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幸村の復讐 その1

 当ブログでは昨年末から今年のお正月にかけて、歴史記事を掲載いたしました。

 

 管理人は日本史が好きで、特に権力の移行期にとても興味があります。

 

 朝廷から鎌倉幕府への権力移行、鎌倉幕府から室町幕府の成立、室町幕府崩壊から豊臣秀吉の天下を経て徳川家康が幕府を開くまで。

 

 どの時代もスムーズに権力機関の移行ができたわけではなかった。

 

 その歴史記事ですが、徳川家康が幕府を開いて政治の実権をにぎるところまでお話ししましたが、なんとそれから伸びてしまった!

 

 未完のままでもいけないので、完結させます。

 

 くれぐれも繰り返しますが、これは一人の歴史好きのファンタジーであることをお忘れなく。

 

 

 

 

 前回の記事は、朝廷官位である「関白」を基盤とした豊臣政権から脱出するため、征夷大将軍に就任して独立を果たした徳川家康

 

 家康が、朝廷の権力機関であった「豊臣政権」から合法的に脱する方法は、鎌倉幕府室町幕府という先例のあった「征夷大将軍」に就任する以外にありませんでした。

 

 しかし「幕府」という権力機関は、戦国時代を通じて、徹底的に威厳が低下してしまっていました。

 

 家康の「戦い」は、幕府の創始で終わりではありません。

 征夷大将軍に就任したその日より、威厳が地に落ちた「幕府」に、諸方を従える権威を持たせるための戦いが始まります。

 

 

 お話は、家康が征夷大将軍に就任する少し前から始めます。

 

 関が原の戦いののち、慶長7年(1602年)に、徳川家康伏見城に戻り、政務を行いますが、このころか征夷大将軍になるべく活動を開始した模様。

 

 家康は、当時の有力な神道家であった新龍院凡瞬に、徳川氏が源氏のカリスマ的存在である源義家と血縁が通じるように、徳川氏の家系図を操作するように命じます。平たく言えば「家系図を捏造しろ!」という命令。

 

 少し脱線しますが、源義家とは、平安時代の末期の「前九年の役」「後三年の役」で英雄的な活躍をした人物で、それ以降、武士、特に東国の豪族たちの間では伝説的な存在になっていました。源頼朝鎌倉幕府を創始できたのも、もともと東国の間では源氏はカリスマ的な存在であったことが下地にあります。

 

 そして鎌倉幕府の100年を経て、征夷大将軍は源氏が世襲する、という風潮が強まります。まあ、実際には「将軍は源氏じゃないとだめ!」となったわけではなく、信長も将軍就任を勧められています。

 

 ただ、豊臣権力からの脱出を目指していた家康には、豊臣家という主家を離れる理由を得るためにも、源氏を名乗る必要がありました。豊臣家からの独立とは、朝廷からの独立と同義でもあったのです。

 

 「源氏」の系譜について話すと、すんごく長くなるのでここでは割愛させていただきます。

 

 とにかく、家康は家系図を偽造することによって、自身が征夷大将軍に就任できるための地固めをします。

 

 こうして血縁問題を「解決」した徳川家康。並行して朝廷にも裏工作をしていた模様。

 

 慶長10年(1603年)2月12日、後陽成天皇は、当時家康が滞在していた伏見城に勅使を派遣し、家康を「征夷大将軍」「淳和奨学両院別当」「右大臣」に任命する宣旨を下します。

 

 ここで「淳和奨学両院別当」という難しい単語が出てきましたが、簡単に言うと、源氏長者が就任することが慣例の職籍。

 家康が、この淳和奨学両院別当に任命されたということは、「家康が源氏長者である」ということが朝廷の公認となったことを意味します。

 つまり「捏造された家系図」が「ホンモノ」と認められた、ということ。

 

 「源氏長者」も話すと長くなるけど、ここでは「源氏の本家の跡取り」ということで

納得していただきたい。

 

 この源氏長者に任命された、ということは、「征夷大将軍」の職を代々、徳川家で世襲することも認められた、と言えます。

 つまり家康の代だけの「独立」ではなく、家康の亡き後も徳川家が幕府を継承することを、暗に認められた、と。

 

 これは朝廷からの独立、すなわち「公家」である豊臣家からの独立を許されたことも意味していました。

 

 

 

 この1603年2月12日は日本史でも重要な日。

 

 

 名実ともに、家康が「秀吉の罠」を脱出した日だったのです。

 

 なお、この時に就任した「右大臣」という朝廷官職も、後の行動の布石となります。

 

 

 

  伏見城で宣旨を受けた一か月後の3月12日、家康は伏見城を出立し、京の二条城に移ります。

 

 これもよく考えれば恐ろしいですね。もはや主家であり、「元」とはいえ関白家であった豊臣家を無視して、天皇の居所の近くである現在の京都御所の近くの城に自由に滞在する。

 

 すでに行動で、豊臣と徳川の「主家逆転」が示され始めていたのです。

 

 そして3月21日、二条城にて衣冠束帯(公家の正装。TPOに合わせた衣装を身につけたということ)をまとい、天皇の居住する御所に参内し、天皇と謁見。将軍参賀の礼を行いました。

 

 その後の3月27日、二条城にて、徳川の重臣や公家衆を招いて将軍就任の祝賀を行います。

 さらに4月4日から3日間、同じく二条城にて、今度は諸大名や中央公家(高位の貴族たち)を招いて、能楽などでもてなししました。

 

 これら一連の行事にて、中央政界にて自身の将軍就任を祝うと同時に、暗に豊臣家から独立したことを、諸方に誇示したのでした。

 

 こうして将軍に就任することで豊臣のもとから独立を果たした家康。

 

 

 しかしこれは家康にとっての「第一段階」に過ぎません。

 

 家康はすぐに、「第二段階」へと進みます。

 

 第二段階とは、すなわち「徳川政権の永続」です。

 

 

 続く!