戦闘が起こり、その影響の一つとして、1855年、箱館にフランス軍艦が箱館に入港します。箱館は多くの国に開かれた港となっていましたが、フランスとは条約を結んでいませんでした。
ここから、箱館はクリミヤ戦争を巡る国際紛争に巻き込まれていくことになるのですが、それはまた別のお話し。
エピローグとして、箱館交渉に参加した人物のその後をお話ししましょう。
まず、アメリカ・東インド艦隊を率いたマシュー・ペリー提督ですが、下田条約締結後、日本を後にして琉球へと向かい、7月11日に琉米修好条約を締結しました。
日本の開国という大任を果たしたペリーは、イギリス領となっていた香港に寄港しますが、そこで体調が悪化してしまいます。香港から本国政府に帰国を申請して許可を得て、艦隊指揮権を譲って旗艦・ミシシッピ号を下船します。
その後はイギリス船に乗って欧州各地を巡りつつイギリスに到着。リヴァプールからニューヨーク行きの舟に乗り、1855年1月12日に、ようやく祖国アメリカの土を踏むことができました。
その10日後の1月24日、少し遅れて到着したミシシッピ号の船上で東インド艦隊司令長官の退任式が挙行されました。
公職から離れたペリーは「日本遠征記」を執筆。当時の日本の様子を伝える1級資料として、現在まで利用されています。
しかしアルコール中毒、痛風、リウマチなどを患い、1858年3月4日、ニューヨークで63歳の生涯を閉じました。
アメリカは1861年から南北戦争に突入。内戦のために外に国力を向けることができず、ぺリーが心血を注いで、祖国アメリカのアジアにおける「橋頭保」として開港させた箱館も、アメリカはしばらく使用することができませんでした。
一方で箱館は、「アメリカだけの港町」ではなく、様々な国に開かれた国際港として発展していくことになります。
次に、松前藩ですが。
松前藩の全権を務めた松前勘解由ですが、その時のノラリクラリとした対応が「こんにゃく問答」として幕閣で有名になり、ペリー相手に譲歩をしなかった対応を評価されて、徳川家定より御紋付時服を賜るに至ります。また、藩主・松前崇広からも刀などを賜ります。
また、ペリー応接の功績により、松前藩での存在感が大きくなり、1864年には松前藩の老中に就任し、藩の実権を手にするに至ります。
勘解由はかなり優秀な人物で、事務作業も自ら行い、記憶力も高く、家老としての功績は評価されていたものの、それゆえに専横が目立つようになります。
1865年に藩主・松前崇広が兵庫開港要求事件の責任を問われて幕府・老中を罷免・蟄居となり、翌年には病没してしまうと、松前徳広が藩主となるものの病弱で国政を担うことも難しく、1866年に藩主を辞する希望を表明。
この時、絶大な存在となっていた松前勘解由は、崇広の次男である松前隆広を後継としようとしますが、勘解由の専横に反発するグループが強く反発し、勘解由は家老を解任されたうえで蟄居とされてしまいます。
しかし2年後の1868年に家老として再登用されて藩政に復帰。
前年に大政奉還が起こり、勘解由が復帰した当時の日本は、京を中心とした新政府と、旧幕府軍で東北を支配する奥羽列藩同盟とが併存した状況であり、松前藩の方針として、松前隆広を新政府のもとへ上洛させると同時に秋田の新政府組織に軍資金を提供して新政府に従うようにふるまう一方で、奥羽列藩同盟にも家老・下国弾正を派遣する、という、日和見外交を行っていました。
なんか、こんにゃく問答を彷彿とさせますね。
しかし松前藩内の尊王派が集結して正義隊を結成すると、1868年9月14日にクーデターを決行。
藩主・徳広に、藩の方針を尊王へ変更することと、松前勘解由を筆頭とする藩内の佐幕派を一掃することを要求。病弱な徳広は承諾せざるを得ませんでした。
これを知った松前勘解由は、1000名の藩士を集め、藩の武器庫から武器を奪って松前城に攻撃を企てたものの、君臣の分をわきまえよ、と説得され、兵を解散させます。
9月15日に家老を罷免されます。
9月16日に正義隊が藩内の佐幕派を強襲し、勘解由は自宅に軟禁状態とされます。
そして9月18日、切腹を迫られ、死を迎えました。
40歳くらいだったそうです。ということは、20代半ばでペリーとの交渉に臨んでいたことになります。すっげージイサンだと思ってたのに!!
つくづく、ペリーとの交渉にあたった日本人は、全員、若かったんだ、と実感しました。
この後も正義隊による佐幕派粛清が続いて松前藩は新政府側となり、1868年から始まる箱館戦争を迎えることになります。
松前藩主・松前崇広も、ペリーとの交渉が評価されて幕閣に抜擢されますが、話が長くなるのでここまで。
以上が、1854年に箱館で起こった、日米交渉の顛末。
来年、2024年に、箱館の「黒船来航」から170年を迎えます。
今の北海道があるのは、170年前の「道民」が、黒船相手にひるまず交渉したおかげ。
来年は、交渉の舞台をなった場所を訪ねるために函館に行こうと思いました。
追記
ペリーの箱館来航から90年後の昭和20年(1945年)9月2日。
東京湾に停泊する米国艦ミズーリ船上にて、日本の降伏文書の調印式が行われました。
この調印式の会場の上では、ある旗がたなびいていました。
その旗とは、ペリーが箱館に来訪した際に、旗艦・ポーハタン号に掲げられていたアメリカ国旗。
日本を2度、訪れることになった星条旗は、箱館のことを覚えていたのでしょうか?