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頼朝と政子の遺産 その5

 

 ついに始まった、朝廷と鎌倉幕府(この時点では幕府ではない。)の戦い。

 

  鎌倉の武士たちは、自分たちが「朝敵」とされたことで動揺していました。

 

 もはや坂東武士のカリスマであった源氏はおらず、頼朝譜代の有力豪族たちも北条氏によって淘汰されてしまった。

 

 「将軍」不在の鎌倉政権は、この時、支柱となる存在がないため求心力を失い、空中分解寸前の状態になっていました。

 

 朝廷に寝返ることで「朝敵」の汚名を振り払おうとするものもいました。

 

 もはや風前の灯となった、鎌倉「幕府」。

 

 

 しかし、この時、強烈なリーダーシップを発揮した人がいました。

 

 頼朝の妻、北条政子です。

 

 

 この絶体絶命の危機において政子は、たじろぐどころかむしろ厳然とした姿勢を見せます。。

 

 動揺する御家人たちを前に、頼朝の恩を説き、またそれでも朝廷方につきたいものはここを去っても構わない、と、涙ながらも険しい声で毅然と訴えました。

 

 政子の激しく、そして情を揺さぶる演説を聞き、御家人たちは我に返り、むしろ発奮。

 北条義時の下に硬く団結し、すぐさま上皇討伐の部隊が編成され、京に派遣されました。

 

 朝廷方では、将軍不在の鎌倉では、北条打倒の院宣を出しさえすれば、後は勝手に鎌倉内部で内紛がおこり北条氏は滅ぶだろう、と予測していたために、鎌倉が返って結束した事態に大いに驚き、急ぎ部隊を送るものの、もともと朝廷方には戦闘に長けた指揮官が不在であった上に、鎌倉方に兵士数でも圧倒され、朝廷方は大敗。

 京の都になだれ込んだ鎌倉軍により、後鳥羽上皇以下は捕縛されてしまいます。

 

 戦後、後鳥羽上皇順徳上皇隠岐ノ島などに配流され、後鳥羽上皇の所有していた荘園も幕府に没収され、幕府の意向に従う天皇が即位、六波羅探題が設置されて朝廷は常に鎌倉政権の監視下におかれることになりました。

 

 お話を整理してみましょう。

 

 承久の乱前、頼朝が征夷大将軍に任命され、鎌倉の勢力に大義名分を与えられたものの、以前書いたように「将軍」の大権の及ぶ範囲はあくまでも「戦闘地域」に限られており、鎌倉幕府となっても必ずしも全国支配が許されたわけではなく、当時の日本は、東日本を鎌倉幕府が、西日本を朝廷が支配する形となっていました。

 しかし、承久の乱後、六波羅探題により西日本の武士団も(朝廷を介して間接的に)鎌倉幕府支配下にはいることになり、そのうえ、天皇の後継などに幕府の意向が強要されることとなりました。

 天皇に任命される将軍が、天皇および皇室の実権を握るという、革命ともいえる事態となりました。

 

 そしてこれ以降、日本史において、権威の源泉としての朝廷と、権力の実行機関としての幕府が並び立つ関係が始まります。

 つまり、政治などの実権を幕府という外部の存在に委ね、天皇は将軍やそのほかの官職などを任命し、様々な宗教的神事を執り行う「権威」としてのみの存在となりました。

 

 これは現代にも当てはまります。内閣総理大臣は、形式的には天皇から任命される形ですが、皇室が政治的な発言をすることには強い制約が課せられます。意外なことに、天皇大権の認められていた大日本帝国憲法の発布後でも、天皇が意見することは慣習的に制限されていました。

 つまり、江戸幕府の滅亡により始まった法治国家日本でも、その根底には承久の乱以降に確定した「権威」と「権力」の分離の構造が反映されていた、と言えるかもしれません。今に至る制度の根本は、承久の乱にて確定された、と管理人は推測しています。

 

 これには大きな意味があります。

 世界の他の地域、中国やヨーロッパの王朝においてはこのような図式にはならず、王や皇帝もろとも滅ぼされたため、「権威」のみの存在が残ることはなく、結果、様々な国が生まれては滅んでいくことになります。

 

 しかし、日本においては権威と権力の分離により、滅ぶのは天皇を中心とした朝廷ではなくあくまでも幕府であり、政治の不満の矛先も、朝廷に向けられるのではなく歴代の幕府に向けられる様になります。

 

 この承久の乱以後、日本史は世界史とは違った展開を見せることとなります。

 「権威と権力の分離」を成し遂げた日本は、世界中の国々の歴史の中でも、特異な方向に進み始めます。

 そうした意味において、承久の乱は日本史上でも非常に意義のある出来事といえます。

 

 

 話を戻します。

 

 

 承久の乱に勝利したのもつかの間、戦後処理を巡って鎌倉政権内部でゴタゴタがあり、なんと執権の北条義時が急死、またまた鎌倉は動揺します。

 

 しかし、今や老練な政治術を備え、圧倒的な存在感を持っていた北条政子が毅然とした態度を示し、反抗的な御家人を罰し、関係者を配流するなどしたため、騒ぎは小規模で収まりました。

 

 そして翌年、ついに藤原頼経征夷大将軍に就任。

 

 鎌倉政権は晴れて「幕府」としての朝廷公認を回復します。そして以前にもまして、全国的な権力を得ることもできました。

 

 源実朝の死から藤原頼経の将軍就任まで、5年の月日が流れていました。この5年間、将軍不在の鎌倉政権は何の存在根拠もない、ただの地方勢力に過ぎませんでした。いつ空中分解してもおかしくはない状況。まさに存亡の危機に立たされた5年間でした。

 

 この5年の間、北条政子藤原氏から将軍の後継者を迎えるための交渉を行い、承久の乱にて支柱となり、戦後処理でも見事に裁く、など、大きな力を発揮。その存在感の大きさを全国に知らしめました。

 

 まさに「尼将軍」と呼ばれるのにふさわしい功績。

 

 もし、北条政子が存在しなければ、鎌倉幕府は様々な内部闘争のために早期に瓦解していたかもしれないし、朝廷から後継将軍を迎えることができずに求心力を失っていたかもしれません。

 そして、彼女がいなければ、承久の乱の際に御家人たちは結束しなかったかもしれません。

 彼女のおかげで、後の日本史に権力の実行機関としての「幕府」という前例ができて足利尊氏徳川家康がそれに倣い、結果として権力から離されることで天皇が存続することが可能になった、と言えます。

 

 さらに言えばそれは現代において、「皇室」と「政府」という形で存続しているのです。

 

 そう、我々が今、生活している現代も、1000年前に源頼朝北条政子が心血を注いで作り上げたもの、ともいえるのです。

 

 その点で、幕府を創始した源頼朝、夫・頼朝が作った「幕府」を定着させた北条政子は、前例のない政治システムを作り上げたという点で、後の日本史に残した影響は、計り知れないものがあるといえます。

 

 まさに日本史の方向を大きく変えた、と言えます。

 

 日本史における、第1級の人物を上げろ、と言われたら、管理人は迷わず源頼朝北条政子を挙げます。

 

 

 

 

 北条政子は、執権に名君と名高い北条泰時が就任し、幕府が安定したのをみると、やっと安心できたのか、病の床についてしまいます。

 

 そして嘉禄元年(1225年)、亡くなりました。享年69歳。

 

 夫である頼朝とともにあって幕府の確立に尽力し、頼朝亡き後は二人で作った幕府を存続させるために奔走した人生でした。

 

 苛烈な性格のようにも見えますが、静御前に見せた優しさなどのように、女性に対しては(頼朝の浮気相手以外には)とても温かく接し、御家人たちもそのような彼女の温和な一面を慕っていました。

 

 

 

 北条政子が眠っているお墓は、周囲のお墓と大きな差のない、失礼な言い方ながら「何の変哲もない」お墓でした。前方後円墳でもなければピラミッドでもない、中国の皇帝陵でもない、非常にフツーのお墓。でも、日本史を世界史に比べて特異な方向へ導いた、世界史でも重要な人物だと思います。

 

 彼女のお墓の場所を書こうと思ったのですが、ごくごく普通の墓所であること、周囲があまりにも静かな環境であることから、とても観光地とは言えないため、この場では記しませんでした。

もし、訪れる機会があったとしても、そこはあくまでも他の方も眠る墓所であり、何よりも北条政子が静かに眠る場所です。

 

 訪れる際はぜひ、その点に留意をお願いいたします。

 

 

 

 

 ・・・・・以上が6年前に語った、源頼朝北条政子の物語の全て。

 

 「なぜ、日本はこれまでに滅んだことがないのか?」

 

 この解答は、日本史の全ての時代にちりばめられています。

 

 日本史におけるすべての事象が折り重なって、今があります。

 

 もっと、自分の国の歴史を誇りに思っていいのではないか、と思った今日この頃。