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頼朝と政子の遺産 その1

先日、「鎌倉殿の13人」が終わってしまいました。

この時代はなかなか詳細に語られることが少なかった。

 

しかし、日本史に一大転機をもたらした、画期的なことが起こったのでした。

 

 

 

今回は鎌倉幕府の成立にまつわるお話し。
鎌倉幕府と言えば、源頼朝が作った「武家政権」と教わるかと思います。

しかし、「幕府創設」は、それ以上の大きな影響を日本の後世に残しました。


しかもそれは、旧来の体制の枠組みの中において行われました。
 古代ローマ帝国は、1000年間もの長きにわたって繁栄しましたが、その間、政治体制は変化しています。

 「共和制」から始まり、ユリウス・カエサルアウグストゥスによって「元首制」が始まり、蛮族の侵入の激しくなった末期では「絶対君主制」へと移行しています。しかしそれらも革命のように起こったのではなく、「元老院」という枠組みの中で行われました。
 この「旧来の枠組みの中で新体制に移行する」というのは大変困難な政治的行動が必要とされます。

 自分はローマ史を知ったことで、源頼朝が残した功績の大きさが理解できました。

 なぜ、今にいたるまで日本の歴史に断絶が無いのか。

 そこには頼朝と、それを継続すべく奔走した北条政子の存在がありました。

 

 

 

 

2006年ころ、管理人は鎌倉に旅行に行ったことがあります。日本史のお勉強をしていたとお話ししましたが、それは旅行も兼ねていました。つまり、GWとお盆のお休みを狙って、日本史の舞台となる場所を旅行しよう!と。

鎌倉旅行も、事前に「お勉強」をしていました。

そして9月の連休を利用して「いざ!鎌倉」へ。気分も盛り上がっていました。

鶴岡八幡宮や鎌倉の大仏、北条時宗建立の建長寺室町時代の足利氏ゆかりのお寺巡りなど、鎌倉自体は狭いものの、見どころがたくさんありすぎました。

連休ということで、一級の観光地である鎌倉はどこも混んでいたのですが、一か所だけ、とてもひっそりした場所がありました。

北条政子のお墓です。日本史でも有名な人物なので立派なお墓かと思いきや、「普通」のお墓。事前に下調べをしておかないと、政子のお墓とは気が付かないと思います。でも、自分はどうしても北条政子のお墓をお参りしようと思っていました。それは、北条政子とその夫である源頼朝は、日本史に非常に大きなインパクトを残したと思ったからです。

今回は、源頼朝北条政子の物語です。

 

 自分が日本史をお勉強したうえで気づいたことがあります。

 「そういえば、日本って滅んだことがあるのだろうか?」

 学校では平安時代鎌倉時代、江戸時代、と分けて習ったため、漠然とそれが「滅ぶ」に相当するのかな、と思っていたことに気が付きました。 でも、世界史や中国史を見ると、国の名前が頻繁に変わっています。

 「中国」というと、まるで中国という国が昔から存続していたような気がしますが、冷静に見ると、秦や漢、隋、唐、宋、明、清、と、国の名前が変わっています。

 では日本は?日本列島に「日本」以外の国名って存在したのかな?と考えたとき、さっきのように「室町時代」「安土桃山時代」という名称は浮かぶものの、その時の国の名前はやはり「日本」。

 なんと、歴史好きを自認しつつも、「国の名前が変わること」について、そして「日本列島には、日本、以外の国の名前が存在していたのか?」について、深く考えたことがありませんでした。

 

 他の地域を見たとき、中国では皇帝一族、漢なら「劉氏」、宋なら「趙氏」、明なら「朱氏」、清なら「愛新覚羅・・・・・」と、皇帝の一族が、他の一族になった時に国の名前が変わっています。

 でも、日本には名字のない皇室があり、いままでに君主が他の姓を持つ人に変わったことがない、ということに気が付きました。つまり、王朝の交代が起こらず、日本という国が滅んだことはない、と。

 

 ではなぜ、日本は滅んだことがなかったのか。日本史を勉強していくうちに、ある人物にゆきつきます。

 

 源頼朝です。彼が創始した「幕府」という仕組みこそ、結果的には天皇を現代に至るまでに存続させることを可能にしたのではないか?と。

 

 

 話を頼朝の登場前、平氏の台頭の時代から始めます。

 

 平清盛が朝廷において大きな力を誇ったのはみなさんご存知の通り。

 これは、皇室内の争い、摂関家の対立などで公家同士の政争では決着がつかなくなり、武力を必要としたことによります。皇位継承に絡む紛争を足場に平氏は台頭したのでした。

 しかし、平氏の一門が朝廷の官位につき始めると、情勢が急変します。

 

 「官位」は、公家社会において各貴族の家格を示す、大変重要なものでした。各公家はどの位につき、どの官職につくかがあらかじめ決められており、ある公家の家長を親の後継ぎとして若い息子が継いだ時、最初は低い官位が与えられるものの、徐々に昇進していき、最後には親の最高位につくように、自動的に決められていました。 

 公家の家格社会での位置づけは厳密に決められており、400年の平安時代の間、それが繰り返されていたために、当時の人々はそれを常識として生きていたのです。

 

 そして、各家はそれぞれの仕事を、その家だけで伝承することで引き継いでいました。


 当時の社会は、現在のような法治国家ではないため、法には現代ほど強い力はありませんでした。

 法よりも重視され、当時の世間を規定したのは、さまざまな作法、慣習でした。お茶に表千家裏千家があり、華道にもいろんな流派がありますが、そういった各分野の作法が寄り集まって社会を規定していたのでした。
そして各作法は、その家だけに代々伝えられていきました。

 朝廷においても同じで、朝廷儀式などにおいて、その一つ一つの工程をいくつもの公家が取り仕切り、それぞれ工程の作法は各家だけに代々伝えられていました。

 

 高校時代、古典の授業でいろんな日記を習ったことと思います。そのとき、昔の日記は人に見られることを前提に書かれていた、と教わったと思います。

 当時の人は日記を記しました。そして日記にはその当時に世間事の他にも、その日行われた儀式の次第ややり方が書かれました。

 この記述がそのまま後世の子孫にとっての教科書となり、子孫の公家は儀式の際、その家のみに伝えられる先祖の「日記」を参考に、儀式を取り仕切ったのでした。
 そして、イレギュラーな事件などで日記通りにいかないとき、あるいは自家の範囲にとどまらず、他家の範囲にも関わりそうなときには、他家に伝えられる日記の内容との「すり合せ」が行われることで、基本的には故事に倣いつつ、「妥当な線」で儀式が執り行われました。

 

 各公家にとって、ある儀式、実務のある部分を行う事が存在意義となっており、朝廷とは、各公家がそれぞれの家に伝わる伝承・実務を行うための場所でした。

 病院は医師、看護師、薬剤師、理学療法士、受付など様々な職種が合わさってできており、法律でそれぞれの資格を取得していないとできない「仕事」が決まっています。

 医師や理学療法士などの資格を持った人が辞めることになった場合、同じ資格を持った新人が加入し、仕事の引継ぎが行われます。

 こうした様々な資格を持った人が集まって、病院は運営されています。

 

 しかし朝廷では、医師の仕事は「○○家」にだけ代々伝わる「作法」となり、他の看護師の仕事、薬剤師、理学療法士の仕事も、すべて各家だけに伝えられていました。

 
 結果的に、それらの各家がなければ朝廷は運営できなくなってしまう。

 

 つまり朝廷とは、各家が代々子孫に伝承してきた儀式・作法を寄せ集めた存在であり、各家は朝廷がないと存在意義が失われ、また、朝廷は各家がないと機能できない状態でした。

 そのため、自分たちが代々やってきた仕事、官位によそ者が加わるということは、作法に生きてきた公家社会において許されることではなく、慣習を破ろうとしたものは徹底的に排除されてきたのでした。

 

 貴族同士でもこの「領域」を巡って争いが起こったのに、ましてや「人ではない」と言われる程、「眼中にない存在」であった武士の朝廷官位への進出はなおさら、貴族にとっては到底許しがたい事でした。

 しかも、貴族社会の秩序は、朝廷の長である天皇にまで向けられていました。

 

 時代下って鎌倉幕府が滅んだ後、後醍醐天皇は「建武の親政」を行います。この「シンセイ」は「新しい政治」の意味ではなく、「親しい政治」、つまり天皇みずから政治を取り仕切る、という意味でした。

 後醍醐帝は、楠正成や名和長年新田義貞など、自分に忠実な武士を新政権の要職につけ、天皇自身が政治に参画することを企図しましたが、それは公家たちにとって自分たちの仕事を奪われること、すなわち存在意義を奪われることになるため、激しく反発します。しかも徹底的に見下している武士が取り立てられている。

 結局、後醍醐天皇は、中央貴族と恩賞に不満のある武士の反発を買い、これらの反対勢力に担がれた足利尊氏によって京の都を追い出されます。

 

(なお、建武の親政の際に後醍醐天皇は自ら「綸旨」を発しましたが、後で撤回される事態も起こり、綸旨の信頼が失われることになると同時に天皇権威の低下につながりました。さらには綸旨の混乱に乗じて「偽綸旨」も現れ、天皇による親政は世間を混乱させていました)

 

 ついでにお話ししますと、「明治維新」の最大の日本史に残した成果は、建物や生活の近代化ではなく、この天皇を中心とした家格社会を破壊したことではないか、と思います。歴史学的に実証されているだけでも1600年近くも存続した貴族社会を消滅させたことは、日本史上でも最大級のインパクトを与えました。そいった意味において、それを提案した岩倉具視は、日本史において第一級の功績を残した、と言えるのではないでしょうか?

なんか、またまた長くなっています。申し訳ございません。