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ペルリ提督、函館に上陸す!その13

 1864年6月1日、松前藩アメリカとの通算4回目の交渉が、アメリカ側の「ホームグランド」である旗艦・ポーハタン号で行われることになりました。

 

 松前藩側の使節は、幕臣である安間純之進、平山謙二郎、名村五八郎、武田斐三郎ら4名と、松前藩藩士である遠藤又座衛門、石塚官蔵の他3名。松前勘解由は同伴しなかった模様。

 まあ、今回の交渉の事実上の「全権」は、幕臣である安間、平山などが務めることになるので、松前勘解由が出てきてはペリーに入らぬ揚げ足を取られかねない。

 なんせペリーはここまで、「決定権のある者」にこだわってきましたからね。

 

 ペリーも副官ベンテや通訳官ウィリアムズら、いつもの面々で会場に現れ、全員着席。

 

 

 最後の交渉は、日本を脅かしてきた黒船の中で始まりました。

 

 

 会談では、またもやペリーが先攻して、松前側に要求を突きつけました。

 

 ペリーの要求は2点。

 

 一つ目は、箱館での遊歩区域を官舎を中心に7里四方とし、そのことを今日、この場で決定すること。

 

 二つ目は、市中で婦女子の姿が見えないのは、アメリカ人を「敵仇」とすることであり、また市中では各家が門を閉じ、市民は我々に親しまないで走り去り、しかも役人が我々のあとを尾行することなどは、和親を謳った条約の精神に合わないことで、下田でもなかったことである、という抗議。

 

 

 5月21日の「第二ラウンド」では、一つ目の遊歩区域の決定のみを要求してきたのに、この日は2つ目用意してきた。しかも日本側を抗議している。

 

 やはり第二ラウンドで、松前勘解由に突っ込まれて劣勢に終わったのが影響しているのか、再び主導権を握るために、やや無理やりな抗議を持ち出していますね。

 

 

 2番目の抗議ですが、松前藩箱館市中の婦女子を山の背に避難させています。

 下田ではそのような措置は行われなかったので、風紀はかなり「いつも通り」だったそうです。半裸の男性がいたり、色っぽい服装の女性がいたり。

 記録には残っていないけど、アメリカ側は、箱館での女色も狙っていたのでしょうね。他の植民地でも見られたことです。

 

 これらのペリーの要求に対し、返答したのは、「幕臣」である安間純之進、平山謙二郎、名村五八郎。

 地方政府の代表に過ぎない松前勘解由ではなく、中央政府の役人。しかも平山はすでに下田でペリーと面識があるし、名村は日米和親条約の和訳を担当したことで条約に精通している。

 ペリーも、これまでのようなハッタリは効かないことをわかっていたはず。

 

 その安間、平山は次のように回答します。

 

「遊歩区域については、後日、下田で林大学頭と協議すべきである」

 

 これは、松前藩も繰り返してきた文言。しかし地方政府の勘解由が言うのと、幕府代表の安間らが言うのでは、意味も重みも異なります。

 

 安間、平山は、この文言で誤解が生じたり、これまでの交渉で見られたような揚げ足を取られないように、通訳として随伴した武田斐三郎にオランダ語に翻訳するように命じ、その翻訳文をペリーに見せました。

 この翻訳文は重要ですよ。違訳は許されない。このきわめて重要な国際文書の翻訳を任されたのが、まだ28歳だった、というのがまた驚き。武田の翻訳の仕方によっては、新たな外交問題に発展しかねません。

 

 また安間らは続けて、

 

 「箱館来訪は単なる視察であると、横浜で林大学頭と約束したはずなのに、その約束を反故にして、アメリカが松前藩に要求するのは不当である!」

 

 とペリーの姿勢を強く批判しました。

 

 

 二つ目の「婦女子を隠したのは敵対行為である」という抗議に対しては、

 

「日本は長く鎖国を祖法としてきたので、日本人は未だ外国人になれておらず、そのために起きたことである。このような日本の風習はペリー自身がすでに横浜で経験済みのはずである。江戸より遠く離れた地である箱館ならなおさらのこと。決してアメリカ人を敵視しているものではない。」

 

 と返答。ここは言い訳を並べていますね。実際、ペリー艦隊の来航前の触書では

 

 「アメリカ人は欲深く短気であるため、外国船停泊中は婦女子は外出を禁ず」

 

 なんて言っちゃってますからね。この触書がペリーの目に留まっていたら、必ず交渉材料に使われたことでしょう。見つからなくてよかったね。

 

 

 ペリーはこの回答を受けて、悟った模様。

 

 一つ目の要求への回答は、これまで何度も繰り返されてきたものと何も変わりなく、しかも地方代表ではなく「幕臣」が言っている以上、「幕府の声明」と受け取らざるを得ない。ハッタリを聞かそうにも、詳しく知ってる平山、名村らがいる以上、通用しない。

 

 二つ目の抗議への回答も、松前藩との交渉で何度も見られた「スッキリしない内容」。ペリーは、もう、イライラするのにも疲れた様子。

 

 

 そう、ペリーは悟ったのです。これ以上、交渉しても無駄だ、と。

 

 下田での再交渉の日が迫っており、時間の猶予はもう無い。

 

 最低限の成果として、測量などの必要なことは終えている。

 

 

 ペリーはついに交渉を打ち切ることを決断します。

 

 翌日の6月2日にも、松前藩との交渉が予定されていましたが、切り替えの早いペリーはその交渉をキャンセル。

 

 このキャンセルの通告を持って、箱館での「日米交渉」は、事実上、終結したのでした。

 

 

 

 松前藩は、なんとか逃げ切った。

 

 もし、黒船の威圧を恐れて、ペリーの要求を唯々諾々と受け入れていたら、箱館の未来は確実に変わっていたと思われます。清王朝における香港やマカオのようになっていたかもしれない。

 そうなると、北海道の開拓も幕府が行うのではなく、アメリカや列強諸国が中心となり、欧米の領土となっていたかもしれない。

 

 実は、非常に重要な意味を持つ交渉だったのです。

 

 また、全ての要求を拒絶した、という点で、ペリー艦隊の到来以来、押されっぱなしだった日米交渉で、日本が初めて交渉で勝利したとも言える。

 

 

 ペリー提督は、帰国後に「日本遠征記」という著作を執筆していますが、箱館の印象について、以下のように記しています。

 

「その入港しやすいことと、その安全さとにおいて、世界最良の港の一つたる美しい箱館湾は、日本諸島をば蝦夷と日本とに分けている津軽海峡の北側に横たわり、また、日本島の北東端・尻屋崎(青森県下北半島の北東端の地名)と松前市との中間に横たわる。」

 

 「世界最良の港の一つ」という、最上級の賛辞を送っていますね。松前藩への悪印象とは別に、箱館の地理・地形には大変満足した模様。もちろん、それはアメリカの国益の点で、というものですが。

 続きを述べると

 

 「津軽海峡の航海は、遠征隊の士官たちが調査した限りでは、安全にして便利であることが明らかになったし、また、箱館への入港は、「あらゆる面で便利である」と言われている下田への入港と同様に容易である。

 下だと同様に箱館は外港と内港とを有し、外港はやや馬蹄形の形をして湾によって形成されている。そして下田におけるのと同様に、ここにおいても危険な障害物を発見することに成功してブイで標識をつけた。(中略)内港は同湾中の南東入江で、完全に掩護(「えんご」:敵の攻撃から拠点が守られている)されており、一定せる水深と勝れた錨地とを持っている。その広さと、少しも風にあたらぬ安全さにおいて世界無比で、五乃至七尋(不明だが湾の深さを示しているらしい)の錨地と、百艘の帆船を停泊できる余地(余っている土地)とを有する。」

 

 

 もう、絶賛といってもよい表現ですね。

 

 「下田と同様に」とありますが、下田をグーグルアースで調べてみてください。

 太平洋に突き出た伊豆半島の南東に、さらに小さな半島が出ている場所があり、そこが下田。半島に囲まれているので良港な上に、内部にもいくつもの湾や浦が形成されています。

 外湾で波から守られる上に、中に内湾があることでさらに波を防ぐことができる。

 「外湾」と「内湾」の関係を知るには、青森県を見るといいですね。

 青森県津軽半島下北半島によって陸奥湾が形成され、真ん中にある夏泊半島によってさらに野辺地湾と青森湾が作られている。他にも鹿児島県や愛知県、静岡県の名古屋湾付近も、なかなか面白い地形をしています。

 

 函館湾も亀田半島と松前半島の付け根にあり、さらに海に突き出た函館山によって、内湾が作られている。

 

 水深も深いために、大型船も入港できる。

 錨地とは、港の船着き場がいっぱいの時に入港を待つために錨をおろして停泊できる場所のこと。

 また箱館湾の北部は陸地で、しかも高い山地があるため北西方面からの風は弱く、その点ではペリーが「少しも風に当たらず安全さにおいては世界無比」ではあるのですが、海に開けた南東方面からの風が続くと波が高くなります。昭和29年9月26日、台風の影響で南東からの風が強まり、判断を誤って出航した洞爺丸が沈没してしまいます。

 

 その他、「空き地があること」と「完全に掩護されていること」

 という箇所が引っ掛かりますね。

 

 これってつまり、将来的に箱館アメリカの軍事拠点にする可能性もあった、ともいえるわけで・・・。

 

 

 とにかく、世界中の港を知り尽くしているペリーをして、箱館は最高の港町という評価を与えられました。

 

 

 

 

 

 そして1854年6月3日午前6時過ぎ、ペリーは18日間にわたり滞在した箱館を出港。

 

 函館から、ついに黒船の脅威が去りました。

 

 この間、家に隠れていた住民や、山背泊に避難していた婦女子もようやく解放されて、家族の再会を喜ぶ人、外を歩き回る人などが見られ、店も通常通りの営業となり、その日、箱館の町は開放感に溢れていたそうです。

 

 

 

 続く