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家康の突破 その1

 

 天下人・豊臣秀吉の死去。

 

 秀吉という屈指の存在を失った豊臣政権には不穏な空気が漂い始めます。

 

 誰もが予感した通り、徳川家康の存在感が増し始めたのです。

 

 家康は、秀吉が島津氏から召し上げた「太閤蔵入地」を独断で解除したり、勝手に大名に加増を行うなど、秀吉が禁じた行為をも公然と行うようになります。

 豊臣氏の所領となっていた「蔵入地」の解除や加増などを、家康が勝手に変更してしまったのです。これは「豊臣政権」の枠を超え、豊臣氏の私家的な部分に立ち入る行為。豊臣家へのあからさまな挑発と受け取られても仕方ありません。

 

 こうして豊臣家から「取り上げた」領地は、家康派や中立派などに分配されて、後の行動への布石とされていきます。

 

 このような主家・豊臣氏に対する家康の専横に対し、石田三成を中心とした五奉行は警戒を強めます。

 

 すでに秀吉の生前から武断派と文知派の対立はありましたが、秀吉という絶対的な存在がなくなったことで、公然のものとなっていきます。

 

 ここから家康の老獪な政治術が発揮されます。

 

 まず武断派加藤清正福島正則ら)に石田三成を襲撃させ、三成を引退に追い込みます。

 この石田三成の失脚に関する裁定には北政所である秀吉の正室・ねね が加わっていたために、文知派、反家康派も受け入れざるを得ませんでした。ちなみに「北政所」は、摂政・関白の正室 に与えられる称号です。

 

 この事件で最大の政敵であった石田三成を政権中枢から追い出すことに成功した家康。

 実行したのは武断派ですが、家康の影響がなかったとは言えません。

 

 こうして文知派のリーダーを排除したのち、家康が企てたのが反家康派の一掃です。

 

 1599年9月7日、家康は「重陽節句」の挨拶のためと称して、滞在していた伏見城を離れて豊臣秀頼の居城である大阪城へと向かいます。

 秀吉は生前、家康に伏見城を離れないように厳命しており、またもや家康は秀吉の意向に逆らう行動をしてしまうのです。

 

 文知派のみならず、親豊臣派ですら疑問に感じた中、家康は大阪城への入城を強行してしまいます。

 

 そして入城するや否や、「前田利長を首謀者とした、家康の暗殺計画が発覚した」と発表。すぐに「捜査」が開始されます。

 

 その「捜査」の結果、首謀者として文知派の重鎮・浅野長政豊臣秀頼の側近・大野治長らの名前が挙げられていきます。

 

 この「暗殺計画」ですが、出所不明。何の根拠もないのです。

 

 なのに家康は、この根拠のない暗殺計画を過剰に喧伝し、大阪城に不穏な空気を醸成してしまいます。そして「身の安全を守るため」として、徳川家の家臣を大阪城に引き入れ、自身も大阪城に居座ってしまった。

 

 側近が排除されて裸となった主君・豊臣家の居城の中に、武装した徳川がいるのです。

 

 もはや大阪城は、完全に家康の支配下に置かれてしまいました。

 家康はもう、己の野心を隠そうとすらしなくなっていました。

 

 そして「暗殺計画」の首謀者たちを蟄居、流罪に処し、豊臣政権の中枢から反家康派を一掃してしまいました。

 

 この時点で、秀吉が残した「五奉行五大老」の職制は消失してしまいました。

 

 

 この中央政界での家康の専横に対し、五大老の一人であった会津藩上杉景勝が警戒を高めます。

 上杉景勝は秀吉との結びつきも強く、秀吉の命により会津藩120万石に移封されたのも、信頼を置く景勝に徳川を監視させるためであった、と言われています。

 また、景勝は石田三成とも懇意であり、三成失脚の後は敵対心をあらわにし始めていました。

 

 景勝は秀吉の死後、家康の動きを予想して領国内の防備を強化し始めます。

 

 この動きを、家康は見逃しませんでした。

 

 景勝に対し、上杉領の防備の増強の真意を上洛して説明せよ、と命じます。

 景勝は上洛を拒否した上で、有名な「直江状」を送り付け、家康を公然と批判します。(この辺りは後世の創作も含まれているらしい)

 

 直江状は、家康の悪行を鋭く突いた、ある意味「スカッと」する内容だったようです。

 

 だからこそ、家康にとっては「上杉討伐」の名分を得ることができた、と映りました。

 スカッとする内容ではあったものの、むしろそういう内容を、家康は望んでいたのでした。

 

 

 慶長5年(1600年)6月2日、関東の諸大名に対し、会津討伐の準備の命令が下されます。発令したのは豊臣政権ですが、主導者はどう考えても家康。

 

 そして6月8日、後陽成天皇より晒布100反が家康に下賜されます。

 

 これは単に家康がモノをもらった、という意味以上のものがある。

 

 豊臣秀頼が下賜されて、それを家康に渡した、ではないのです。

 

 天皇が自ら、家康に直接下賜したのです。

 言っときますが、家康は内大臣ではあったものの、豊臣家の家臣であることに変わりはないのです。

 

 この瞬間、親豊臣派の上杉景勝は正式に「朝敵」となり、さらには家康が主君・豊臣家を無視して天皇に接する、という、あからさまな「権力交代」を世間に見せたのでした。

 

 一つのことで2つあるいはそれ以上の目的を達成する。

 

 家康って、本当に老獪な策士家だと思う。

 

 こうして自分の大義名分を固めた後の6月16日、家康は大阪城を出立。

 

 7月2日に江戸城に入城します。

 

 

 

 ここから家康の天下取りがクライマックスを迎えます。

 

 続く!