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永山中央公園に行ってきました

 皆さん、連休をいかがお過ごしですか?

 

 全国的には北海道以外は好天に恵まれているそうですね。

 

 連休前は、お子さんたちから「キャンプに行く!」と自慢げに話されていて、とてもうらやましかった。

 

 自分はこの連休は在宅の予定。

 

 でも、先日、ふと遠出をしたくなりまして。

 

 気づけばここ1年ほど、遠方に足を向けていない。

 

 ちょっと前までは、連休となれば函館だの、釧路だの、と徹夜で車を走らせてまでして、鉄道を見に行っていたのに、この1年ほどは札幌と小樽近辺ばかり。

 

 すると無性に遠くへドライブに行きたくなりましてね。

 

 でも、諸事情からそんなに遠くへも行けない。

 

 それでは、というのもおこがましいけど、旭川に行こう、と。

 

 昨年、週刊誌の報道で全国的に話題になった、旭川のいじめ事件。

 

 その後の報道やSNSなどで、現場の公園には一般人にも開放された献花台のようなものが設置されていると知り、一度、御祈りに行こうと思っておりました。

 

 もちろん、被害者の少女と何の縁もありません。それでも、その死に至るまでの経緯を知ると、同情せずにはいられない。全国からも献花台を訪ねる人がいるのに、地続きの自分がいかない理由はなく。

 

 思い切って、旭川の永山中央公園に行ってまいりました。

 

 行く途中も、様々なことを考えました。

 

 そもそも「自分は、他人のことを「正義だ!」「悪だ!」などと決めることができるほど、清廉潔白な人間か?」

 

 もちろん、そんな人間ではありません。間違いも失敗もしています。

 

 そして、「自分がいじめの現場に直面し、「いじめる側か、いじめられている人をかばう側か」の選択を迫られたとき、周囲の空気に反していじめる側に抵抗できるのか?」

 

 平たく言えば「空気を読むのか、読まないのか」というもの。「空気を読む」のは、「いじめる側に加担する」ということ。

 自分には「空気を読んだ経験」も、「空気を読まなかった経験」もあります。空気を読まなかった場合、大抵、今度は自分に攻撃の矛先がくるものです。

 でも、空気を読んだとしても、「多数派」だから安心とは限らない。今度は自分が攻撃の対象になるのではないか、という不安を常に持つことになる。

 

 おそらく、今回のいじめに加担した子供たちの中にも、「自分がいじめられるのが嫌だから」という理由で加担していたのも多いのではないだろうか。いや、実際は中心の2,3人以外はみんな、そんな感じだと思う。

 

 こんな半端な心境で献花台に向かっていいのだろうか?

 

 いい年をしているのに、真面目に考えてしまった。(もちろん、真面目に考えたからといって「良い人間」であるとは限らない)

 

 

 

 永山中央公園は、旭川の郊外にありました。市街地ではあるものの、端っこの方と言えると思う。

 

 公園は芝生のキレイな、広い空間。森林などはなくて視界が開けていて、周囲は住宅街や市営住宅が広がっている。つまり「死角」のない、人の視線が届く場所でした。

 

 今みたいな連休中に、晴れていたら、ちょっと公園に行って日向ぼっこでもするか、と思いたくなるほど。

 

 こういうイジメって、どこか大人の目につかない木の陰とか、小屋とかで隠れて行うものかと思ったら、この公園は違った。

 

 しかも隣には学校があった!

 

 頑張れば大人の視線が届いたかもしれない。

 

 加害グループには、「大人の視線」という抑止力が全く働いていなかったことがわかります。

 彼らは大人の視線も恐れずに、いじめ行為を行っていたと感じたとき、本当に背筋が凍る思いがしました。

 

 短い時間ではありますが、献花台の前で手を合わせました。

 

 

 偽善と言われれば、言い返せない。ご家族と何の縁もなく、当然ながら少女とも縁などなにもない。

 

 意味のある行為なのか?と問われれば、意味なんてないのかもしれない。

 

 でも、手を合わせずにはいられなかった。

 

 自分が良心に溢れているから、ではないです。あの場に行くと、自然に手を合わせたくなる。

 

 40を超えるオッサンでさえ、彼女が死に至るまでに受けた「いじめ行為」を最後まで聞くのは耐えられない。

 脅迫、カツアゲはもちろん、性暴行に至るまで、「弄んだ」などという言葉だけでは済まされない。

 そして何よりも、大勢の前で「一人で」させたこと。見ていた中には小学生もいたとのこと。

 かつて、ここまで人としての尊厳を奪った行為を、自分は聞いたことがなかった。

 

 同情しすぎなんでしょうかね?

 

 でもそんなのどーでもいい。

 

 自分と同じく思う人が他にもたくさんいて、何かしたいという気持ちが「献花台」として形になった。

 

 その思いによって、当初は「いじめはなかった」で済まされそうだったことが明かされ、今に至る。

 

 事件発覚後からこの公園にお参りに来て、花を捧げ、彼女の冥福を祈り続けた人がいたからこそ、世の中の空気が変わり、調査が進んでいる。

 

 自分は一年も経ってからきたので、その人たちの「仲間」というにはおこがましいけど、心ある方々が「偽善」と言われようが、「意味がない」と言われようが、心の中で小さく燃え続ける思いに従って祈り続けた結果だと思います。

 

 

 公園での滞在は、わずかに20分程度。

 

 そのまま高速に乗り、旭川を後にしました。

 

 

 行きの道中にて、自分は「善悪」を断言できる人間なのかと自問した、と書きました。

 

 おそらく、これからも自問していくでしょう。

 

 でも、その自問が形になっているときがあることに気が付きました。

 

 自分は、子供を怒らないようにしています。

 

 でもそれは自分が「優しいから」でもなく、「自制心があるから」でもありません。

 

 とても傷つきやすいし、怒る相手には怒ります。

 

 だからこそ、怒れないんですよね。自分だって完璧な人間じゃないし、子供のころに根性があったわけじゃないじゃん、って。

 

 自分が耐えきれなかった言葉を、子供に向けることはできない、と。

 

 「怒らない方法を体得している」とか、「子供の心理面を熟知している」からではないのです。

 

 子供のころに自分が大人にされて恐怖したことを、子供にする気にはなれないのです。

 

 これはすべてのケースにおいて正しいというわけではない。自分の職の最終目標は子供に好かれることではないので、緊急時などでは泣き叫ぶのを抑えてでも行わなければならない。これは絶対の中心軸なので、この軸を捨ててまで「優しく」することはできません。

 

 また、「教育」というものが、褒めるだけでいい、というわけではないことも事実。

 

 それでも、子供には怒らないようにしている。(感情が出ていたらごめんなさい)

 

 でも、不思議なもので、子供は自信を持てばできるようになる。

 できるようになれば、無理に押さえつけなくても、自分自身で受けてくれるんですよね。

 

 

 正解なんて、誰から教わるか、わからないものですね。

 

 これからも自分は自問自答していくと思う。でも、それが自分に対しての抑止力にもなっていると思う。

 

 今回、少女を救うことができなかったのは、最大の「失敗」。

 

 その後、風化させなかったのは、祈り続けた人々の行為が「抑止力」になったから、と思います。

 

 お祈りした方々は、「意味」なんて考えず、「成果」を期待したわけでもないとおもいます。

 

 しかし、今、次のいじめへの「抑止力」として形になりつつある。

 

 「大人の視線」という抑止力は機能しませんでしたが、事件後の一連の流れは、二度と同じイジメをくりかえさないための抑止力になると思います。

 

 旭川の事件について、大人はもっと自問自答しましょう。自問し続ける限り、いじめへの歯止めになるのではないか、と思います。

 

 

 

 亡くなった少女のご冥福を、心よりお祈りいたします。