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家康の突破 その2

 

 上杉景勝を討伐すべく、大坂を出立した徳川家康

 

 一時とはいえ、中央政界から最大の有力者がいなくなったのです!

 

 

 動きがあったのは1600年7月17日。

 

 

 石田三成大谷吉継毛利輝元らが挙兵!

 

 ここから日本史上、最後の合戦となる「関ヶ原の戦い」が始まります!

 

 

 関が原は、多くの書物で語られているので、ここでは省略します。

 

 

 関が原に勝利した家康は、西軍に属した各大名に厳しい裁定を下します。

 上杉景勝は120万石が取り上げられて、縁のない地での30万石を与えられます。

 

 この世紀の一戦に勝利した徳川家康

 

 ついに公然と彼に反対する勢力が、排除されてしまった!

 

 この時点で、家康の地位は絶大なものとなります。

 

 

 

 しかし、いやだからこそ、彼は新たな問題に直面することになるのです。

 

 彼は絶大な存在感を得るに至りました。しかしそれはあくまでも「豊臣政権内」でのこと。

 

 彼は豊臣家の家臣という立場に変わりはなかったのです。

 

 家康はこれまで、「豊臣家のため」という大義を掲げて行動していました。

 秀吉に強い恩義を持つ加藤清正福島正則ら、豊臣恩顧の有力大名を味方にできたのも、彼らの反三成感情につけこみ、上手く「豊臣のため」という理由をつけて誘導することで、関が原で西軍征伐に利用したのでした。

 

 しかし、彼ら豊臣恩顧の大名にとって、主君はあくまでも豊臣家。

 決して徳川家の家臣となったわけではありません。

 

 そして家康の目標は、あくまでも自分自身が天下人となること。

 

 

 ここまで豊臣譜代の大名と徳川を結んでいた「共通の敵」がいなくなってしまった。

 

 家康はここで対応を誤れば、今度は強い勢力をもつ豊臣譜代の大名と敵対することになります。

 

 関が原に勝利し、絶大な立場を手に入れたものの、気づけば家康は一段と深く「秀吉の罠」にハマっていたのでした。

 

 家康派この状況を打開すべく、今度は兵士ではなく政治術を駆使します。

  

 

 

 話は秀吉が存命だった1595年に戻ります。

 

 この時、それまで秀吉の後を継いで関白となっていた豊臣秀次は、秀吉の判断により関白職を解任されていました。

 

 そう、この時、関白は空位となっていたのです。

 

 とはいえ、秀吉の大きな影響力があったため空位のままにされていて、まだ幼少であった豊臣秀頼が、いずれ関白に就任することが、朝廷においても既定路線とされていました。

 そして関が原が終わった時点でも「空位」が維持されていました。

 

 家康がこれを見逃すはずがない!

 

 

 家康は空位であった関白職に、五摂家の一つである九条家の九条兼高を就任させるように、朝廷に推薦。

 

 もともと五摂家の輪番だった関白に、摂関家ではない秀吉が就任したこと自体が異例であったうえに、こともあろうに関白が豊臣家に世襲される流れとなっていたことに、公家社会は強い不満を持っていました。

 

 家康の提案は、家格社会の伝統に服すことでもあるため、何ら問題はありません。

 

 中央の公家たちは、この家康の提案を喜んで受け入れました。

 

 こうして、豊臣秀頼が関白に就任する道筋は、家康によって断たれてしまったのです!

 

 もともと朝廷官位を基本として成立していた豊臣政権。

 関白ではない以上、豊臣政権の枠組みも公的な性質を失っていました。

 こうしてまた一つ、豊臣との主君ー家臣の性格を薄めさせます。

 

  

 ついに、ついに天下人までもう一歩のところまで近づいた徳川家康

 

 

 しかし!彼には最後の問題が残っていた!!

 

 豊臣秀頼に関白就任の芽はなくなってしまった、といっても、豊臣家の人間が関白に就任した(秀吉、秀次のこと)という先例が残ってしまった以上、豊臣家は摂関家とみなされていました。

 ここが悲しいまでに「前例主義」に家格社会の皮肉なところ。

 先例がある以上、公家たちは豊臣家も摂関家として対していたのでした。

 

 つまり豊臣家に弓を引くことは、現時点では朝廷に弓を引くことと同義。

 

 また、豊臣恩顧の大名とも敵対するかもしれない。

 

 

 

 これ以上、豊臣家を失墜させる術は、政治的にも軍事的にも無くなっていました。

 

 

 

 自身が天下人となる「最後の一手」まで来て家康は、完全に手詰まりの状態になってしまいました。

 

 

 どうすれば秀吉の罠を突破して、徳川が天下を取ることが出来るのか?

 

 

 

 たった一つだけ、方法がありました。

 

 

 

 

 その方法とは、ここまで長くお読みいただいた方ならわかるはず!

 

 

 そう、その方法とは

 

 

 「征夷大将軍に就任すること」!!

 

 

 

 公家によって潰された平氏を目の当たりにした源頼朝は、あくまでも家格社会の外に自己の政権を築くため、朝廷官職の外にある「征夷大将軍」を望んでいました。

 

 この鎌倉幕府の成立後、室町幕府を経て、400年にもわたる「幕府」という権力の実行機関の「前例」ができていました。

 

 家康は、朝廷官位を基盤とした豊臣政権から独立するために、源頼朝北条政子が作った政治システムを利用することを決意。

 

 

 

 

 慶長8年2月12日、徳川家康は「征夷大将軍」に就任。

 

 江戸にて幕府を創始します。

 

 

 

 

 ついに家康は、秀吉の罠を突破することができました!!

 

 

 

 

 ・・・・しかし、また思い出していただきたい。

 この時点で、「幕府」の権威は失墜していたのを。

 

 家康はどうやって、失墜していた「幕府」に権威を持たせ、その後の300年の泰平の世を築いたのか。

 

 長くなった歴史記事の掲載も、もう少しで最後。

 

 

 あと少しだけお付き合いください!

 

 

 続く