ついに豊臣に対し、公然と敵意を見せた徳川家康。
これに対し、豊臣側の窓口として家康の要求を受けた淀殿は激怒します。
近江の戦国大名であった浅井長政を父として、織田信長の妹の市を母とする、戦国時代を反映した血筋を持つ女性。
父・浅井長政の死後、母の市は柴田勝家と再婚。その後、羽柴秀吉によって柴田が滅ぼされると、秀吉の庇護のもとで成長し、1588年に秀吉の側室となります。
そして1593年、秀吉が待望していた嫡男を出産。この時の男子こそ、後の豊臣秀頼。
現代では様々な評価がなされる淀殿ですが、彼女は何よりも「豊臣家」を守るために傾倒していたことは事実。
関が原の際には、豊臣家のために兵を起こした石田三成が、秀頼のお墨付きを得ようと淀殿に交渉するも、淀殿が頑強にこれを拒否。結局、このときの判断により、家康も挙兵時の豊臣と石田三成の関係は立証できなかったために豊臣を追求できず、この時点での豊臣家の滅亡を避けることができたと言えます。
彼女は徳川主導の政治を、消極的ながら受け入れていた模様。
織田、柴田、豊臣と、常に戦国時代の権力移行を間近で見てきた彼女にとって、豊臣が徳川に抗うことの困難を察していたようです。その上で、「徳川の世」の中で豊臣が生きていく方法を模索していました。
決して、息子を溺愛したために大局に盲目となった女性、ではありません。
豊臣を守る決意を持っていた淀殿ですが、1605年5月8日の徳川家康の「臣従要求」には怒りをあらわにします。
政治の実権を徳川に委ねることになろうとも、家臣が主家をないがしろにしようとする行為、すなわち豊臣の家格の低下を許すようなことを、認めるわけにはいきません。
彼女はあくまでも、豊臣を守ろうとしていた。
このころ、豊臣方と呼ばれる勢力も揺れていました。
豊臣政権は斜陽であるのに対し、次々と布石を打ってくる徳川。時流がすでに徳川にあることは明らかでした。
戦国を通じて「機を見ること」に敏感になっていた大名にとって、自家を守るために徳川へ寄り始める豊臣方も珍しくなかったのです。
淀殿は味方の少ない中、自分が豊臣を守わなければならない、と決意していたようです。
この淀殿の強い拒絶と不満の表明に、家康もたじろいだ模様。
すぐに六男の松平忠輝を大坂城に派遣し、豊臣との融和策を取った模様。
この時は家康が折れる形で、事件は解決します。表面上は。
最初の強硬策に失敗した家康は、次なる策をめぐらし始めます。
この時点で豊臣秀頼は関白ではありません。ただ、関白を輩出した家門として、将来的には秀頼の関白就任の可能性は消えていませんでした。
淀殿に臣従を拒絶されてから2か月後の1605年7月23日、家康は近衛信伊を関白に推挙。
これにて豊臣の関白就任は、またも遠のいてしまいます。
断られてからすぐにこういうことをする徳川家康の意地の悪さ。
なんかね、大河ドラマでもやたらと家康を「聖人」扱いしたがるけど、戦国武将なんてこういうもんよ。
いずれにしろ、豊臣家の関白就任の可能性がさらに薄まってしまった。
思い出していただきたいが、豊臣政権は何を根拠にしていたか?
「関白は天皇に代わり政治を差配できる」という、関白に与えられた権限によるもの。
豊臣秀頼が関白ではない以上、豊臣政権の公的な根拠は不明確となり、私的な機関の色合いを強めてしまった。
全国のあらゆる勢力に命令できる、のではなく、豊臣の私領や家臣のみにしか命令できない、単なる家内の機関とも解釈できる。
全国統治の説得力がない以上、東国の征夷大将軍による幕府の独立の正当性が色濃くなっていきます。
これが豊臣政権の紐帯をさらに弱める結果となってしまいます。
以前から家康のふるまいに不満を持っていた豊臣方ですが、豊臣家の関白復帰を露骨に妨害する家康に、いよいよ危機感を高めた模様。ここから豊臣方も中央政界に政治工作を開始します。
豊臣が狙ったのが、「左大臣への就任」。
もう一度、官位の序列を書きますね。
この段階では、豊臣秀頼が右大臣、将軍である徳川秀忠は内大臣。
以前、お話ししたように太政大臣は名誉職のような存在のため、重視されていません。
ということは、摂政・関白が五摂家に戻っている以上、「ナンバー2」のポストは左大臣ということなります。そしてこの時、左大臣は空位のまま。
大阪方としては、関白が遠のいた以上、官位ナンバー2の左大臣への就任を目指します。
「関白が五摂家に戻った」ということは、徳川氏も関白になることはできなくなった、ということでもあります。
ならば、せめて徳川よりも上位の官位を得ることで、徳川を下風に置くことになり、また将来、関白が空位になった場合に備えることもできます。
左大臣就任に向け、豊臣方は活発な政治工作を開始。
その一環としてか、1607年1月11日、豊臣秀頼は右大臣の職を辞してしまいます。
これはどういうことか。政治工作が進んで左大臣昇進が見込まれるまでになっていたのか?
この動きを見逃さない徳川家康。
すぐに秀頼の左大臣就任の動きを妨害し始めます。
そして右大臣であった九条忠栄を関白に昇進させ、左大臣は空位のままとすることに成功。朝廷内部においても、すでに徳川の勢力が浸透していたのでした。
豊臣の左大臣就任を阻止した徳川家康ですが、彼にとって、やはり豊臣は油断のならない相手であることを再認識します。
どんなに弱体化させようと、「家格社会」という先例が重んじられる世界においては、豊臣が復活する道筋が残っている。
家康がどんなに他の摂関家を関白を就任させようと、豊臣家が「摂関家」である以上、豊臣が再び関白になる可能性があるのです。
戦国時代は、幕府を開いたから徳川の世になって終わり、ではないのです。
戦国の最後の埋火を消すことに、家康は難渋していました。
そして徳川政権を永続させるためには、豊臣家を徳川家に臣従させることを、どうしても避けることはできない。
徳川家康は、次の行動を開始。
1611年3月27日から4月12日にかけ、後陽成天皇の譲位と後水尾天皇の即位に関する一連の儀式が、朝廷で執り行われることとなりました。
徳川家康も当然、出席する。家康はそれに合わせて上洛することになります。
この自身の上洛に合わせて家康は、大坂城にいる豊臣秀頼に「上洛して家康に面会すること」を強い調子で要求。「家臣」が「主君」に要求している時点で、面会の意味は友好などではないことは明白。
家康は「徳川政権の永続」のため、この会見に強い想いを抱いていました。
上洛を要請するための使者として、信長の末裔として世間で一目置かれていた織田有楽斎を起用し、大坂城へ派遣します。
この要請に対し、豊臣秀頼と周辺は、当初、拒否の姿勢を示します。とくに淀殿は強く反対しました。
しかし、豊臣恩顧の有力大名であった加藤清正、福島正則、浅野行長らは、すでに情勢が徳川に傾いていることを見極めており、豊臣家の存亡のためにも家康と会見することを進言します。
豊臣が頼りとする加藤、福島などの意見は、秀頼や淀殿も無視できない。
秀頼は、しぶしぶ、会見することに同意します。
戦国時代は、確実に、終焉へと向かっていました。
続く