年末年始特有の忙しさのため、更新予定が狂っております。
まあこの時期の予定なんてものは、予定通りに行かないのは予想通りでしたが。
そう考えると、予定通りに「予定通りにいっていない」、ということになりますね。
で、歴史記事などを掲載していこうと思ったのですが、室町、戦国は省略させていただいて、一気に安土桃山・江戸初期に飛ぼうと思います。
さて、今回の記事の主役は豊臣秀吉。
ただ、話の開始を清須会議くらいからとさせていただくので、その時点では羽柴秀吉。
皆さんご存じの通り、秀吉は「清須会議」で信長の後継者の地位を、強引に宣言します。
その後、柴田勝家を打ち破って旧信長勢力を我が物とし、最大の実力者となっていた徳川家康も屈服させて、ついに100年以上も続いた戦国時代を終焉させて天下を手中に収めます。
しかし、ここで大きな問題に直面してしまいます。
どうやって全国を統治するのか?
もともと室町幕府は、有力勢力の連合政権であったため不安定で、そのために応仁の乱のような事態も起こってしまいます。
ここで今一度、考えないといけないのは、我々が21世紀の人間であるということ。
授業で「江戸時代」を教わる現代人にとって、強大な江戸幕府のイメージがあるために、どの時代の「幕府」も同じように強力な機関だったと思いがちですが、それぞれの時代によって異なります。
室町幕府は決して存在感の大きな組織というわけではありませんでした。
地方に強力な支配力をもっていなかったため、戦国時代に突入すると「中央」の威光は無視して地方の勢力は勝手なふるまいを始めます。
もともと「幕府」の権威が低かった上に、戦国時代に至っては軽蔑の対象にすらなってしまいます。
そう、戦国時代末期においては「幕府」の権威は失墜していたのです。
誰も幕府を重んじず、いうことを聞かない。
「征夷大将軍」の肩書が持つ威厳は消失しており、誰も将軍のいうことを聞かないばかりか軽んじてさえいました。
つまり秀吉が信長の後継となり天下の情勢を決めた時点では、弱体だった足利氏のイメージが染みついた「征夷大将軍」に就任するメリットはなく、むしろマイナスでしかありませんでした。
実際、戦国時代の末期になると、各地の勢力は自らの権威付けに権威の失墜した幕府の職を用いるのではなく、幕府ひいては将軍を飛び越えて、朝廷に直接、官職や官位を求めるようになっていきます。
自分たち武士の「ボス」であるはずの将軍を公然と無視して、その上の朝廷・天皇に官位を要求していたのだから、もはや幕府の存在など眼中にない状態になっていたのです。
幕府の権威が失墜する代わりに、朝廷の存在感が上昇していたのです。
そして秀吉が天下を握ったこのころ、朝廷でも騒動が起こります。
「関白相論」と呼ばれる政争です。
羽柴秀吉の全国支配が現実的なものとなり、朝廷は彼にふさわしい官職を与える必要が出てきました。天皇の御所である仙洞御所の修理を秀吉の協力によって完成させたこともあり、正親町天皇は秀吉に報いる必要もあったのです。
秀吉はすでに内大臣となっていました。この官位もかなり高位のほうでしたが、「官位の頂点」ではありません。朝廷は秀吉に対し、内大臣の上の右大臣への就任を勧めたのですが、秀吉に拒否されてしまいます。
秀吉は右大臣よりも上格である「左大臣」を要求しました。
なぜ、秀吉が左大臣を望んだか、ですが、もともと、右大臣は本能寺の変の前に信長に勧められていたのですが、信長が返答する前に殺されていまったため、「空位」となっていました。(本当は「3職推任問題」が起こっていた)
秀吉は天下を取ったものの、「信長の家臣」という印象が強く、これを払拭するためには主君・信長よりも高位の官職である左大臣になることを求めていたのでした。
しかしそこは、ガッチガチの慣習・伝統で固められた家格社会。
このブログでも家格社会の強固さ、閉鎖性を繰り返してきました。鎌倉時代、室町時代、戦国時代を経たこの時点では、さすがにかつての強固さは、若干ですが薄れています。しかし、右大臣以上の、家格社会でも上位の官位は、まだまだ強固なまま。この最上級クラスの官位につける家柄も決まっており、秀吉を左大臣にすると、玉突き状に、公家が押し出されてしまうことになってしまう。
これは家格社会に生きてきた公家・貴族にとって許されることではありませんでした。
ここまでの歴史では、平氏が家格社会に浸透したものの排除されましたし、建武の親政の際は、後醍醐天皇ですら公家たちの反発を受けて朝廷の分裂の要因となってしまいました。
それほど、公家たちは政治力を駆使してでも「異端者」を徹底的に駆逐してきたのです。
しかし、今回はさすがに分が悪い。相手はなんせそれまでの時代ではなかったほどの圧倒的な軍事力と経済力を持った天下人、羽柴秀吉です。
かつて陰湿なまでに抵抗してきた貴族たちも、今回ばかりは彼の「無茶な要求」にこたえなければならない。
でも、家格社会のルールで簡単に彼の要求する官位を与えることができない。
この問題は、現職の関白を辞任させるか否か、にまで至ってしまいます。(かなり詳細をはしょってるよ)
このトラブルに目を付けたのが、秀吉です。
彼は官位の問題で動揺する朝廷に介入して、なんと彼自身が関白に就任することに成功してしまうのです!
家格社会の最頂上である関白になることができるのは、五摂家と言われる5つの家門に限られており、どれも非常に長い歴史をもった家柄のみ。
天皇を中心とする家格社会において、五摂家は天皇のすぐ次の家格にあると言えます。もはや準皇族といってもよいほど、皇室と五摂家は密接な関係にあります。
この限られた家柄しか就任できない関白に就任するために、秀吉は「豊臣」という家を新たに創出させることまでさせたのです!
ここまで繰り返し書いてきたから、皆さんにもわかるでしょう。
公家たちが家格社会の伝統を、かたくなに守り通してきたことを。
この時点で1000年以上の歴史を保ってきた家格社会を守り通してきた公家たちにとって、自分たちの最高官位である関白に、全くのよそ者が就任すること自体が天地がひっくり返ることな上に、最上位の家格に全く新しい家柄が「同格」として登場することも、もはや言葉では表すことができないほどの事態!
その「官位」も「家柄」も最高位に就くのが、なんと苗字すらなかった農民なのです!!
ここまで読んできた方なら、秀吉の偉業がわかるはず!
彼は単に「全国を統一した」からすごいのではないのです!
貴族以外のもの、それも農民が、平氏も後醍醐天皇も許されなかった「家格社会の頂点」に立つ、という、日本史上初のことを成し遂げたのです!
秀吉の上には、天皇しかいないのです。
では秀吉は、虚栄心から家格社会の頂点を望んだのでしょうか?
彼が征夷大将軍になるのに必要な「源氏長者」ではなかった、のも理由の一つではありますが、そんなものはいくらでも操作できる話。(実際、家康がそれをやった)
前述のとおり、秀吉が天下を握った時点で幕府の権威は失墜しており、地方の大名はこぞって朝廷の権威を利用しようとしていました。
秀吉がこれら全国の武装勢力を支配するには、もはや名前だけの存在となっていた征夷大将軍ではなく、諸方が重視していた朝廷官位の最高位である関白を利用することほうが現実的だったのです。
関白就任によって、全国の大名は彼に帰順することへの抵抗感も少なくなります。
それに征夷大将軍と戦うのと違い、関白に兵を挙げるのは、朝廷ひいては天皇に弓を引く「朝敵」となってしまう。
朝敵となることだけは避けなければなりませんでした。「
しかし、この無理やりな関白就任劇は、公家たちにとっては最大限の屈辱と受け取られ、後に豊臣家に災いをもたらすことになります。
話が長くなったので、続く!!!!