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幸村の復讐 その5

 ここまで、徳川家康が徐々に権力を手中に収めていく過程をお話ししてまいりました。

 

 朝廷による秩序に組み込まれてしまった家康が、どうすれば独立することができるのか?

 

 前例と因襲、人的つながりに支配された朝廷からの脱却が、いかに面倒くさい、いや難しいか、語っているうちに長くなってしまった。

 

 将軍になって終わり、ではなく、将軍になってからもなお、家康は幕府の体制強化に奔走する必要がありました。

 

 そんな家康の国盗りの物語もクライマックスを迎えます。

 

 戦国時代を締めくくる大坂の陣が勃発。

 

 

 大坂の陣の前までの日本の状況をお話しすると。

 

 徳川家康征夷大将軍となって江戸に幕府を開き、東日本はほぼ、徳川の支配下にありました。ただ、豊臣恩顧の大名が多い西日本では豊臣の影響が未だ根強かった。

 家康は、秀頼との会見などで主従逆転を演出するなどしたことで、「家康の天下」という世間の認識は強固になっていたものの、それは徳川家康という傑出した人物への恐れによるものが大きかった。

 事実、豊臣は「摂関家」という地位にあり、皇族とも弱いながらもつながりがあるため関白就任の可能性が残されていました。

 やはり朝廷に根を張った豊臣は、決して安心ならない存在。

 

 色々と説があり、当初は家康は、東を幕府、西を朝廷に任せ、京都所司代が朝廷を監視することで、間接的な形で朝廷を支配下に置く形での「天下泰平」を企図していた、とも言われています。鎌倉幕府が採った方針ですね。

 

 しかし、いくら威厳を低下させ、主従逆転の演出をしても、豊臣家に「関白を輩出した家」という前例がある以上、将来、豊臣が再び関白となって、家康亡き後の幕府の存続を左右する決定を下すことになるかもしれない。

 現段階の「徳川の天下」は、徳川家康の存在へ向けられた畏敬がもとになっているのが現実だけに、家康がこの世をされば、徳川の天下もどうなるのかわからない。

 なんせ家康自身が、秀吉が去った後に実際にやったことなので。

 

 一方の豊臣側も転機を迎えていました。

 

 1611年の加藤清正の死を筆頭に、豊臣恩顧の大名たちが次々と死去していったのです。

 豊臣秀頼が頼みとできる大名は、確実に減っていた。

 

 

 「方広寺鐘銘事件」には、さまざまな見方がありますが、この時、家康にとっては「機が熟していた」とは言える。

 

  「豊臣を滅ぼして徳川の世を安泰にする」という、最後の命題を実行する機は熟していました。

 

 

 1614年11月。

 

 家康はついに、豊臣家に直接、力を見せつけました。

 

 豊臣の恩を受け、関が原から徳川と戦い続けてきた真田幸村は、真田丸を築いて善戦するも敗戦。

 

 家康は12月以降、織田有楽斎などを通じて豊臣側と和議交渉を始めます。

 

 しかし、豊臣側からの提案をことごとく拒否。中には、もはや大阪方のカリスマとなっていた豊臣秀頼の母・淀殿が、人質として江戸に向かう、などという譲歩案まで出されたものの、家康はこれを拒否。

 

 さらに12月17日には、後陽成上皇の命によって、朝廷が家康に和議を進める勧告を行ったものの、家康はこれを完全に拒否。

 

 もはや天皇をもってしても、家康をコントロールすることはできなくなっていました。

 

 家康の目的が、すでに豊臣の消滅にあることがうかがえます。

 

 家康は大阪攻めが1度で終わるとは考えていなかったようで、冬の陣での和議内容も大坂城の戦力の無効化に集中しているのがわかります。二度目の戦に備えてのこと。

 

 実際、家康は、和議成立のまもなく、すぐに戦の準備を開始しています。

 

 豊臣方は徳川と交渉を行うも、再度の合戦は避けられない、とあきらめざるを得なくなり、豊臣に残る最後の余力を総動員して、浪人なども含めて兵士を募り始めます。

 そして大坂に集った大名の中には、当然、真田幸村もいました。

 

 こうして豊臣のすべてを結集したものの、豊臣方の兵力は6万に達するか否か、というもの。6万と言っても、浪人や訓練されていない者も多かったので、どこまで戦力となるのか。方や徳川は16万の大軍。その上最新式の兵器を備えていました。

 

 戦う前から力の差は歴然。

 

 1615年4月26日から始まった豊臣最後の戦いで、多くの豊臣恩顧の大名が戦場で死を迎えます。

 

 真田幸村もまた、最後まで、徳川への復讐と、将来の豊臣の再興を願いつつ、この世を去ります。

 

 大阪方の支柱であった豊臣秀頼淀殿も自害。

 

 1615年5月7日、ついに大坂城は落城します。

 

 

 

 戦後、家康の「豊臣狩り」は徹底しており、10年が経過しても行われていたそうです。

 

 豊臣の存在を、完全に消し去ろうとしていた。

 

 

 こうして、豊臣は消滅します。

 

 

 

 1615年9月9日。

 

 二条城にて、「禁中並公家諸法度」が発布されます。

 

 

 これまで公家衆法度などの法令で、朝廷の機能や権限に制限をかけて幕府に取り上げてきましたが、この禁中並公家諸法度には、もはや何の躊躇もなく朝廷を支配下に置くことを宣言している。

 

 しかもこれまでは明確な形にはなっていなかった、天皇がやるべきこと、までが明文化されてしまっている!

 

 徳川家康は、公家社会の外にいる征夷大将軍という存在です。

 

 天皇に任命される立場。

 

 その「下の者」が、「上の者」を規定しているのです。

 

 

 世界のすべての歴史を見たわけではないのですが、共和制以前の封建時代において、このような形で明確に「主君」を家臣が決める法律が、あったとは思えない!

 

 そう、実は日本ではこの時代に、権威と権力の分離が明確な形で示されていたのです。

 もしかしたら、世界で最も早く、「近代化」の一部を成し遂げていたのかもしれない。

 

 戦国時代を通じて高まっていた朝廷・天皇の権威。

 戦国の勝利者である豊臣秀吉が朝廷官位の関白に就任することで、日本は朝廷を中心とした支配秩序の時代を迎えました。

 しかし、この禁中並公家諸法度において、天皇と関白についても、幕府が決まりを作ってしまった。

 また戦国時代に重んじられた「官位」も、禁中並公家諸法度において公家官位と武家官位が完全に別とされ、将来、幕府を差し置いて大名に官位が乱発される可能性も断たれています。

 

 そう、朝廷に関する全ての可能性が、この禁中並公家諸法度で、徳川の下に封印されたのです。

 

 この禁中並公家諸法度の発布をもって、正式に「戦国時代」は終焉を迎えたと言えます。

 そして、朝廷すらも徳川幕府支配下に入ったことが、天下に示されました。

 

 

 徳川家康は、考えられるすべてのことをやり終えた。

 

 ついに、「たった一人の天下人」となりました。

 

 やるべきことのすべてを終えた徳川家康は、禁中並公家諸法度を発布した10か月後、1616年6月1日にこの世を去りました。

 

 戦国時代の最終勝利者にして、日本史上最高の策士。

 

 まさに日本史上の第一級の人物。

 

 

 家康死後も、2代将軍・秀忠、3代将軍・家光によって大名の改易・取潰しが断行され、ますます徳川の勢力は強化され、幕藩体制は盤石となっていきます。

 

 管理人の推測ですが、幕藩体制とは、世界中のあらゆる封建制度の中でも、最高の完成度に達した、封建制度の究極の形。

 

 地方自治が保証されながらも、中央政府の権力が強大。

 

 この形が260年も持続するのです。

 

 究極の形ゆえに、封建制度の最終形態と言えるかもしれない。

 

 しかし、この260年間で「政府」という存在が国民に認識されたために、次に展開となる倒幕後の「新政府樹立」が、比較的にすんなりと受け入れられたのではないか、と推測しています。

 

 そう、広い目で見れば、明治維新江戸幕府が下地を作っていたともいえる。

 

 徳川家康の業績は、今の日本にも通じています。

 

 

 

 

 皆さん、首相の会見などの際に映される会見台の前面に、紋章があることに気が付きましたか?

 

 これは「五七の桐」と言って、歴代の天皇が、足利氏や織田信長など、時の権力者に下賜してきたもの。

 

 もちろん、豊臣秀吉もこの紋章を賜りました。秀吉はこの紋章を、自身が朝廷の威光を背景にしていることを宣伝することに利用します。

 実際に、この紋章を小判・大判に印字したり、家臣への下賜品にこの紋章を使用したりしています。

 

 そのため、豊臣政権の下では、この「五七の桐」は、「豊臣家の紋章」という認識が広まっていました。

 後に家康も天皇からこの紋章を下賜されるものの、すでに豊臣のイメージが染みついているために使用することを拒み、おなじみの三つ葉葵を使用し続けました。

 

 「五七の桐」の紋章は、実質的に豊臣の天下であることを示すものとされていました。

 

 大坂の陣で豊臣が消滅してから400年。

 

 その豊臣家の紋章が、現代の権力者である首相会見で使用される。

 

 豊臣が、権力の中枢の場に戻ってきました。

 

 このような形ではありますが、「豊臣家の再興」が成し遂げられました。

 

 幸村の復讐は、現代において、成就したのでした。

 

 

 

 

 長かった政権交代のお話も、これでおしまい。

 

 

 お付き合いいただき、ありがとうございました。