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前時代と新時代の結紮点 その2

 

 時は幕末。

 

 徳川家康による創業以来260年間、権力を維持し続けてきた徳川幕府ですが、1868年5月3日、江戸城の開城を迎えることになります。

 

 この江戸城の降伏を前に、海軍副総裁であった榎本武明は、幕府艦隊を率いて江戸を脱出。東北で旧幕府軍の支援に回るも敗勢が続き、ついに最果ての箱館に到達します。

 

 江戸城開城の8か月後の12月4日、榎本率いる3000名の旧幕府軍は、箱館に直接上陸せず、亀田半島の北側にある、いか飯弁当が有名な森町の海岸から蝦夷地に上陸を果たすと、箱館を目指して南下を開始します。

 

 箱館を守る松前藩は、新政府軍と奥羽列藩同盟の両方と通じる日和見外交を行っていたのですが、榎本隊が上陸する3か月前の9月14日に新政府軍を支持する尊王派がクーデターを起こし、藩内で権勢をふるっていた松前勘解由らを中枢から排除してから、新政府軍に参加していました。

 

 1868年12月5日、松前藩が主力の新政府軍は、箱館近郊で土方歳三率いる旧幕府軍と戦闘に突入。

 

 土方歳三は指揮官としての能力を存分に発揮して、新政府軍を相次いで撃破。土方隊の侵攻に押されていた新政府軍は、撤退を決断し、箱館から海路で脱出します。

 

 12月9日、旧幕府軍五稜郭への無血入城を果たします。

 

 土方歳三はとどまらず、翌12月10日には兵を率いて五稜郭から出陣し、新政府軍となっていた松前藩の本拠地である松前城を攻め、数時間で落城させます。

 

 しかし松前藩は9月のクーデター後によって新政府側になってから、居城を内陸の館城(厚沢部町)に移していた。

 

 1869年1月4日、旧幕府軍は、新政府軍の拠点港であった江差を、海陸から攻め、陥落させますが、この時、最新鋭艦であり、旧幕府軍の頼みの綱だった開陽丸が座礁してしまう重大な失態が起き、以降の制海権を維持することが困難となりました。

 

 旧幕府軍は、この江差攻略作戦と同時に1868年12月18日に松前藩の中心である館城へも部隊を派遣し、その日のうちに落城させて占領します。

 

 しかし藩主らはすでに海路で蝦夷地を脱出していました。

 

 これにて、旧幕府軍による蝦夷地平定は完了しました。

 

 

  そして1869年1月27日、旧幕府軍五稜郭で「蝦夷地領有宣言式」を挙行して、独立を宣言。

 同日に行われた選挙により、榎本武揚が総裁に就任しました。

 

 ここから箱館政府は、独立を確固たるものにすべく、行動を開始し、当時、箱館に領事館を置いていたイギリス、フランス、オランダ、アメリカ、プロイセン、イタリアなどの列強諸国の公使と接触を重ねます。

 

 で、様々な見方や説があるんだけど、ここではかいつまんでお話しすると、

 

 色々と困難はあったけども、当時の国際法に照らした際に、箱館政権の独立性は認められていた模様です。

 「独立宣言」前の1868年12月21日、榎本武揚はイギリス・フランスの領事との会談の末、両国領事から以下のような覚書を手に入れることに成功しました。

 

 1,我々(イギリス・フランス)は、この国内問題に対し、厳正中立の立場をとる

 2,「交戦団体」としての特権は認めない。

 3,「事実上の政権」としては認定する。

 

 この中の「交戦団体」の概念は、なかなか説明が難しい。現代では廃止された考えですが、当時の国際社会には存在した概念です。

 きわめてざっくり言えば、国内の一部を占拠し、事実上、統治している勢力を、その国の中央政府と外国が公認する、というか。

 

 「独立国」としては認められないものの、ある国の一部を支配している団体として、一定の権利(?)が与えられる、というか。

 中央政府が存在を公認した反乱勢力、といいますか。

 この「交戦団体」となると、中央政府的には厄介で、基本的には国内問題なのに、国内の「反乱勢力」が交戦団体に認定されると、中央政府と交戦団体との間で戦闘などが起こると、国内法ではなく国際法が適用されてしまうことになる。

 半分独立を認めてしまうようなものですな。

 

 現在では「交戦団体」の考えは廃止されていますが、一つだけ維持している国があります。中国です。中国は台湾を「交戦団体」としている。

 交戦団体であれば、「国内問題」でありつつも事実上の独立を容認している、という立場をとることができる。(この辺は現代の国際政治に詳しい人に聞いてチョ)

 

 お話を幕末に戻すと、箱館政権は独立は難しくても、「交戦団体」として認められてしまえば、新政府から一応の「独立状態」となることができる。

 

 しかし、箱館は多国間の思惑が絡む国際港。

 

 イギリスもフランスも、箱館政権を「交戦団体」とすることで、新しい日本が内紛の火種を抱えることになることがわかっていました。

 

 交戦団体とすることで、自国の利益につなげようとした国もあったらしい。

 

 この辺りは掘ったらザクザク出てきそうなので、違う機会にお話ししますね。

 

 

 とにかく、イギリス・フランスは、独立は認めず、交戦団体にも認めないが、「事実上の政権」としては認めた。

 

 なんつうか、はっきりしない。

 

 箱館政権は、国際公認を得るまでには至りませんでした。

 

 「事実上の政権」という言質を得たのは事実。

 榎本武揚はこの文言を使用したイギリスとフランスに、新政府への嘆願書を託します。

 嘆願書の内容は、幕府が無くなって禄の当てがなくなった旧幕府武士のために蝦夷地を開墾するのが目的なので、箱館政権の存在を容認してほしい、とありました。

 

 独立を求めるものなのか、新政府に参加するものの、事実上の自治州を目指すものだったのか、は不明。

 

 いずれにしろ、イギリス、フランスの公使から榎本武揚の嘆願書を受け取った、新政府の岩倉具視は、これを拒否。箱館政権への軍事力行使の姿勢が鮮明になりました。

 

 1869年5月15日、1500名の新政府軍は、江差の北にある、日本海沿いの乙部に上陸します。

 

 江差を守備していた箱館政権の軍勢150名が迎撃に向かうも、新政府軍に敗れます。そして江差は新政府軍の艦隊の艦砲射撃にさらされて陥落。

 江差は新政府軍の占領下となりました。

 

 5月18日には黒田清隆の率いる2800名が江差に上陸。

 新政府軍は4つのルートから、箱館へ侵攻を開始します。

 

 各地で新政府軍が進撃を続ける中、現在の北斗市方面を守備する土方歳三の部隊は防戦し、ついには新政府軍を撃退してしまいます。

 土方軍はその後も、何度も新政府軍の奇襲を受けるも防ぎ切り、なんと10日以上も防御拠点を守り抜きます。

 

 しかし5月25日、物量で勝る新政府軍に敵わず、ついに撤退を余儀なくされ、五稜郭へと入ります。

 

 このほか、四陵郭を死守していた大鳥圭介五稜郭へ敗走し、ついに箱館政府の拠点は五稜郭だけとなってしまいました。

 

 6月20日の未明、函館山の裏側に上陸した700名の新政府軍は、絶壁をよじ登って函館山山頂に到達。函館山を守っていた新選組は、驚いて麓にある弁天台場へ敗走。

 

 函館湾はもちろん、箱館の全てを一望できる函館山を占拠した新政府軍は、ここから攻撃を開始。湾に停泊していた幕府艦隊はもちろん、市中の重要拠点を次々に破壊していきました。

 

 五稜郭で戦闘に従事していた土方歳三は、思い入れが非常に強い新選組が窮地に陥っていると知り、その救出のために五稜郭を出て弁天台場へと向かいますが、一本木関門付近で狙撃され、戦死します。

 

 

 土方歳三という支柱を失った箱館政権は崩れ始め、新政府軍は6月20日の午前中の内に箱館を完全に制圧しました。

 

 榎本武揚は捕縛され、箱館政権は消滅し、箱館戦争終結

 

 箱館戦争終戦は、戊辰戦争終結も意味していました。

 

 

 こうして、日本は内戦を終え、ついに「江戸時代」が終焉を迎えたのでした。

 

 

 戦後、箱館の市中にはたくさんの死体が残されていました。

 

 その内、新政府軍の遺体は埋葬されたものの、旧幕府軍の遺体は明治政府から「逆賊である」とされて、埋葬することを禁じられて放置するように通達されます。

 

 しかし箱館の住人により、自然発生的に埋葬が始まり、明治政府もそれを黙認します。

 

 そして、後に新政府に参加した榎本武揚大鳥圭介により、函館山の麓に旧幕府軍の兵士たちを祭る鎮魂碑、すなわち「碧血碑」が建てられたのでした。

 

 東京の靖国神社には、新政府軍に参加して亡くなった兵士たちが祀られています。

 

 いわば戊辰戦争の「勝者」の側が祀られている。

 

 そのもう一方の側にあたる、戊辰戦争の「敗者」の側の人たちが、この碧血碑の下に眠っているのです。

 

 立派なつくりの靖国神社に比べ、碧血碑はただの石碑に過ぎません。

 

 でも、日本の歴史において、重要な局面を演じた人たちであることは確かです。

 そう、最後まで「江戸時代」を生きていた人たち。

 函館山の麓の森にて、戊辰戦争の結末を見ることができます。

 

 このほか、函館近辺には、日本の近代化を象徴する2隻の船が眠っています。

 

 一つは開陽丸。

 ペリー艦隊に衝撃を受けた幕府が、その威信をかけて造船した(オランダに発注したんだけども)、日本初の西洋式軍艦。2500トン。

 このクラスの戦艦は、大型船先進国であった欧州でも珍しく、箱館に入港した際には各国の領事も見学に出向いたほど。

 当時の日本ではとびぬけた性能と攻撃力を備えており、戊辰戦争では、開陽丸一艘だけで制海権を手中にしていました。

 箱館政権の独立の可能性も、開陽丸があればこそ。それだけに、江差座礁したと同時に、独立の可能性も潰えたと言えます。

 

 開陽丸は、江差の沖に眠っています。

 

 もう一つは咸臨丸です。

 幕府が2番目に保有した西洋式軍艦で、620トン。

 日米通商修好条約の批准書交換のための遣米使節団を運ぶために、アメリカに派遣されます。

 この時の航海はアメリカ人の航海士の協力も大だったのですが、兎にも角にも日本が初めて大航海を成し遂げた、として歴史的な事件となりました。

 戊辰戦争が勃発すると、咸臨丸は榎本武揚に接収されて箱館に向かったものの、そのころには老朽化しており、性能も見劣りしていたために途中で脱落し、新政府の所有となります。

 その後、輸送船となり、1871年11月2日、旧士族を乗せて箱館を出港したすぐ後に暴風にあって座礁し、翌日には沈没して、寿命を終えます。

 

 日本史でも有名な咸臨丸は現在、木古内沖に眠っています。

 

 日本の新時代は、海から始まりました。

 咸臨丸も開陽丸も、海からやってきた新時代を体現した存在。

 

 そして、海と人との接点である港もまた、日本で最も早く新時代の空気に接した場所。

 

 

 函館は不思議な街です。

 

 

 最初に開港されたことで、日本で最も早く「新時代」を迎えた街であるとともに、旧幕府軍が最後まで存在した、日本で最も遅くまで「江戸時代」が続いた街。

 

 

 そう、新時代が始まり、江戸時代が終わった街。

 

 函館山は、この2つの時代の境目が同居する、とても不思議な山です。

 

 碧血碑は、函館山の麓の森の中に、ひっそりとたたずんでいます。

 

 幕末の「もう一つの側の主人公」たちが眠る場所です。

 

 

 年表では線引きによって表現される「時代区分」が、函館では生きた風景の中で同居しています。

 

 

 

 

 

 追記

 

 

 上記のように、函館には幕末と開国時代に関する名所がたくさんあります。

 

 

 松前城はもちろん、江差には開陽丸記念館があって、実物大の開陽丸があって、大砲の発射を体感できます。咸臨丸の眠る木古内には記念碑がありますし、函館にはペリーの記念碑などなど。

 

 道南を「幕末・開国」というテーマで巡るのも、なかなか面白いですよ。