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ペルリ提督、函館に上陸す!その11

 アメリカと松前藩の緊迫した交渉が続いていますが、ここで閑話休題して、ペリー艦隊が来航以来の箱館の様子について、お話しします。

 

 

 ペリー艦隊は、停泊中、松前藩から食料や薪水などの補給を受けていたが、その際にアメリカ側からも箱館の人に贈り物などが渡されおり、あったものの、交流も行われていました。

 

 また、アメリカ側から家屋の提供を求められていましたが、松前藩は、あくまでも一時滞在のため、と限定して、ペリー提督には、交渉の場ともなった山田屋屋敷、士官たちには松前藩の支所である沖の口役所、ハイネ、ホロンらの司画官(画家)には実行寺が提供されていました。

 

 船員たちは、結構、自由に行動していたらしく、箱館の近隣の村まで足を向けて、名主の家に上がり込んで勝手にお茶やお菓子を取って銀銭をおいて立ち去ったり、家に上がり込んで食事をするなど、ちょっと度が過ぎる面もあったようです。

 

 そのアメリカ人たちにとって、箱館はどのように見えたのでしょうか。

 アメリカ人たちは、当初、箱館の静かさに驚いていたようです。商業都市にありがちな喧噪も無ければ、乗用車や荷車も見えない。静けさが街を支配している、と。

 これは本来の箱館とは思えません。松前藩は、ペリー艦隊が来航前に婦女子は山に避難するように指示し、かつ行動も自粛するように住民に命じていたため、異様なほど森閑としていたと思われます。

 

 しかし、アメリカ側も、これが箱館の真の姿であるということには疑問を持っていた模様。

  

 「それでもなお、荷をつけた馬が時々ゆっくりと街上を駆られて歩き、数百の船が港内に投錨し、無数の小舟が同湾を勢速く滑っていき、日本の刀を佩いた多くの立派な日本紳士及び役人が尊大に歩き回ったり、立派な馬具をつけた馬に乗っているのを見るとき、外国人は箱館が反映している町だという印象を受ける」

 

 と記しています。数々の国の港町を見慣れてきたアメリカ水兵たちには、港の中の船の数や動きを見ただけで、およその商業の活発度合いが推察できるようです。

 

 また、松前藩が残した日本側の記録に残っているアメリカ人の様子に、興味深い期日があります。

 5月18日に、アメリカ人が、箱館の山背泊台場を見学した際のこと。山背泊台場に設置されていた大砲を見て、アメリカ人は「はなはだ嘲弄し、両手を少し開いて「ニホン  ポン」と言いて笑い、また両手を大いに広げて「アメリカ ドヲン」と言いて、鼻をつまみツラをしかめて驚異の身振りをし、また、わが大砲一たび放さば箱館はたちまち微塵になると手真似をし、日本の大砲を指して小鳥をおとすにはちょうどいいと手真似して悔弄した。これ以外にも様々な手真似、身振り等をして日本をさすは取る事易しという様子なり。」

 

 最後の方の「日本をさすは取る事易し」は、おそらく「日本を占領するのは簡単だ」という意味か?

 まあ、大砲を見ただけで、日本とアメリカとの軍事力の差は明らかだった、というのはわかります。

 

 

 一方の箱館の人には、アメリカ人はどう映ったのか?

 

 箱館の人々は写真と黒人を見て驚いたようです。

 

 (以下、差別を思わせる表現が出てきますが、当時の記録にあった言葉を掲載します。文字や表現に当時の人々の純粋な視点が現れていると思われます。当時の時代背景を理解する、という意味でご容赦いただけたら幸いに思います)

 

 5月22日の出来事。

 「2,3名の黒人どもは、店の近くに立っていて、遠藤又座衛門を驚かせた。彼はクロンボはどんなものか知らなかったので、顔を塗っているのではないか、と幾度も訪ねた」

 と、あります。

 この時の「黒人」はどのような立場だったのか?水兵としてか?はたまた奴隷として?

 ペリー艦隊が箱館にやってきた1854年は、まだアメリカには奴隷制度がありました。

 ただ、アメリカで1831年に、ギャリソンという人がキリスト教の教えから奴隷制度反対を訴え始めた、とのこと。そして1839年に「アミスタッド号事件」が起こります。これについて語ると長くなるので、1997年に公開された「アミスタッド」という映画を見ていただきたい。

 このアミスタッド号事件の裁判はアメリカで行われ、史上初めて黒人奴隷に配慮した判決が言い渡されます。

 その後、1861年に、アメリカでは奴隷制を巡って南北戦争が勃発します。

 

 1854年はその中間。おそらくアメリカで奴隷解放の運動が徐々に広がり始めていた時期と思われます。

 ペリー自身はどう考えていたのか、わかりませんが、彼は若いころに奴隷船貿易の護送をする仕事に従事していたこともあった、とのこと。

 

 すんません、この時代のアメリカ軍での黒人の地位を調べる時間はなかったので、ここまでにしておきます。アミスタッドとアラバマ物語という映画は、参考になるかも。

 

 

 

 次に箱館の人を驚かせた「写真」ですが、5月24日に、遠藤と石塚官蔵が肖像写真を撮ってもらったそうです。

 「彼らは彼ら自身と、背後に槍を持ち、帽子をかぶり、特殊な鎧を着た家来どもを従えている乾板を見て非常に喜んだ。写真術について今まで聞いたことのあるものは、この地に誰もいなかった。珍しさと驚嘆と喜びは、彼らの態度と問答の中に等しく表れていた」

 とのこと。

 おそらく、遠藤と石塚は、日本でも早くに撮影された人物と思われます。

 

 

 このほか、実行寺に滞在中の司画官のホロンらが、箱館の様子を撮影しているのを見て、出来上がった写真には絵図面が立体的に映っているのを確認して驚き、

 「其鏡に絵図面人物に拘わらず、鏡にそのまま写り」と、なんでも写せることに感心しています。

 そして箱館市中では「魔術か」と噂になったとのこと。

 

 この写真の噂を聞いて、我もと撮影希望者が現れたらしく、前述の遠藤と2人の従者の写真の他、箱館の役所の役人といった松前藩関係者の他、3名の女性も写真に写った、とのこと。

 

 また、取引が許された沖の口では、バザー会場のようになったらしく、アメリカ側は日本の手工業製品に大きな関心を持っていたそうです。

 

 このように、小規模でぎこちなくではあるものの、箱館の住人とアメリカ人との交流が行われていた中、事件が発生します。

 

 

 1854年5月25日、アメリカ側からの使いが箱館役所にきて、

 

 「バンダリア号の船員で、以前から病気にかかっていた者が、昨夜、病死した。箱館にて葬りたいのだが、どこに葬ればいいか?」

 

 との問い合わせがありました。

 

 外国人を葬ったことは、下田や横浜でも前例があったらしく、松前藩も了承し、埋葬場所を提供しました。

 

 ,翌5月26日の午前、埋葬が行われ、アメリカ側は37人が参列し、松前藩も井上又座衛門らが参列しました。

 葬儀の後、通訳官ウィリアムズが役所に来て、今朝埋葬した場所に石塔(墓石)を立て、周囲を柵で囲いたい」と申し出があったので、急いで有り合わせの石塔を一本贈り、柵を立てることも承知したところ、ウィアムズは書面を取り出し、書面の内容を石塔に彫り付けてくれるように願った、とのこと。

 

 また、5月28日にウィリアムズが来て、昨夜、またもバンダリア号の水兵一人が病死したので、先日の場所に葬らせてほしいとの依頼がありました。

 この時、亡くなったのは19歳のG・W・レミック。

 

 連日、アメリカとの厳しい交渉に臨んできた遠藤又座衛門は、アメリカ人の若者が故国から遠く離れた地で命を落としたことに深く同情し、格別の配慮をしたそうです。

 

 そして訃報を受けた5月28日の夕刻、72人のアメリカ兵に送られて、埋葬されました。

 

 2人が埋葬されたのは、現在の函館市船見町23。

 二人が埋葬された場所には、後に、開港によって滞在中に亡くなった外国人たちが埋葬されるようになり、プロテスタント墓地、ロシア人墓地なども設けられ、「外国人墓地」と呼ばれるようになりました。

 

 連日の松前藩との交渉で、日本に悪感情を抱いていたペリーも、水兵2人の埋葬に際し、松前藩箱館の住人が礼を尽くして配慮してくれたことに、感謝の意を表明しています。

 

 交渉では緊張が高まっていた松前藩アメリカですが、交渉以外の面では、交流が進んでいたようです。

 

 

 

 追記

 

 後のことですが、ペリー艦隊が箱館での任務を終え、いよいよ箱館を出港するという日に、バンダリア号の水兵たちは、「遠い異国の浜辺の丘に眠る2人の友を弔うため記念碑を設け、我々が作った碑文を刻んでほしい」と願い出ました。

 しかし、この願いは当時は実現されなかった、とのこと。

 

 それから100年が経った1954年。すなわち終戦から9年が経った昭和29年7月17日。

 

 ペリー来港100周年の記念式典にて、ついにバンダリア号の水兵たちの希望が実現し、2人の墓のかたわらに記念碑が建設されました。

 

 そこには、バンダリア号が箱館に残る仲間に送った碑文が刻まれています。

 

 "Sleeping on a foreign shore,

     Rest,sailor,rest!  thy trial o'er;

     Thy shipmates leave this token here,

     That some,perchance,may drop a tear,

     For one that braved so long the blast,

     And served his country to the last."

 

 (日本語訳)

「外つ国の海辺に眠り 

 懇へかし 舟人よ 憩へかし!

 汝が試練(こころみ)は果てたり

 汝が友の舟人等は この記念(かたみ)を

 ここに残せり

 涙そそぐ人もありなん

 幾年か雨風をしのぎ

 祖国のために生命(いのち)献げし人に」

  (土屋喬雄・玉城肇 訳)

 

 二人のアメリカ水兵が埋葬されているのは、函館湾を一望できる、眺望の素晴らしい場所です。

 二人の墓石は海の方を向いて立てられています。

 目の前の海は、故郷・アメリカにもつながっている。

 二人の魂が、海を渡って、祖国に帰還していることを願います。

 

 

 

 追記の部分は、ほとんど抜粋させていただきました。

 

 函館の開港の歴史を語る上で、とても重要なエピソードと思われます。

 

 外人墓地は観光地としても紹介されていますが、あくまでも宗教や人種が違っても、人が眠っている場所ですので、ご注意ください。