ここまでは、日本史が世界史と違う点などを語ってまいりました。
それぞれの時代で「選択」が為された結果、日本は一度も滅ぶこともなく、令和の現在に至っています。
では、日本は一度も危機を迎えたことは無いのか?
そんなことはありませんでした。
聖徳太子や天武天皇、源頼朝、北条政子、北条時宗のように、日本史を永続させる重大な決定を行った人もいれば、逆に日本を滅ぼしかねないことをやった人物もいる。
今回は、その人物のお話し。
皆さん、日本史の時代区分って覚えていますか?
縄文時代、弥生時代、奈良時代、平安時代、鎌倉時代、などなど、試験のために暗記をしたことがあると思います。
管理人も、この時代区分を基本として疑うこともなく、過ごしていました。
しかし、改めて日本史を「お」勉強したとき、ある時代だけ、どうしてもこれまでの時代区分では分類できない時代があることに気が付きました。
南北朝とは何なのでしょうか?
これは京の都(平安京)と吉野にそれぞれ朝廷が存在した時代のこと。
京の朝廷が北にあり、吉野の朝廷が南にあったことから「南北朝」とされています。
そして、この時代だけ、日本列島には二つの王朝が存在していたのです!
北の朝廷は足利尊氏を後ろ盾としており、南の朝廷は足利尊氏と争った後醍醐天皇が建てた朝廷。
南北の王朝は、自分こそ「正統である」と主張し、お互いに相手を「天皇を僭称する不届き者」として存在を認めず、天皇の「正統」を巡って激しく争います。
こうして「観応の擾乱」が勃発し、南北朝時代は日本史上、最大の争乱の時代となりました。
え?日本史における最大の争乱は、応仁の乱に始まる戦国時代じゃないか!って?
いえ、南北朝こそ、日本史上最大の混沌の時代。
戦国時代も秩序が乱れ日本各地で戦いが起こりますが、それでも「権威」である天皇はただ一人であり、朝廷も一つしかないため、国家形態としては一つを維持していました。自己を有利にするためとはいえ、戦国武将は朝廷の存在を重んじていました。(利用していた、ともいえる)
しかし、南北朝時代には朝廷が二つもあったのです。
ということは、国家が2つあった。
朝廷が一つ、国家形態が一つならば、物事の見方も一つになります。すなわち天皇・朝廷に従順なものは「正」、反抗的なものは「悪」。
しかし国家形態が2つと言うことは、一方では「正」のものがもう片方では「悪」とされる。価値基準が2つ存在することになってしまいます。
室町時代において、足利尊氏が征夷大将軍に任命されて室町幕府を開いた、と教わりますが、足利尊氏を将軍に任命したのは北朝の天皇のみ。南朝の後醍醐天皇には任命されていませんでした。
でも、ですね、なんで足利尊氏が室町幕府を創始したことが「正史」扱いされるのか?
これは後に北朝側の足利氏が生き残ったため。
もしこの時、南朝が生き残って「正統」となって南北朝時代が終わっていたら、足利尊氏は南朝に刃向かった「反逆者」として、現代の授業で教わることになっていたかもしれません。
この時代、日本列島には2つの「スタンダード」が存在していたのです。
この時代から始まった「正統」論争は、戦前まで続く日本史上最大のカオスとなってしまったのでした。
そのカオスの扉を開いた「犯人」である足利尊氏とは、どのような人物だったのでしょうか?
この時代を描いた小説で最も有名なのは巨匠・吉川英治の「私本太平記」です。
この私本太平記を手掛かりに、南北朝時代についてお話ししてみようと思います。
吉川英治は、この混沌とした時代を、足利尊氏を中心に描きます。
とはいえ、この時代はとても「書きにくい」時代でした。
それはやはり「朝廷が二つあるから」です。
朝廷が一つであれば、朝廷に敵対する勢力が「朝敵」となって、作品としては描きやすいですが、なんせ朝廷同士の争いの時代です。
どちらかを「悪」とすることは、「不敬」と受け取られかねません。
しかも吉川英治自身が皇室に対して敬意を持っていた人物で、ご皇族とも親交を持っていた、とのこと。
ここでちょっと脱線ですが、以前、吉川英治記念館のブログを拝読していて、「へ~、なるほど」と思ってしまったことがありまして。
前述のように吉川英治はご皇族とも親しく、特に三笠宮崇仁親王(2016年100歳にて薨去)とは特に深い仲だった、とのこと。
ある時、三笠宮崇仁親王より、吉川英治の家に電話があったそうです。
この時、崇仁親王はどのように名乗ったのでしょうか?
普通なら「佐藤です」「高橋です」など、苗字を名乗りますよね。
でも、ご皇族には苗字はありません。
じゃあ、どうしたのか?
崇仁親王は「三笠です」と名乗ったそうです。
ちょっとだけ、賢くなった気がしますね。
脱線してしまいましたが、御皇室を尊敬している吉川英治は、南北朝をどのように描いたのか?
吉川英治は作中に「一色馬之助」という架空の人物を作り出し、足利家や楠木正成の元に出現させて、それぞれにインタビューさせています。
彼に双方の言い分を語らせて、どちらかを「悪」とすることを避けているのがわかります。
さて、私本太平記の主人公である足利尊氏ですが、彼は間違いなく鎌倉時代から次の時代へと、歴史を動かした人物に違いありません。
ただその過程を見ると、とてもじゃないけど「新しい歴史を作った英雄」とはいいがたい。
鎌倉時代末期、朝廷では大覚寺統と持明院統という皇統の争いが表面化します。この両統の対立は陰惨を極めるものとなり、ついには貴族社会だけでは解決できないものになっていきました。
この皇統争いを仲介した鎌倉幕府も陰惨な政争に巻き込まれ、手痛い被害を被ることとなります。
承久の乱以降、朝廷を監視下に置いていた鎌倉幕府ですが、貴族社会の因襲の最たるものである皇統の問題には、容易に口出しすることはできませんでした。
朝廷を中心とした貴族社会は弱体化するものの、様々な因襲、権益、血縁関係が交錯していた江戸時代以前では、完全に失くしてしまうことはできず、戦国時代に巨大な軍事力を持っていた信長ですら、貴族社会への介入は大きな困難を伴いました。
簡単には言えないのですが、結局、武士政権も朝廷という存在を無視することができず。
朝廷と幕府は、互いに対立しつつも、互いを必要としあっていたのです。
400年にも及んだ平安時代に形成された貴族社会は非常に強固で、非常に排他的。
貴族の中での「家格」というなの序列は絶対的で、誰も変えることは非常に困難か、不可能でした。たとえ家格の頂点である天皇であったとしても・・・。
そのような非常に強固で閉鎖的な社会が完成していたため、新参者が家格社会に加わることなど到底許されることはありませんでした。
平氏はこの家格社会の中で勢力を築こうとして排除されてしまいます。
これを見た源頼朝は、征夷大将軍という朝廷官位とは別の職に就くことで、家格社会の外に新しい政権を構築しました。
話を少し戻すと、大覚寺統と持明院統の争いが続く中、大覚寺統から後醍醐天皇が登場します。
この後醍醐天皇ですが、かなり変わった人物だったようです。大胆というか、恐れ知らずというか、かなり破天荒な行動を繰り返していました。
そして即位と同時に、「正中の変」など、数々の鎌倉幕府打倒の計画を企ては阻止され、幕府から重大な監視下に置かれます。
ついには倒幕計画がばれて笠置山にて籠城しますが、幕府軍に敗れ、隠岐の島に流されてしまいます。
鎌倉幕府は、挙兵した時点で後醍醐天皇を廃位し、光厳天皇を立てます。
この光厳天皇ですが、足利尊氏、後醍醐天皇に比べて知名度が低いものの、南北朝の動乱では重要な人物。
まさにこの時点から、南北朝時代が始まったともいえます。
後醍醐天皇は廃位されたものの、もともと後醍醐帝の挙兵前から武士たちの鎌倉幕府への反発心は強く、後醍醐天皇が流罪となった後も、日本各地で武士の蜂起は収まりませんでした。
そして、ついには鎌倉幕府の有力者であった足利高氏や新田義貞が鎌倉幕府に反旗を翻すにいたり、とうとう鎌倉幕府は滅亡してしまいます。
長くなったので続く!!