意識低い系、日本代表宣言!!

意識の低い人間が、意識の低い情報を、意識を低くしてあなたにお届け!!

幸村の復讐 その2

 徳川家康による「独立政権」樹立の道のりは、まだ半ば。幕府の創設はただの「一歩目」に過ぎません。家康は、ここからさらに政治工作を進めていきます。

 

 この先のお話しには、「官位」が重要になってきます。ここで、官位に関して以下の序列を覚えておいていただきたい。

 朝廷官位を上位から並べると、

 

 

①摂政・関白 ②太政大臣 ③左大臣 ④右大臣 ⑤内大臣

 

 

となります。なお、二番目に「太政大臣」とありますが、これはちょっと扱いの解釈が難しい。創設時から名誉職的な意味合いが強いもので、公家の家格社会に取り入れられたものとは異なるらしい。「名誉会長」「名誉教授」というような、実権や実体はない職籍と考えて差し支えないと思います。

 

 

 さて、1603年2月12日、徳川家康征夷大将軍、淳和奨学両院別当に就任すると同時に、右大臣にも昇進しています。それまでは「内大臣」となっていました。

 

 この時、豊臣政権の中心人物であった豊臣秀頼は「正二位、権代納言」。

 

 官位で言えば家康よりも「格下」となりますが、家格社会では、代替わりした際には後継者は低い官位から始まるものの、最終的には自動的に関白に達することが決まっていたので、秀頼がこの時点で低い官位であっても問題ではありません。

 実際、秀頼が1597年に最初に叙任された際の官位は「左近衛中将」ですが、翌年の1598年には「権代納言」へ、官位の序列で言えば大幅な出世を果たしていますが、これも豊臣家が「摂関家」と認識されていて、最終的には「関白」となるために辻褄が合うように出世スピードが考慮されていたため。

 

 これが「家格社会」です。実力の有無など関係ない。本来の家の「上下関係」は、ある一時点での官位で決まるのではなく、最終的にどの官位につくのか、で決まっているのです。秀吉が「豊臣家」を創出してまで関白に就任したことが、家格社会にどれほどの衝撃を与えたか、想像できると思います。

 

 

 話を戻すと、1603年の家康の将軍就任の時点の官位では家康の方が秀頼よりも上位ではあるものの、公家社会や諸大名などでも、摂関家である豊臣家のほうが上、と認識されており、あくまでも家康は豊臣秀頼よりも「格下」とされていました。

 800年近く続いている家格社会、貴族社会の根底にある「常識」は、家康の力をもってしても簡単に変えることはできません。

 

 現時点で諸方が家康に従うのは、彼の圧倒的な実力によるもの。

 

 徳川氏に従っていた、というのではなく、あくまでも徳川家康個人を恐れていたにすぎません。

 もし、家康が世を去れば、再び徳川家を凌駕する存在が現れ、幕府も消滅してしまうかもしれない。

 

 なんせ家康自身が、それを豊臣政権で行っているのですから。

 

  家康は、将軍就任の2年後の1605年4月16日、征夷大将軍を辞職。息子の徳川秀忠征夷大将軍に就任します。

 

 家康はこれにて、将軍職が代々、徳川家に世襲されることを世間に広めます。

 

 家康は、自身の権威が強固なうちに、徳川政権の存続を確かなものとしたかったのです。

 

 そして、この将軍辞職と共に、家康は右大臣も辞職しています。そして右大臣を豊臣秀頼に譲っています。同時に徳川秀忠が繰り上がって内大臣に就任します。

 これにより、現職の将軍が、豊臣家よりも下位であるというメンツは保たれました。

 

 ただ、これも家康の布石であった。

 

 豊臣秀頼は関白ではなかったものの、豊臣家はいまだ秀吉の残光によって大きな勢力を有しており、また関白を輩出した「摂関家」でもあったため、公家社会などではまだ、「いずれは秀頼が関白に就任するだろう」という見方が残っていました。

 

 摂関家である豊臣家には、この時点でも年頭になると京から大阪へ、公家が大挙して参賀のために訪れていましたし、豊臣家には家臣への独自の官位叙任権をもつなど、朝廷からは秀吉の時代と変わらぬ扱いを受けていたのです。

 

 そう、この時点ではまだ、家康は豊臣家を軽んずるわけにはいかなかった。

 
 官位の上では、将軍家は豊臣家よりも下、という演出をする必要があったのです。一方で、家康はどうやら、豊臣家の「昇進」を右大臣で止めておく算段もあったらしい。つまり摂関家である五摂家に組み込まれず、右大臣を代々の最終官位としようとしていた。

 

 上記のように、この時点では豊臣家の勢力は大きく、また福島正紀、加藤清正などの秀吉恩顧の有力大名も健在。

 

 この頃、東日本を徳川家が、西日本を豊臣家が支配する構図となっていました。

 

 

 一方で、家康は将軍と右大臣の辞職から一か月も経たない5月8日に、高台院を通じて、秀頼の母である淀殿と交渉をしています。

 高台院ですが、この人物は秀吉の正室北政所、すなわち「ねね」のこと。北政所と言えば豊臣家の大有力人物。

 その有力者を通じて家康が淀殿に要求したのは、「秀頼が家康に臣下の礼を取ること」!!

 

 ついに家康は豊臣家に対し、最初の「牙」をむき出しました。

 

 

 これは実に微妙なところを衝いている。

 

 「徳川に」ではなく、「家康に」というところがポイント。

 家康は既に将軍ではありません。なので摂関家が将軍に跪くという、官位の上での「主従逆転」には当たらない。

 一方で、家康という、時の有力者への臣従を求める。

 

 家康は、単に早期に将軍を世襲することで、世間に「徳川が将軍を受け継ぐ」ということをアピールしたかっただけ、ではないのです。「フリー」という立場を使って、豊臣家を徳川の下風につかせようともしていた。

 

 さすがは戦国最大の「策士」である徳川家康。ここでも家康は、一つの行動で2つ以上の目的を達成しようとしていたのです。

 

 

 長くなったので続きますね。