萩原重秀の経済政策によって、財政が好転した幕府でしたが、ここでさらなる問題が発生してしまいます。
貨幣改鋳によって市中に多くの貨幣が放出された結果、経済を刺激することになり、元禄バブルとも呼ばれる経済の沸騰を招きます。
「モノが欲しい」という圧力が強まり、モノの価格が上昇。つまりインフレが発生します。
それにつられて幕府の支出も拡大。
とくに綱吉個人の出費が大きかったらしい。
綱吉の出費というよりも、綱吉の母である桂昌院の出費が莫大でした。
桂昌院は神仏への信仰篤い人物で、各寺院への寄付を行いました。
以前、札幌で「唐招提寺展」が開かれて見に行ったことがあるのですが、この唐招提寺にも桂昌院は様々な寄進をしていましたからね。
なお、悪名高い「生類憐みの令」のお話をすると、この法令は江戸だけではなく、幕府直轄領も対象となり、地方の役所では「動物を殺す道具を取り上げる」として、支配地域の各家から武器を回収したところ、銃や刀など物騒なモノもあり、総数が役所で保有する量を超えた地域もあったそうです。
案外、「生類憐みの令」は、刀狩のように、農村の武装解除を裏の目的としていたのではないか、と管理人は推測しています。
とにかく、萩原重秀の経済政策によって幕府の支出も拡大してしまいます。なんたる皮肉な結果。
また、さらなる問題が発生します。
「その1」で、コメの収穫量が上がった、と書きました。
インフレによって様々なモノの値段が上昇しているにも関わらず、米だけは量は十分にあるので、価格がそんなに上昇しなかったのです。
つまり、元禄バブルにおいて幕府や各藩だけが損をする、という、異様な状況が現れてしまいます。
これは、権力の実行機関としての江戸幕府の存在意義すら揺るがしかねない、重大事態でした。
徳川綱吉亡き後、将軍に就任した徳川家宣は、幕府財政を立て直すため、新井白石を起用します。
白石は、インフレ対策と、コメを基本とする農本主義を復古すべく、貨幣価値を元に戻します。
市中に流通する通貨の量を減らすことで、物価を抑えよう、と。
しかし、急激に市中から通貨がなくなったことで、経済が一気に停滞してしまい、デフレへと向かいます。そのため、今度はモノの値崩れが起こり、当然のように米価も下落。幕府財政はますます窮してしまう結果となってしまいます。
極端な緊縮政策によって、庶民の生活も低迷してしまいます。
この状況で登場するのが、八台将軍・徳川吉宗です。
激しい権力争いを勝ち抜いた吉宗ですが、すぐに厳しい幕府の現状に直面してしまいます。
幕府財政を回復すべく、吉宗が行った「享保の改革」の内容が、徹底して支出を減らす「質素倹約」、「新田開発」や「上米」などによって幕府の米収量を上げる政策等々。
・・・・でも、これを見て、皆さんも薄々気づくと思います。
そう、やるべきことが正反対であり、これではますますデフレを加速させてしまう。
特に吉宗が「米将軍」と呼ばれる所以となった「新田開発」「上米」ですが、米の収量が上がることで、返って米価の低下を招くという、負のスパイラルに陥ってしまいます。
結局、幕府は「米」を収入とする以上、「生産者」という立場でしか経済活動に係わることができないのでした。
ここにきて幕府は、統治哲学の矛盾という、根本的な問題に直面してしまいます。
吉宗はついに決断します。
それは、萩原重秀が行っていたような、貨幣政策を再開させること。
すなわち貨幣改鋳を行い、市中に出回る通貨を増やすことで、景気を上昇させ、幕府財政を好転させました。
以降、この時の吉宗の改革が、後の幕府の改革の基本となっていきます。
しかし同時に、幕府が「農本主義」から、経済活動から収入を得る体制へと、その統治哲学を大きく変更させた瞬間、ともいえる。
吉宗は、幕府のイデオロギーを転換させた人物。
この後、松平定信の「寛政の改革」、水野忠邦の「天保の改革」などが行われますが、どれも享保の改革を基本にしつつも、幕藩体制は「石高」で大名の立場を決定するため、完全には農本主義を捨てることはできませんでした。
そして、いち早く西洋化を取り入れた西国諸藩では、工業生産額が農業生産額を上回る事態も起き、幕藩体制の矛盾はますます拡大。ついには倒幕へと向かっていきます。
なお、吉宗の後の改革は松平定信や水野忠邦など、幕僚によって行われていますが、これも吉宗が行った改革の結果。
吉宗は、次期将軍を長男の徳川家重に譲りますが、家重は発達障害が見られたらしく、幕政に係わることに不安もありました。そのため吉宗は家重の統治を補佐すべく官僚組織を強化します。
吉宗のこの措置は、幕府の安泰のためには必要なことではあったのですが、これを機に権力が将軍を離れ、幕僚たちへと移り始めます。
家重の息子、徳川家治は利発な人物だったそうなのですが、家治が将軍に就任したときにはすでに官僚組織が強力になっており、将軍の実権はかなり制限されている状況でした。
吉宗以降の改革で、幕僚が主導するのはこのためです。
以上が、吉宗の実績。
彼の真の功績は、幕府の根本を大きく変えたこと。それによって、幕府はこの時点での崩壊を免れ、延命することができたといえます。
この時、日本を除く世界では、欧州各国による植民地獲得競争が過熱していました。
アステカ帝国は中米で隆盛を極める巨大な帝国でしたが、スペインが植民地としてから過酷な統治が始まり、インディオたちが労働に駆りだされ、1000万人いた帝国の人口は、100万人にまで減少してしまいます。
アフリカ、アジアも同様。
しかし日本では、「幕府」という強固な政府が存在したおかげで、不穏な世界情勢から距離を取ることができました。
「鎖国」は、閉鎖的で消極的な政策、ではありません。
植民地主義が吹き荒れる国際情勢において、妥当であり必要な政策だったのです。
吉宗については以上。
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