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明治維新が成功できた理由についての私見 その1

  

 前回の記事で、欧州における「立憲君主制」の成立についてお話ししてみました。

 

 新たな政体への移行は、決してスムーズに行われたわけではなく、共和制派(といっていいのかな?)と王党派(国によって呼称は異なるものの、ここではこう呼びます)との間で、「実権」を巡るせめぎあいが長期に渡り、行われます。時には武力衝突も起こりました。その結果、共和制が完全勝利して王権を排除した国もあれば、王権が強い形で残った国もあります。

 

 一方、300年に渡って江戸幕府が支配していた日本では、江戸幕府が強力な組織であったにも関わらず、比較的短期間で「立憲君主制」へと移行することができました。

 

 この近代化への過程である「明治維新」が、なぜ、他国と比べて短期間で達成されたのか?

 

 日本が開国したとき、すでに近代化を達成した欧米各国と交渉しなければならず、周回遅れの日本は急いで近代化する必要があった、という切迫した事情が根底にあるのは事実です。

 

 しかし、その達成には、明治天皇の存在が大きな影響を与えていた、と管理人は推測しています。

 

 以下、その理由について、3つの点からお話ししてみます。

 

 

 

1,明治天皇が議会制民主主義や立憲国家の成立に協力した

 

 江戸幕府が倒れた後、数々の政権機関を経て大日本帝国憲法が発布され、明治天皇を中心とする「政府」が発足します。

 ここから日本は混乱もなく、近代化へまい進する、と思ってしまいがち。

 

 ここで重要なのは、明治時代が「立憲制度」「議会制民主主義」の黎明期であったこと。

 それまでの日本史において、前例のない政治政体が始まったのです。

 そして大日本帝国憲法では「天皇大権」が認められている。

 解釈次第では、いつでも天皇を中心とした王権の強い体制へと移行しかねない。

 実際、欧州では王党派の巻き返しが繰り返されています。

 

 しかし日本では、実際にはすでにこの頃から、慣習的に天皇の政治発言は厳しく制限されていました。

 日本では「権威」と「権力」の分離が、鎌倉時代から行われていました。

 

 西洋史を学ぶ中で、管理人は個人的に、西洋の「近代化」は2つの過程が行われた結果ではないか、と思うようになりました。

 一つは「権威」と「権力」の分離。日本での「朝廷」と「幕府」のようなもの。

 それまでの欧州の王室は、キリスト教の一夫一妻の教義のために王室が短命でおわることが多く、その王室の滅亡もしくは交代のたびに国内の権力闘争や外部からの介入などによって、政治が混乱しました。

 一方で、アメリカ植民地から大量に銀が流入したことによる通貨のダブつきと、喜望峰ルートの確立による東洋との交易の活発化のため、欧州の経済は沸騰します。

 経済活動を維持するうえで、政治の安定は必須。しかし王権はローマ教皇の任命権によるコントロールや、継承戦争などにより不安定な状況が続いていました。

 経済活動が膨張した結果、「君主制」は限界を露呈し、不変の体制が望まれ、王室の動向、さらに言えば宗教の動向に左右されない「共和制」などの民主的(?)な政体が生まれたのではないか、と。

 その中で「共産主義」と言うイデオロギーも誕生したのかもしれません。

 つまり、近代化の一つの過程として「権威」と「権力」の分離が、まず行われる必要があった、と。

 この点で言えば、日本ではすでに分離されていた。

 欧州が困難を伴って達成した過程は、日本ではすでに達成されていた、と。

 突き詰めれば、江戸幕府成立初期の「禁中並びに公家諸法度」において、権威と権力の分離の明文化がなされていた、ともいえるかもしれません。

 

 

 

 もう一つの近代化の過程は、議会の成立と維持。

 

 欧州の近代化では、王権の対立項となる存在として、議会が浮上。「議会」も以前からあったものの、ここでは深く振れないので、みんなで調べてね。

 議会はこれまでの日本史では存在していません。全く新しい政体を実現しなければならない。

 
 東洋でも初めての試み。

 

 案の定、当初から混乱が続き、議会と元勲が何度も対立を繰り返すも、少しずつ議会制民主主義の実績が日本でも積み上げられていきました。

 そして、何よりも「王権」の側の明治天皇が、議会の確立に協力的な姿勢を示しました。

 特に明治の末期に至るころには、元勲と議会の対立が深刻がした状況で、明治天皇が自ら積極的に両者の仲介をして、議会を正常化する、ということが見られました。

 

 議会制民主主義が当たり前になった現代の話ではありません。

 

 封建時代から数十年しか経過していない、議会制の黎明期の話です。

 

 もし、明治天皇やその近傍のグループが、権力を得ようと行動していたら、どうなっていたのか?元勲と議会の対立による機能の停止が頻繁に見られたこの時期なら、王権への「揺り戻し」は可能だったといえます。

 

 実際に、他国ではそれが起こった。

 

 また、日本よりも遅れて議会開設の動きが始まった中国では、ようやく議会のようなものが立ち上がったものの、袁世凱や段祺瑞のような軍事力を持った有力者に潰される、を繰り返し、そして毛沢東が登場し、ついに欧州のような議会制民主主義が成立することなく、共産党一党独裁体制へと至ります。

 

 日本でその手の「揺り戻し」がなかったのも、明治天皇が議会制民主主義の確立を邪魔しなかったこと、が大きな要因として挙げられます。

 

 

 長くなったんで、2は次で。