ついに人臣の最高位である関白に就任した豊臣秀吉。
鎌倉時代以降、有名無実になっていましたが、関白には成人後の天皇に代わり政治を行う権利が与えられていました。
これも秀吉が関白を願った理由の一つ。
鎌倉時代以降、政治の実権は朝廷の外にある「幕府」が権力の実行機関となって、行ってきましたが、関白となった秀吉のもとでは、名目上ではありますが、朝廷が直接政治を行うことになりました。
そして秀吉は、関白の権限に基づいて政治を行うべく「豊臣政権」を発足させます。
それまでの歴史では存在しなかったほどの軍事力、経済力を持った豊臣秀吉は、豊臣政権によってさらに支配拡大を推し進め、ついに天下は秀吉のもとに統一されます。
統一後も秀吉の権力は強力のまま存続。
その最たる例が朝鮮出兵です。
この軍事行動は、老境の域に至った秀吉が正常な判断ができなくなったため、とされる場合が多いのですが、1回目の出兵は異なります。
天下統一により、秀吉は新たな問題に直面します。
それは軍縮です。
統一により太平の世が訪れますが、そうなれば兵力は必要なくなります。
しかし100年以上続いた戦国時代を通じて、日本各地では兵士の数が増加し続け、統一後には30万人近い兵力が存在していたそうです。
しかも単に兵士の数が多いだけではありません。各大名が軍拡の一環として兵器の近代化にも心血を注いだため、鉄砲の数も膨大なものになっていました。
当時の日本は兵力も鉄砲も、世界の他国を圧倒する軍事大国になっていたのです。
この膨れ上がった軍事力をどうするのか?
もし「じゃあ、今日で解雇ね」とあっさり解散したらどうなるのか?
軍組織を抜けて浪人となった兵士たちが悪党となって、治安を悪化させる可能性がありました。
そのため、安易に解雇するわけにもいきません。
この「軍縮」の問題は、世界各国の歴史でも問題となっています。
一番、多い解決法は、軍に独特の土木技術を生かして、新しい土地の支配に利用するというもの。
古代ローマ帝国でも、「定年」を迎えた軍人によって植民都市が作られたり、街道の建設屋となったりしていく例が多くあります。
この時に作られた新たな植民都市が、その後の属州統治の足掛かりにもなりました。
また、中国王朝では「屯田兵」がよく見られます。
中国王朝は戦乱と安定を繰り返すのですが、戦乱が終わって安定への移行期に屯田兵が利用されます。彼らは戦乱によって荒れた土地を耕して、定住可能な地に戻します。
この屯田は戦後の復興にとても役立つのですが、復興から安定期に移る際に、今度は民業を圧迫するという問題に直面します。民業にゆだねればいいものを、いつまでも各地の司令官が軍を手放さない。その屯田によって作られた耕作地が、司令官の私的所有地になっていく場合もあります。
話が脱線しましたが、他国では土木技術などを生かして、上手に「軍事技術の民間移行」ができましたが、戦国後の日本では異なります。
なんせ狭い日本。新しく分け与える土地などありません。
豊臣秀吉のよる朝鮮出兵は、天下を統一したからこそ生まれた「軍事の膨張」を解決するための、軍縮のために利用されたのでした。
とはいえ、非常に多くの大名に号令し、実際に兵力や兵站も用意させるのは、並みの権力者では無理。
豊臣秀吉がいかに絶大な力を持っていたか、よくわかります。
しかし2度にわたった朝鮮出兵は、失敗に終わります。
そして秀吉もいよいよ死期が迫ってきます。
でも、ここで大問題が発生いますね。
秀吉が亡くなったあと、豊臣政権はどうなるのか?
鎌倉幕府や室町幕府は、子孫が「征夷大将軍」や「執権」などを継承して存続してきました。
しかし秀吉の豊臣政権は、関白に与えられた権限で作られた政権。
そして「関白」は、血統で継承されるのではなく、五摂家が輪番で受け持ってきた官職。
つまり秀吉が亡くなったら、次の摂関家に関白職がうつってしまうので、豊臣政権を持続させることができないのです!
この問題に対し、秀吉は早々に対応をしています。
彼は関白職を健康なうちに、甥の豊臣秀次に継がせます。
ここでまたまた秀吉は、ありえないことをしてしまいました。
関白職を自家で「継承」すること、です。
元々、豊臣家を作ってまで秀吉が関白に就任したこと自体が、それまでの家格社会に無かった「異例中の異例」であったのに、今度はまたまた慣例を破って、五摂家輪番の関白職を、継承しようとしている!
「摂関家」と呼ばれる五摂家にとって、関白に就任できなければ、自分たちの存在する意味がなくなってしまうのです。
この秀次への継承も、家格社会を大きく失望させ、豊臣家への不満をますます高めることとなります。
何はともあれ、関白職の継承によって、豊臣政権の存続の道筋はつけたものの、秀吉が対策をしなければならないのは「大義名分」だけではありません。
臣下の大名たちにも、この先も豊臣家に忠誠を誓わせなければなりません。
しかし、秀吉にとって一人、油断ならない人物がいました。
徳川家康です。
朝廷ですら意のままに操った秀吉ですが、家康にだけは、思い通りにすることができません。
そして強大な影響力を持つ家康が、秀吉死後に独自の行動をとることは明白。
豊臣政権を永続させるためにも、家康への対策を取る必要がありました。
そのため秀吉は「五大老」「五奉行」を創設して、家康を五大老の一人に任じます。
こうして豊臣政権の中に彼を封じ込めようとしたのです。
ここまでをして、秀吉は旅立ちました。
豊臣秀吉は、軍事的には天下を統一し、人臣をも極めた日本史上唯一の人物。
まさに日本史上、屈指の存在と言えます。
・・・・・・秀吉の死後、案の定、豊臣政権内で家康が台頭します。
彼は軍事力を高め、豊臣政権内の大名を自派へと誘い、徐々に勢力を広げていました。
しかし、彼はここで行き詰まります。
彼の行く手を阻んだのは、死期の迫った秀吉が任じた「五大老」という職。
彼は豊臣政権内に組み込まれてしまっていたのです。
もし彼が権力を得ようとすれば、彼は主家に反旗を翻した「敵」として、親豊臣家勢力は敵に回しかねません。その時点では、まだ親豊臣勢力が多かったため、家康も孤立してしまう可能性がありました。
さらに言えば、もし家康が豊臣家相手に兵を挙げれば、彼は関白に敵対すること、つまり朝廷に敵対する「朝敵」となってしまうのです。
では秀吉がやったように、豊臣家よりも上の官位に就こうとしても、すでに最高位である「摂関家」「関白」となった豊臣家を超える官位は、天皇しかないのです。
そう、一見、圧倒的に優位に見えても、徳川家康は八方ふさがりの状況に追い詰められていたのです!
まさにカゴの中の鳥!
これこそが秀吉が家康に残した、最後の「罠」。
「死せる孔明、生ける仲達を走らす」の言葉通り、秀吉は死してもなお、家康を自己の手の中にとどめようとしていたのでした。
死者に自分の運命を握られてしまった徳川家康。
果たして、彼は突破口を見つけることができるのか?
続く!!