管理人は30歳になったとき、この10年間で日本史、中国史、世界史を学ぼう、と企てました。最初の5年間は上手く行っていたんですけどね。諸事情でなかなか思うようにはいかず、今はようやく世界史を始めたところ。
これまでに日本史、古代ローマ史、中国史、エジプト、メソポタミアなどの中東の古代史、世界史の一部などを「お」勉強してまいりました。
まだ全体像は把握していませんが、ここまでの時点で日本史と世界史には大きな違いがあることに気づかされています。
今回は、世界史と日本史の違いについて、管理人がおもいついた点を挙げてみます。
1,異民族の侵攻
各国の歴史を見ると、どの地域でも強力な騎馬民族の侵攻の脅威にさらされているのがわかります。
中国は北方の騎馬民族の侵攻を常にうけており、ついには「万里の長城」まで作ってしまうほど。
純粋な漢民族の王朝は後漢、晋王朝までであり、隋、唐などは騎馬民族が打ち立てた王朝でした。
一方、ユーラシアの反対に位置するローマ帝国も、ゲルマン民族などの蛮族の侵入への備えが不可欠でした。ゲルマン人も結局はさらにその東側に位置する騎馬民族の侵攻を受けており、遡っていけば漢王朝を苦しめていた騎馬民族である匈奴の存在がありました。
そう、ユーラシアの東西で、同じ安全保障の問題に直面していたわけです。
そして古代ローマも漢王朝も、異民族の侵入に対抗するために政体が作られたとも言えます。
すなわち、どちらも異民族の侵攻に即時に軍事行動を起こさなければならなかった。そのため古代ローマではカエサルが、機能不全に陥っていた元老院による共和制を超えて元首制を導入し、中国の王朝も恒常的に攻めてくる騎馬民族に対抗するためにも「皇帝」という権力が集中する存在を必要としていた。
中国の歴代王朝は、実りの多い華南ではなく、華北に首都を置かなければならなかったのも、騎馬民族との前線に近い場所にいなければならなかった、という事情があります。ローマ帝国でも、末期にコンスタンチノープルに皇帝の居住地を移しますが、それはやはり恒常的になっていた蛮族の侵入に即応する必要があったため、という側面もあったのです。
ただ、西側のローマ帝国がライン川という自然の防衛ラインを持っていたのに対し、漢は地続きであったため、長城という大規模な土木事業を行わざるを得なかった。
ローマの「皇帝」権力が民主的な意味も残したものであったのに対し、中国ではこれらの騎馬民族に対する軍事行動や大規模土木事業を行うためにも、より専制的なものにならざるを得なかった、と考えられます。
「皇帝」という言葉だけで、どの国も同じようなもの、と考える人もいますが、各国で皇帝の持つ権力・権威は異なっているので注意が必要です。
そう考えてみると、ロシアで権威的な元首が誕生しやすい理由もわかるかもしれませんね。欧州でも騎馬民族により近い地域にあるのも、関係しているのかもしれませんね。
さて、ここまで欧州と中国だけで見てきましたが、騎馬民族の侵攻を受けていたのはこれらだけではありません。
インドもパミールを超えて北方から騎馬民族の侵攻を受けていたし、中東もコーカサスから騎馬民族の侵攻を受けていました。
それら騎馬民族の侵攻は、各国の歴史に大きな影響を残しました。
ついにはモンゴル帝国まで誕生してしまいます。
しかし!
まさに日本だけが、騎馬民族の侵攻を受けていないのです!
理由は皆さん、お分かりの通り、日本が海に囲まれた島国であったから、です。
上で述べたように、他の国々では異民族の侵攻により、「支配民族の交代」が頻繁に起こっていましたが、日本だけがそのような事態を経験していないのです。
唯一の「危機」が、元寇です。
この時の元の侵攻は、暴風雨による「カミカゼ」によって阻止された、と言われていますが、執権・北条時宗の積極的な防衛対策も功を奏していたのでした。
その意味において、北条時宗も、日本史を世界史に比べて特異な方向に導いた、重要人物と言えます。
もし、北条時宗が執権ではなく、元の日本占領を許していたらどうなっていたのか。
その時点で「日本」という国は滅び、王朝が頻繁に変わり、多くの国号を持つ他の地域と同じになっていたかもしれない。
北条時宗もまた、日本を滅亡から守った、日本史上屈指の英傑と言えます。
長くなったので続く!