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幸村の復讐 その4

 随分間が空いてしまいましたが、10月まで掲載していたお話の続き。

 

 豊臣から徳川への権力の移行は、「朝廷」から「幕府」へ権力が移ることでもありました。

 
 秀吉亡き後、豊臣は関白でこそありませんでしたが、朝廷や世間ではいまだ「摂関家」として認識されており、徳川は「豊臣の家臣」という名分を払拭できずにいました。

 

 家康は薄皮を一枚一枚剝ぐように、豊臣家を追い詰め、豊臣秀頼との会見にて、「主従交代」を演出することに成功。

 

 家康による「徳川のもとでの天下泰平」建設の道程は、最終段階に至っていました。

 

 お話はここから。

 

 

 

 

 

 慶長18年(1613年)、幕府は、「公家衆法度」「勅使紫衣法度」「大徳寺妙心寺等諸寺入院法度」の3つの法令を発布します。

 

「公家衆法度」・・・・朝廷の人事を幕府が決めることを定めた法令

1607年くらいから朝廷では、猪熊教利という公家を中心とした「ご乱行」が活発となった模様。歴史記事に関しては真面目でお堅いWikiを見ても、比較的高位の公家や女官を巻き込んだ「しょうもない行い」が、こともあろうに朝廷で行われていたようで、当時の朝廷の裏側ではかなり風紀が乱れていたそうです。

 しかしこの乱れっぷりがついに後陽成天皇の耳に達し、天皇は激怒!

 この乱行に参加した者全員を死罪とすることを命じます。

 仮にも天下の朝廷であり、天皇にとっては自身の生活の場で起こったことであっただけに、後陽成天皇の怒りはすさまじかったそうです。

 

 しかしこの後陽成天皇の処罰に対し、江戸幕府が介入します。この時、すでに幕府が朝廷に深く影響力を広げていたこともあり、幕府も看過できず。

 幕府が捜査を開始したところ、「乱行」に関わった人物が多く、しかもかなり上位の公家も関わっていたことがわかり、もし後陽成天皇の処罰をそのまま実行すると、その後の朝廷で混乱が勃発する可能性が懸念されました。また幕府は、後陽成天皇の母である新上東門院からも寛大な処置を求める嘆願を受けていました。

 上記の事情から幕府は、関係者へ下された死罪を「配流」へと減じました。

 

 面目をつぶされたのが後陽成天皇。臣下であるはずの家康が自身の決定に口をはさみ、それを受け入れざるをえなかったことに憤慨し、譲位を口にするようになります。

 

 そして、後陽成天皇は弟宮である八条宮智仁親王へ譲位することを、真剣に考えていた模様。

 

 しかしここで問題が起こりました。

 弟宮である八条宮智仁親王は、以前、豊臣家の猶子となっていたことがあったのです。

 

 猶子とは、「実親ではない二者が親子関係を結んだ時の子」とのこと。

 ただ「養子」とは異なり、「子」の側の苗字も変わらず、財産などの相続権もないそうで、あくまでも名目的な親子関係だったようです。

 農民出身で朝廷では何の家格も持たなかった豊臣秀吉は、八条宮智仁親王を猶子とすることで、皇族とのつながりを持つこととなり、八条宮智仁親王も「関白」である豊臣秀吉の猶子となることで、将来的に関白を継ぐことが内定されていました。

 秀吉亡き後も豊臣家が朝廷で大きな存在感を維持できたのは、この八条宮との関係があったため。

 

 もし八条宮智仁親王が即位すれば、豊臣家が朝廷で力を盛り返す可能性があったため、家康はこの譲位の意向に対し、強力に反対します。

 また、この時家康は、孫の和子を、後陽成天皇の息子である政仁親王へ入内させようとしていたため、なおさら智仁親王への譲位を許すわけにはいきません。

 

 実は譲位にまつわる後陽成天皇徳川家康の確執はこれが最初ではなく、後陽成天皇豊臣秀吉死後であり、関が原直前だった1598年にも、息子の政仁親王(当時は良仁天皇)ではなく智仁親王に譲位しようとしていました。これを止めたのが、秀吉亡き後に豊臣政権の代表となっていた徳川家康でした。

 

 結局、慶長16年(1611年)に、智仁親王ではなく政仁親王への譲位が行われ、政仁親王後水尾天皇となります。

 ・・・ただ、家康は譲位まで、いやがらせとも思えるほど身勝手な理由で、譲位時期を遅らせている。後陽成天皇は家康の態度に立腹するも、幕府に従わざるを得ませんでした。

 また、乱行事件の影響で天皇は宮廷内の女官たちなどに不信感を持ち、また処罰に対し、母である新上東門院が幕府側についたことで、孤独を感じるようになっていました。

 そして上皇になった後も、天皇に代々伝わる神具などを後水尾天皇に渡すことを渋りますが、またもや母の新上東門院が家康に告げ口することになり、しぶしぶ渡します。

 

 しかし後陽成天皇の家康への「仕返し」は続き、家康の孫の和子が後水尾天皇へ入内することを、「前例がない」として許可しませんでした。

 結局は、1612年に入内を認めることになるのですが。

 

 ここまで長々と説明してきましたが、この「猪熊事件」による朝廷の乱脈と、その後の後陽成天皇の処罰や幕府との衝突姿勢から、家康は、朝廷を明確な形で幕府の影響下に置く必要を感じたようで、1613年に「公家衆法度」を発布します。

 

 この公家衆法度にて幕府は、官位の叙任権などの朝廷人事を掌握したのみならず、元号改元まで幕府の専権項目としてしまいます。

 

 「官位の叙任権」が、幕府に移った意味は非常に大きい。

 

 思い出していただきたいのですが、戦国末期に至り、各大名は権威の失墜した室町幕府の職ではなく、征夷大将軍室町幕府を飛び越えて直接、朝廷・天皇に官位を求めるようになっていました。

 秀吉が関白就任を選んだのも、朝廷官位の長たる関白に就任することで、「官位偏重」となっていた各大名を従わせるには、将軍よりも朝廷官位が有利、と判断したため。

 そして、徳川家康の独立をことごとく阻んできたのも、官位の上下関係。

 

 この戦国時代から豊臣政権まで、日本を左右してきた朝廷官位の任命権を、家康が手中に収めたのです。

 これは非常に大きな出来事。

 家康はまた一つ、「天下」を自らの下に引き寄せた、とも言えます。 

 

 

 

「勅使紫衣法度」「大徳寺妙心寺等入院法度」

 古来から、「紫衣」という紫色の礼服を着ることは高位の者にしか許されませんでした。江戸時代でも仏教界においては、宗派を問わず高徳の僧・尼のみが着用を許されていますが、天皇にはその紫衣の着用の許可を与える権利がありました。

 

 少し脱線しますが、なぜ「紫」が高位の者だけ許されたのか、ですが、当時は紫いろを再現するのがかなり難しかったようです。なんかの貝からとれる成分でしか、紫色を発色させることができなかったとか。しかもその貝も貴重なのに、紫を出すためには貝が大量に必要だった、とか。うろ覚えなので詳しい人、教えてください。

 とにかく、東洋西洋を問わず、紫は貴重な色で、古代ローマ帝国でも、皇帝のマントにだけ、紫を使用することが許されていた、と思った。

 つまり昔の「紫色」は、その希少性ゆえに権威の象徴の色でもあったのです。

 

 お話し戻って・・・

 

 神仏習合の進んでいた江戸時代までの日本ですが、その形式としては神道の長たる天皇が仏教界を「支配下におく」というもの。あくまでも神道が上であり、仏教は下、とされていました。

 その象徴が、天皇が僧・尼の最高位の者へ「紫衣」を与える、というもの。形式的ではありますが、仏教界の人事権を握っている、という体面を現していました。まあ、紫衣を与える代わりに巨額の「見返り料」が天皇に支払われたようですが。

 とにかく、天皇と仏教の密接な関係を表していました。

 そう、このころには天皇と言えども仏教の支持は不可欠だし、仏教の側も天皇の権威を後ろ盾としており、両者は信仰上や統治理念上だけではなく、現実的な面でも不可分な関係となっていたのです。

 

 かつて織田信長も、摂津にあった一向宗本願寺顕如が立てこもる石山本願寺を攻めあぐねた際に、正親町天皇に仲介を依頼し、顕如天皇の意向を受け入れ、石山本願寺を開城しています。

 

 この仏教と神道の関係は、西洋史とは全く異なる図式なので、いわゆる「世界史」を日本史に当てはめることができない要因でもありますね。中国王朝では道教とか、様々な宗派もあって、少しは日本に近いですが。

 

 江戸幕府は、この仏教人事の象徴である「紫衣の授与権」にも介入します。

 幕府はすでに仏教や宗派間の争論の処理も担当していましたが明文化されておらず、「天皇が仏教界の人事権を握る」という建前が、一部で仏教側の抜け道ともなっていました。

 また、過酷な戦国時代を戦い抜いた徳川家康にとって、宗教は侮れない勢力であることが骨髄まで染みついています。

 徳川の世を安泰にするためにも、どうしても宗教勢力を幕府の支配下に置く必要がありました。

 そこで「勅使紫衣法度」「大徳寺妙心寺等諸寺入院法度」を発布して、朝廷が仏教界に勝手に紫衣を賜ることを禁じ、さらには朝廷に残っていた仏教界への人事権や決定権を幕府に取り上げてしまいます。

 

 

 

 

 

 ここまで長く説明してきましたが、朝廷が朝廷たる理由であった官位の叙任権、朝廷の影響下にあった仏教界の人事権など、重要な権限を手に入れた徳川家康

 

 彼の「天下泰平」への道程は、静かに着実に進行していたのでした。

 

 

 

 こうしてみると、後陽成天皇もまた、豊臣と同じく朝廷権威を守ろうと時流に逆らった人物。しかしその結果、さらに家康の権力が増してしまった。

 

 

 

 そして、これらの一連のことは、禁中並びに公家諸法度へとつながっていきます。

 

 

 

 長くなったので続く