前回からの続き
将軍不在による、「幕府」の存在根拠の消滅。
鎌倉は未曽有の危機に陥りました。
今、他の誰かが将軍に任じられ、鎌倉討伐を宣言すれば、鎌倉の勢力は朝敵になってしまいます。そして、もはや名分のない勢力では御家人たちへの求心力も弱まり、いつ空中分解してもおかしくない状態。
北条政子は、夫、頼朝と建設した幕府体制を守ることを決意、まずは新たな将軍を擁立することを企図します。
でも、源氏の家宰という家柄では北条氏自ら将軍に就任することはできません。北条氏はあくまでも「将軍家の家宰を仕切ること」でしか幕府を支配することができない宿命にありました。
とはいえ御家人から将軍を選ぶと幕府内(この段階では幕府ではない)での力のバランスが崩れかねず、さらに北条氏の優位性を奪われてしまうかもしれない。
政子は、北条氏が主導する形での幕府存続を行う必要がありました。
そこで政子は、皇族から将軍になるべく人物を迎えることを画策します。
皇族から将軍を迎えれば、他の御家人たちからの反発も抑えることができます。
そして、朝廷の藤原兼子(卿二位)に相談、藤原兼子も自分の養子が生んだ後鳥羽上皇の皇子である頼仁親王を、せめて将軍にすることを願っていました。こうして幕府と朝廷という二つの組織の交渉が、二人の女性によって始まりました。
この女性二人のやり取りは、幕府と朝廷の今後の関係が懸かったとても高度な政治性を帯びたものであったにも関わらず、実に温和で女性ならではの和やかな形で進んだと伝えられています。
後世では「気が強い」と言われることの多い北条政子ですが、同時代の女性に対しては穏やかに接していたようです。
二人の女性の間の信頼関係は強まったものの、残念ながら、皇族から将軍を迎えることはできませんでした。
朝廷としては、皇族を鎌倉に派遣してしまうと、新たな朝廷を設立して別の天皇を擁立される恐れがあります。朝廷は、皇族を派遣することを拒否しました。
結局、頼仁親王を迎えることはできなかったものの、準皇族として認識されている藤原氏から藤原頼経を迎えることに成功。
日本史上でも稀な「穏やかな会談」は、一定の成果を上げることができました。
これで一安心かと思ったのもつかの間、政子と義時にとって、そして鎌倉幕府にとって、最大の事件が発生します。
承久3年(1221年)5月14日、京の都にて後鳥羽上皇が、鎌倉打倒を叫んで挙兵。
時の執権、北条義時を打倒する旨の院宣が発せられ、鎌倉は正式に「朝敵」とされてしまいます。
まさに北条政子が怖れていた事態となってしまいました。世にいう「承久の乱」です。
この事態に対し、北条政子はどうするのか?
ついに、その後の日本史の行方を大きく変えた、重大な戦いが始まります。
続く