意識低い系、日本代表宣言!!

意識の低い人間が、意識の低い情報を、意識を低くしてあなたにお届け!!

カオスの扉の先にある景色 その2

 

 ついに鎌倉幕府が滅亡。

 

 新しい政治の中心には後醍醐天皇がいました。

 

 まず後醍醐天皇は、鎌倉幕府が立てていた光厳天皇を廃位して出家させてしまいます。

 

 そして、京の都にひしめく貴族たちの家格社会を無視して、名和長年楠木正成などの家格社会の外の人物や家格の低い者などを要職に就けます。なお、北畠親房のような高位の家格の公家も、参加していました。

 

 

 後醍醐天皇は、これらの新参者を配置して「建武政権」を樹立。

 

 天皇自らが政治を行う「建武の新政」が始まりました。

 

 しかし親政は開始時から混乱を招いて早々と頓挫。また有力者の足利尊氏が政権を無視して勝手なふるまいをはじめます。

 

 この時の尊氏の行動ですが、後醍醐帝の方針に反発していた、とか、反対勢力に押されて、とかではなく、本当に「勝手気まま」に行動していたようなんですよ。

 足利尊氏って、本当に大胆というか、空気の読めない人物なんですよね。

 

 そして何よりも、親政から外されてしまった中央貴族の不満も高まりはじめます。

 

 ついに足利尊氏が後醍醐帝に反旗を翻して挙兵!

 

 この時、尊氏は出家していた光厳上皇を復位させ、尊氏を正当化する院宣を出させます。この挙兵に対し、中央貴族の支持も集まっていました。

 

 ついに南北朝の戦争が始まったのでした。

 

 

 ただ、何事もすんなりいかないのが足利尊氏

 後醍醐帝に挙兵したと思えば、許しを請う子供のように後醍醐帝にすがったりもする。

 後醍醐天皇が亡くなった後、帝の亡霊を恐れ天龍寺を建立してしまいます。

 

 また、北朝のもとで室町幕府を樹立すると、今度は弟の足利直義との対立が勃発。

 毀誉褒貶の激しい兄・尊氏にたいし、弟の直義は生真面目だったのですが、尊氏の信頼熱い、足利家の「執事」ともいえる高師直と方針を巡って激しく争うこととなり、ついには武力衝突も起こってしまいます。この間、尊氏は両者の対立を放置してしまうのです。

 そして、ついには尊氏は南朝に帰順する意思を示してしまう!

 

 なんだ、この人!

 

 そう、足利尊氏の行動は「ムチャクチャ」なんです。

 日本史では室町幕府を打ち立てた重要人物とされますが、彼が明確な国家ビジョンを持ち、それに沿って行動していたとは到底思えません。

 成り行き任せとしか思えない。

 早い段階で引退して、弟の足利直義などに任せていたら、趣味人として穏やかに過ごせたかもしれない。

 しかし彼は源氏長者という宿命にあり、また戦に強く大きな軍事力を持っていたため、キャスティングボードを握る存在となってしまった。

 

 次の歴史を作る権利が、なぜか彼にゆだねられてしまったのです。

 

 この彼の優柔不断?毀誉褒貶?な性格は室町幕府の在り方にも表れ、将軍が大きな権力を得るのではなく、有力勢力の連合政権という性格が強くなります。

 

 鎌倉幕府が北条氏を中心とした権力の実行機関であったのに対し、室町幕府は必ずしも足利氏が強力な権力を持っていたとは言えない、脆弱な政権基盤の政府だったのです。

 「幕府」という言葉だけで、全く同じ仕組みであったわけではないのです。

 

 そして、足利尊氏の一貫性のなさも要因となり、争乱が全国に飛び火してしまいます!

 

 北朝南朝大義とする勢力が、日本各地で争いを繰り返し、なんと尊氏の息子まで、尊氏に反旗を翻す事態に発展します。

 それは珍しいことではなく、各地で主人と家臣、父と子、など地縁、血縁の別をなくして無秩序に争乱が起こっていました。

 

 ここまで長々と書いてきましたが、はっきりいってかなり省略しています。

 

 そして、ついには尊氏は肉親であり、最初の挙兵時から誰よりも尊氏を支えてきた弟の足利直義の命を、自らの手で奪うに至ります。

 

 なんという業の深さか。

 

 

 鎌倉幕府を倒し、建武の親政を瓦解させ、新田義貞を倒し、楠木正成を滅ぼし、南朝に背き、北朝にまで背き、室町幕府にも敵対する。

 ひたすら「権威」を破壊し続けた人生。

 

 多くの権威を葬り去った果てで彼が見た景色は、世に天皇が二人存在し、全国に戦乱が満ち溢れ、肉親同士が殺し合い、盗賊が跋扈する、秩序を失った世界。

 

 そして、ついには自分の弟まで殺そうとしている。

 

 まさに阿鼻叫喚の「カオス」の世界。

 

 「日本史」を書いている神がいるとしたら、「話を面白くしよう」と考えて登場させた人物のよう。

 

 この時、日本列島には、確かに2つの国が存在していたのです。

 

 

 結局、南北朝の合一は、日本史上屈指の天才政治家(ということは日本史上屈指の詐欺師)である足利義満によって、南朝との約束をことごとく反故にする形で実現しました。

 

 しかしそのような方法が反発を生まないわけがなく、この後、「後南朝」というテロリズムが繰り返し起こることになり、なんと明治時代の「大逆事件」にまで、影響が残ってしまいます。

 

 王朝の分裂が、後の日本史に深刻な傷を残したことがわかります。

 

 これが日本史に起こった巨大な「カオス」の姿。しかし一部でしかありません。

 

 

 この冬、吉川英治の「私本太平記」を読んで、足利尊氏が開いた「カオス」の扉の先に広がる世界を見てみませんか?