意識低い系、日本代表宣言!!

意識の低い人間が、意識の低い情報を、意識を低くしてあなたにお届け!!

ファンも悪い、いやファンが悪い

 今回の中田の移籍について、日本ハム、巨人ともに様々な意見が出ています。

 

 中畑氏をはじめ、巨人OBの方々は「まずは日本ハムの選手として謝罪すべきだ」と指摘。日本ハムフロント、栗山監督の対応の甘さ、そして「巨人へ押し付けた形」への不満が様々な方面から表明されています。

 球界の重鎮、広岡氏も、移籍の経緯について不信感をあらわにしています。

 

 この指摘は正当なもの。

 

 正直、まずは北海道で、一言でいいから、それこそ出発前の新千歳空港ででもいいから、何かを言ってほしかった。形は違うけれど、ダルビッシュも大谷も、全国記者会見とは別に、道民向けの記者会見を開いていましたし。

 

 

 ただ、これは世代によって異なるのかもしれないのだけど、北海道民もしくは北海道の日本ハムファン(当然、他チームファンの道民もおられる)にも責任はあるのかもしれない、と思っておりまして。

 

 よく各評論家、関係者に指摘されることだけど、「北海道のファンは批判をしない」と。

 

 よく言えば「優しい」だけど、客観的にみれば「甘い」ともされかねない。

 

 北海道はプロチームの本拠地としての歴史が浅いため、阪神や巨人のように「上手に批判する」というのはできていないのかもしれない。

 

 でも、やっぱり地元のチームの選手を批判する気にもなれず。

 

 これは完全に管理人の考えになってしまうのだけど、中田には感謝の方を大きく持っています。

 

 
 日本ハムが北海道にやってきて、もうすぐ20年を迎えようとしていますが、それまで北海道はプロスポーツ不毛の地でした。

 まだ札幌なら様々なチームの遠征試合を見ることができたのかもしれないけど、自分は北海道でも地方中の地方に住んでいたので、幼少期にはプロの試合を見る機会などありませんでした。

 

 プロの試合なんて、テレビの向こう側の世界の話でしたし。

 

 幼少期の西武ファンであったころ、パリーグはマイナーな扱いでしたがそ、その中でも日本ハムはロッテと並んでさらに地味な存在でした。

 

 そんな地味なチームでも、北海道にやってくる!となると、とても嬉しかった!

 

 そして札幌での主催ゲームが始まって、テレビに出ていた選手たちが北海道でプレーをして、スポーツニュースでも放送される。

 

 なんか不思議な感じがして。

 

 高校野球で北海道のチームが出場して、全国中継で地名が呼ばれるだけでも地元民としては「全国に流れているぞ!」と、なんとも言えない高揚感があったのですが、今やそれが毎日のように扱われる。

 

 そして何よりも、プロという存在が間近にあり、プロのプレーを直接見ることができる!

 

 自分は今に至る前までに、道内の様々な地点を転々としましたが、どこにも日本ハムファンはいて、みんなツアーを組んだり、友達と車に乗って、観戦に行こうとする。

 

 北海道って、広いですよ!それでもはるばる日高山脈大雪山を超えてまでして、「近く」のプロのプレーを見に行くのです。

 道内旅行のメインディッシュが日本ハム戦の観戦だったのです。

 

 管理人だけではなく、それだけみんな、プロスポーツを渇望していたんだ、と痛感しました。

 

 で、移転後、稲葉、ダルビッシュの活躍した2000年代で「強豪」とされ、そして中田がメインとなった2010年代を迎えます。

 

 とても幸せな10年でした。

 

 クライマックスシリーズ日本シリーズも、なんと札幌で行われた。全国の注目が集まった。

 パリーグ優勝もしたし、日本一にもなりパレードも行われた。

 

 不毛時代の方が長かった自分にとって、これは考えられないことでした。

 

 
 10年の間に、ダルビッシュも稲葉も大谷も、日本ハムにはいたんですもんね。

 

 でもトップ人気はやはり中田でした。

 

 12球団でもすっかり有名な存在になった中田のおかげで、10年代の北海道の野球は盛り上がりました。

 また、プロチームがあるからか、高校野球でも北海道のチームに変化がありました。

 

 自分の10代の頃なんて、高校野球において北海道は全国有数の弱小地区でした。数年に一度、「まぐれ」という感じで一回戦を突破することがあっただけでも、地元では「奇跡だ!」となりました。道内の新聞もテレビ局もトップニュースで勝利を報道したものです。まあ、大体は敗れることが多かったのですが。で、たまに勝ってしまうと、「相手チームは地元に帰ってから、北海道なんかに負けた、と地元中から叱られてしまうのではないか」と、返って相手チームを気の毒に思ってしまうほど。

 そんな状況だから、関東勢に勝つことはかなり困難、近畿勢、九州勢、四国勢などの西日本勢に勝つことは不可能、と思われていました。

 

 それがどうだろう。日本ハムの北海道移転が決まってからの道内の高校野球の情勢は。

 

 駒大苫小牧の連覇・準優勝をはじめ、移転後に春・夏を通じて準優勝があり、夢のまた夢、という感じだったベスト16,ベスト8、ベスト4も珍しくはなくなった。

 そういえば信じられますか?駒大苫小牧は、あの涌井のいる横浜高校、そして中田翔のいた大阪桐蔭という、名門中の名門校にも勝利していたのを!

 

 今では北海道は弱小地区を脱して、強豪地区の仲間入りをしようとしている。日本ハムが北海道の野球を強くしてくれました。

 

 オリンピックの時に選手たちが「多くの人に見てもらってしってもらいたい」と語っていましたが、道民がその効果を一番、実感しているのではないか、と思います。

 

 そしてそして、信じられますか?来年の夏、北海道に本格的な野球場ができるんですよ!!

 

 これも全てプロ野球チームが北海道に来たおかげ。

 

 しかも移転しただけで人気がなければ球場建設までには至らない。しっかり強くて、人気のある選手がいたおかげ。 

 自分は中田のおかげと思っています。中田が北海道に世界一の球場を作ってくれた、と。

 

 だからと言って、やったことが消えたことにはならない。

 特に巨人という、野球界の歴史の中心にいたチームに加わる以上、OBの方々の意見も聞かなければならない。

  

 巨人ファンや巨人の関係者、セリーグの方には許しを得ないといけないかもしれないけれど、管理人個人は、もう、これでいいと思ってしまいます。

 

 

 でも、北海道のファンも変わらないといけないですね。

 

 素晴らしい球場ができる以上、これからは「どうすれば常に強いチームでいられるか」「そのためにファンはどうすればいいのか」を考えなければならないようです。

 

 巨人ファンの方々、関係者の方々、悪いのはファンです。申し訳ありませんでした。(勝手に代弁してますが、もちろん個人の考え)

 

 

 

 

中田よ、ホームラン王を目指せ!!!!

 昨日、中田翔の巨人への移籍が発表されました。

 

 個人的には、秋山幸二のトレード、糸井のトレードにならぶ、「激震」のニュース。

 

 前述の2つのトレードの際は球団・フロントに怒りが湧きましたが、今回は真逆。

 

 「これでよかった」と。

 

 栗山監督が主体となったそうですが、よく動いてくれた、と。

 

 中田への思いが伝わります。だってなんとも思っていなければ、2軍で塩漬けにしてそのままオフに誰かとトレードするでしょう。「中田を出すんだから少しは見返りを」というのは、フツーの感情と思う。

 

 しかし、それをしなかった。無償トレードというのは、そういうこと。

 

 ファンは新聞などの報道情報を通して推測するしかなく、勝手に栗山監督の人物像を作り上げている可能性が高いのだけど、この中田の放出には愛情を感じます。

 

 また、最初に中田を引き上げた梨田氏、中田と親交の深い稲葉氏も中田のために動いた、とのこと。稲葉氏は次期監督の名前もあるだけに、中田の放出は簡単には決めることができないはず。

 

 それだけ中田が起こしてしまったことのチームへの余韻が大きいのと、一方では中田を何とかしたい、という思いが伝わります。

 

 巨人が受け入れてくれて、本当によかった!

 

 

 ・・・・・長年、見続けてきた日本ハムファンの方も、実はこれがよかったと思っているのでは?

 

 阪神移籍が実現できなかったときくらいから、彼は明らかにやる気を失っているようにも見えまして。

 今の日本ハムは、かつてのダルビッシュや稲葉と言った存在感のある選手がおらず、よくも悪くも中田が「顔」にならざるをえなく。

 その中田の雰囲気がチームの雰囲気を現していました。

 そしてチームからは何とも言えない倦怠感を感じていました。ここ数年、最下位付近を行ったり来たり。

 中田が若かった2013年だって、最下位だったのですが、あの時は中田をはじめ、若い選手がグングン伸びてくる雰囲気を感じました。もう上昇する予感しかなかった。だから希望を感じてもいたのだけど、今のチームは八方ふさがりの閉塞感を醸しだしていました。

 中田の責任にしたいわけではありません。

 中田が嫌いだから、ではなく、札幌ドームという無駄に広くてフェンスが高く、地面もガッチガチの球場は、明らかに中田のようなパワーヒッターには不利。

 だって、大谷でさえ20本台ですよ。

 彼自身の持ち味を生かせないどころか、フライに終わることでむしろ長所を殺してしまう面もあった。

 そんな中で、彼が札幌ドームでモチベーションを維持するのは難しかったのではないか、と。

 

 ホームラン王とはいわず、彼の打力に見合った本塁打数を記録できていたら、まだ違ったのではないかと思うのです。

 

 札幌ドームでは、この先、どうあっても彼に求められている成績を残すこと、それを更新することは難しかったと思います。

 

 そういうやりきれない思いも、今回の事件に至ってしまった原因の一つにあるように思えて。

 

 でも、これからは違います。本拠地は東京ドーム。飛距離という面では、今までよりもホームランを狙える。

 東京ドームをバカにするわけでもセリーグを甘く見るのでもありません。

 札幌ドームが明らかに広すぎた。

 

 中田よ、ホームラン王を目指せ!!札幌ドームで30本も打ったんだ!狙える実力がある! 

 

 

 そして、話は今後の日本ハムへ。

 

 すべてを中田のせいにするわけにはいかないが、せっかくにプロになったのだから、悔いなくキャリアを終えてほしい、と。

 今回、日本ハム放任主義が批判されていますし、それは正当なものと思います。

 一方で、その放任主義を生かしたのがダルビッシュであり、大谷です。

 
 一番、考えを変えなければならないのは、編成でしょうか。

 やはり「ベテラン」という存在は必要だ、と痛感。

 そして、そろそろ「大物」の外の血を、FAなどで獲得したほうがいいと。

 毎年、FA競争に参戦しろ、というのではありません。たまには必要なのでは?

 ちょっと内向きになりすぎていたのかもしれない。

 

 とにかく、この放出が「正しかった」と世間に認めさせる方法は、中田翔が巨人に馴染んで活躍し、そして日本ハムが勝つことのみ。

 

 どちらも頑張ってくれ!

 

 

 

 巨人、そして何よりも原監督、獲得してくれてありがとう!!!!

 

 中田よ、ホームラン王を目指せ!!(鍵谷よ、たまにアップルパイを作ってあげて)

 

 

 

 

 

 

 

 

「怪しいお兄さん」はいますか?

 管理人はオトナ男子なため、男の子のことしか書けない。

 

 そして、昔は「男子」の成長期には、「怪しげな存在」がいた。

 

 「怪しげな存在」と書くと、今のご時世では犯罪のようなものを伺わせてしまうのだが、そういうのとは少し違う。

 

 管理人は地方都市の出身だが、近所に国立の工学部の単科大学があった。

 

 幼少のころは、そこの大学生に家庭教師をお願いしたので接点が多かった。

 良いことじゃないのかもしれないけど、研究室にもお邪魔したことがあった。

 

 地方都市、工学部のみの大学。

 

 今でこそ「リケジョ」という言葉があって、理系を志す女性も珍しくないのだが、今から30年以上も前は、「理系は男子、文系は女子」という感じの色分けが強かった。

 

 それでも大都市の工学部なら、他の学部があったり、同じ大学ではなくても他の大学との交流もあるのだろうが、「地方」であり、「工学部のみ」の単科大学

 

 そう、正に「男ばっかりの世界」であったのだ!

 

 こう書くと、腐女子という人々は「イケメンばっかり」の妄想をするかもしれないが、工学部のために「オタク気質」な男が多い上に、地方都市で他の大学もなく、基本的に男しかいないため、必然的にファッションセンスは絶望的なほど感じられず、しかも「国立」のために多くは「貧乏学生」であったので、「お金をファッションに使う」という思考もない!見た目なんて気にしなくても4年間を過ごせてしまうのだ!(あくまで30年以上前の話です。)

 

 そう、「イケメンたちの淫靡な世界」とは対極の「オタクたちの独立国」というほうがふさわしい!

 

 当時はまだ「オタク」という言葉がなかったので、「極度のマニアのたまり場」の方があっているかもしれない。

 

 彼らの話の内容はどれもマニアックなものばかり。自分は幼少のころから「極めてニッチな世界を追求する」ということに、必然的に慣らされることになってしまった!ロボットを作っちゃってた学生もいたらしい。

 
 当時はまだパソコンは普及しておらず、それこそ研究機関にしかなかったため、学生たちのおもちゃとなっていた(らしい)。また「ガンダムを作ることはできない」ということを、「なんちゃら工学」だか「ホンニャラ物理学」に基づいて語られたこともあった。当然ながら、小学生がそんなものを理解できるわけがない。

 

 「メカ生体ゾイド」って玩具、知ってますか?

 

 今もアニメが放送されていて子供に一定の人気があるようだけど、自分の小学生のころに「ゾイド」が組み立て玩具として発売された。

 

 今のゾイドはプラモデルに近いようだけど、当時のゾイドは接着剤を使わず、モーター部分からパーツを組み合わせていくことで恐竜型のロボットができ、しかもスイッチを入れれば勝手に歩行し、しっぽや首、手が動くといった動作まで再現されていた!

 

 このゾイドを見たときの、当時の家庭教師だった工学部学生の興奮はすさまじかった!

 なんでも、これは「ホンダラ工学」だかに基づいた、実はすっごい画期的なおもちゃだ、と。

 

 つまり簡単な1種類の動作しかできないモーターにパーツを組み合わせることで、複数の動きに変換し、自立歩行までさせる、というのが、実はメチャクチャ学問的なのだそうだ。子供にとっちゃ、「見た目が格好いい」というだけだが、当時の工学部大学生は、その技術的な価値を理解して日本の玩具技術の高さを称賛していた。

 

 ・・・・・・そう、「どーでもいい」っちゃどーでもいい、実にマニアックなことに詳しいさまが、伝わると思う。

 

 そんなもんだから、アニメも早い内から人気があったし、攻殻機動隊の原作者の漫画も、早い時期から「目がつけられて」いた。

 

 また、工学部だからか、男ばっかりだからかよくわからないが、車やバイクに詳しい学生も多かった。自分で分解していた人もいた。

 

 小学生にとって、「バイクに乗っている年上に兄ちゃん」は、憧れの対象である。

 

 バイクに触らせてもらったりもした。

 

 またよくわからないのに洋楽を聞かせてもらって、なんか大人の感じ、を体験したり、ギターやドラムなんかも初めて間近で見せてもらった。

 

 サバイバルの方法やら、貧乏旅行の話、バイトでの面白い話などを聞かせてもらった。

 

 

 思うに、男子の成長には両親や学校、塾、友達だけではなく、(健全な意味での)「怪しいお兄さん」の存在が不可欠なのではないだろうか?

 

 親や毎日会っている家族からは知ることができないことを知っている存在が。

 

 皆さんの周りにも、「怪しげ」だったり、奔放な伯父さん、叔母さんがいませんでしたか?

 たまにしか会えないけど、なんだか面白いことを教えてくれる。

 

 
 かつての子供は、そういう「怪しげな存在」に、自分自身はなれているか?

 

 

 なお、ここで語った「大学生象」は、小学生だった当時の視点で見たものなので、実態と乖離している可能性はあります。その点は「子供の思い出」ということでご容赦ください。

 

 

 そして、現在の地元の単科大学ですが、10年以上前に近くに看護大学ができて「女子率」が高まった結果、爽やかになってしまい、「マニアたちの王国」は消滅してしまった、とさ。うーん、なんか惜しいような気が。あの極度のマニアックさ、ニッチの魔窟っぷりは、新しい何かを生み出しそうな気もしたので。

「オトナ女子」の謎

 先日、北海道内の夕方番組のコーナーにて、「オトナ女子に人気」というフレーズを見かけた。

 

 自分は虚を突かれてしまった。

 

 「オトナ女子」とは何なのか?

 

 そのような日本語が、これまでにあったのか?

 

 オトナ女子の「オトナ」の部分を漢字にしてみると

 

 「大人女子」、つまり大人の女子、それって成人女性、もしくは女性なのでは?

 

 これを男で言い換えてみると「オトナ男子」。

 

 それって、男、もしくは男性、そしてオッサンのことじゃん!

 

 男子もしくは女子、というのは、自分の若いころまでは「子供」に対して使う言葉だったのだが、最近はよくわからなくなった。

 

 「女子会プラン *20歳以上の女性限定」という広告も目にしてきた。

 

 そう、「女子会」という名称が出てきてから、「女子」の適用範囲が広がったように思える。

 

 「女子会」が昔はなかったわけではない。女性だけの飲み会、なんてのは別に珍しくなかった。

 

 別に「女子」という言葉を使うことに反対しているわけではなく。知り合いのお孫さんがいる女性も、お友達と「女子会」を行っているというし。

 

 「オトナ女子」という言葉の曖昧さ。

 

 女子の心を持った、女性ということだろうか。

 

 

 なら「オトナ男子」という言葉はいりません。男なんて中身はあんまり変わんないので。

 

 

 

 

 

 

 

 

これからも中田翔のファンであることは変わらない

 先日、不祥事を起こしてしまった日本ハム中田翔選手。

 

 今朝の報道によると、栗山監督も中田について、放出もやむを得ない、という見解を口にした。というか、口にしてしまった。

 

 監督が言うのだから、もはや決定していることなのかもしれない。

 

 管理人は、中田翔の登場のころから見てきました。

 

 日本ハムでは久しぶりとなる、日本人主砲の登場。しかも十分に若い。

 

 18本塁打ながらも90打点を挙げたかと思うと、2年後には3割で、30本塁打も目前にまで成長。ケガさえなければ30本は打っていただろう。

 

 梨田監督時代に頭角を現し、栗山監督にて主力へ。

 

 栗山監督の打順は、中田と言う4番がでいたからこそ、その前後のバッターも必然的に決めることもできた、とも考えられるわけで。

 

 少なくとも日本ハムでは欠かすことのできない存在でした。成績については色々と意見はあるだろうけど。

 

 でも、今回の件は、ファンとしてもなんとも言えず。

 

 今回の事件も、ともすれば「体育会系では常識」なのかもしれないし。OB選手が若いころに、上の選手から暴力を日常的に受けていたことを面白く話す動画を見ていたので、野球界ではそういうものなのかもしれない、とも。

 

 ただ、今回のオリンピックと言い、体育会系も変化の時を迎えているようですね。

 

 張本氏の女子ボクシングについての発言が問題になっていますが、ほんの数年前なら「お年寄りのいうこと」とされていたかもしれません。しかも張本氏と言えばスポーツ界でも大物に位置している人物。御方の現役時代の常識なら、大先輩ともいえる人物が「若く」しかも「女性」に謝罪することなど、できるわけがない、のかもしれませんが、時代が変わってしまった。

 

 また、練習法でも選手が「パワハラ」を訴えるなど、「体育会系」という独特の世界においても、上の人へ意見をすることが多くなってきたようです。

 

 体育会系的な上下関係って、確かに社会で必要だとおもいます(管理人のことは棚上げにして語ってます)。

 

 でも、恐怖心を植え付けるまでのあり方は、見直しせざるを得ない流れ。

 

 まあ、体育会系的人間関係が、社会でそのまま適用できるか、となるとそれもまた別なんだけど。

 

 「被害者」の選手も、7年目(?)と言うことで、確かに今年はプロ人生のかかった勝負のシーズンとも言えます。

 せっかくプロになったのだから、専念したい、という気持ちも十分わかります。

 

 野球界の慣習とか抜きにして、一般的な職場で言えば、今回の件で中田と他の選手に大きな溝ができたのは事実。それが当たり前の世界、かどうかは別として。

 

 

 中田選手にも同情するところがあり。「若手路線」と言えば聞こえはいいけど、急激に行いすぎた感は否めず。中田は32才で最年長となってしまった。噂にある通り、来年、稲葉氏が日本ハムの監督になると違ったのかもしれないですが、それまでチームに残ることは難しいかもしれない。

 

 自分は日本ハムファンであり、中田ファンでもあるので、思い切っていってしまうと、中田は札幌というか、札幌ドームを出て別の球場でプレーしたほうがいいのかもしれない。

 

 確かに、札幌ドーム以外ならホームラン王になっていたのではないか、という年もあったし。

 

 現代では32才はベテランではあるものの、まだ伸びしろを残しているし。つーか、かつての和田選手のように、30代からホームランバッターに変貌した例もあります。

 

 ここで、このまま燻っていくよりも、思い切って他でプレーしたほうが、彼にとってもチームの若手にとってもいいことなのかもしれない。

 

 

 他のチームの関係者の方々、お願いですから中田を活躍させてあげてください。パリーグでも構わない。彼がこのまま腐ってしまうのは見ていられない。

 

 まだ、主力として十分、活躍できるはず。

 

旭川に帰還した幽霊部隊

 今回の記事は、以前から今年のお盆に掲載しようと考えていたものです。

 以前に本業のブログで掲載したのですが、自主判断で取りやめました。

 

 内容が終戦に関するものでしたので。

 

 戦争を賛美するつもりはなく、当然ですが絶対に反対です。

 記事の内容は、自分が幼少の頃、お盆に帰省した際に祖父から聞かされていた話でした。

 

 ただ、戦争に対しては他人によって様々な考えがあり、読む人の感覚で色分けされてしまう恐れもありました。

 自分の職業柄、例え管理人個人の考えだとしても、その職業全体の考えと思われてしまう可能性がありました。当然、自分と違う考えの同職の方もおられます。

 なので個人的なブログを作ったら掲載しよう、と考えていました。

 

 
 読んでいただく前にご注意いただきたいのですが、今回の内容は政治的意図はありません。戦争に関する地方に残る「お話し」の一つとして受け取っていただけたら幸いです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いよいよお盆。

この時期、親戚一同が地方の実家・生家に帰郷してお墓参りなどして過ごすことも多いかと思います。

管理人も幼少のころ、この時期を田舎の祖父母宅にてよく過ごしていました。

田舎の夜はなかなか寝苦しいですよね。蚊もブンブン音を立てて飛んでいるし。
そんな中で祖父は「お盆だから」と、心霊話をしていました。といっても同じ話が多いんですけど。

その「何度も聞かされた」怖い話の中に、「幽霊の行進」のお話がありました。

それは「戦中のある街の基地近くで、深夜、靴音が聞こえた。基地にいた兵士が見てみると、軍服を着た一隊が、整然と行軍しながら帰還しようとしている。しかしその部隊は、忽然と消えてしまった。翌日、その部隊は南方の戦地にて、全滅していたという知らせが入った」というお話。

 小学校低学年の時にこの話を聞き、怖かった記憶があります。

 

 その後、ファミコンに没頭するようになって、すっかり忘れてしまい、何年も過ぎました。

 

しかし、社会人になってから思わぬところで唐突にこの話を思い出しました。

 

 旭川にて勤務していた時、ご高齢の方から類似のお話を伺いました。不意にそのお話を聞いた時、小さい頃の祖父の怪談話を思い出しました。

 その話は一人ではなく、複数の方に伺いました。どうやらそのお話に出てくる基地というのは、旭川にあった日本陸軍第7師団の基地だとのこと。

 おいおい、本当の話だったのかよ、と調べてみました。以下、ネットなどの情報をもとにしています。問題あればご連絡ください。

 

 

 日本の敗勢が色濃くなってきた昭和17年(1942年)8月7日、日本軍はガダルカナル島を巡って、アメリカ軍との戦闘に突入しました。

 戦況はアメリカ軍の優位に展開、日本陸軍は形勢挽回を期して戦力を増強、旭川に駐屯していた陸軍第7師団 歩兵第28連隊も、その一部からなる支隊が編成されることとなり、陸軍の一木清直大佐が指揮を執ることとなりました。

 

 この歩兵第28連隊ですが、日中戦争をはじめ、第二次世界大戦の重要な場面において、部隊名が登場します。

 歩兵第28連隊は、明治32年(1899年)、月寒にて創始され、その後、旭川に転営となります。
 明治37年(1904年)には日露戦争に従軍。
 また大正4年(1915年)には、苫前で起こった日本史上最大の熊による獣害事件である「三毛別熊事件」の討伐隊として派兵されます。

 その後は満州に派遣されたり、シベリア出兵に参加したり、と北海道を離れて各地で活動します。

 昭和7年(1932年)に満州事変に参加、昭和14年(1939年)にはモンゴルと満州国の国境紛争(実質的には両国の後ろ盾である、ソ連軍と日本軍による戦闘)であるいわゆる「ノモンハン事件」の戦闘に参加し、連隊は壊滅的な被害を受けます。

 

 そして昭和17年(1942年)の8月16日、28連隊の一部から編成された一木支隊がガダルカナル島に上陸します。

 

 なお、この支隊を指揮した一木清直陸軍大佐も、戦争史の重要な場面で名前が出てきます。

 一木大佐は1892年10月16日、静岡県で生まれました。

 大正5年(1916年)に陸軍士官学校を卒業した一木大佐はその後、中国北東部に駐屯する支那駐屯歩兵第1連隊 第3大隊長となり、中国に赴任します。
 

 そして昭和12年(1937年)7月7日、日中戦争の引き金となる盧溝橋事件に関与します。
 この事件の詳細は、この場では述べません。
 一木大佐(この時点では少佐)は、攻撃を命令できる立場にあったようです。
 上官の牟田口廉也連隊長から中国軍陣地への発砲命令を受けた際に「本当に発砲しろという命令ですね」と確認をしています。
 当時、この地域において、日本軍と中国の国民革命軍第29軍との間で、緊張が極度に高まっていました。

 一木少佐も、発砲命令を実行した後にどのような情勢になるか、十分承知していたようです。すなわち、これを機会としての日本と中国の全面戦争の可能性を。

 ある意味、日中戦争が始まる端緒となった命令を行った人物、と言えます。(もちろん、一木氏が独断で判断できたわけではなく、上官の命令にしたがった結果、であります。)

 

 

 さて、その一木大佐に率いられた一木支隊2300名はガダルカナル島に上陸します。

 しかし、実際には1000名に満たない人数だった、とのことです。(正確な人数はわかりませんでした) 

 現地に到着後、部隊は錯綜する情報や、明らかに間違った情報などに振り回されたために劣勢を続け、また無謀な作戦行動などもあり追い詰められていきます。そして8月21日午後、一木支隊はついに壊滅しました。

 アメリカ軍の攻撃は徹底しており、「海岸で波打ち際に追い詰められた兵士は執拗な包囲射撃によりことごとく殲滅された。」とのこと。
 この戦闘で、一木大佐も戦死します。

 

 

 その戦闘の最中の8月20日の深夜、ガダルカナルからはるかに離れた旭川の第7師団兵営前にて衛兵が、乗馬した将校を先頭とした部隊が近づいてくるのを目撃したそうです。

 

 衛兵は衛兵所に部隊が帰隊したことを知らせる意味で「整列」と令し、その部隊の帰隊を待っていましたが、部隊はいつの間にか消えていたそうです。「これを連隊副官に報告したところ、「貴様は何を見ておるか!」と一喝された」とのこと。

 翌日の21日の夜、今度は別の衛兵が同じ部隊を目撃し、同じように待って、やはり消えてしまった、と連隊副官に報告。「貴様たちもか!」と怒鳴られたとのこと。

 しかし、この夜は空き兵舎に旭川中学の学生が軍事訓練で宿泊していました。
徹夜の学生立哨一名が深夜12時頃、兵舎前に部隊が現れたため、おどろいて担任教師に報告しました。教師も驚き、走って駆けつけたものの、その時には誰もいませんでした。翌朝、この件を例の連隊副官に報告したとき、副官はもう何もいいませんでした。副官も、何かを察したようでした。

 

 ちょうどその日は一木支隊のほとんどが戦死した日でした。

 

 一木支隊のその後ですが、生きのこった兵が命からがら最初の上陸地点に着いた時、残っていたのは916名中126名。対する米兵の死者数は40名程度。

 

 その時生きのこった増子勇氏は、負傷しながら7日間もジャングルの中を彷徨ったそうです。

 飢えに苦しんだときに見えた幻は、懐かしい旭川の街並みだったとのこと。

 「故郷では、お盆もはや終わり、秋の実りを待つばかり。水田も畑も希望に膨らんでいることだろう。」

 「わがまぶたに焼きつきて片時もはなれず、焦がるること渇水に泉を得たる如く、ぬばたまの闇に貧灯を見定めたるによく似たり。ふるさと旭川よ。山よ、川よ、草よ」

 

 北海道から遠く離れた南方の、灼熱のガダルカナルで心を占めたのは故郷、旭川の情景だったようです。そして、旭川に帰ることだけを一心に念じていたとのこと。

 相次ぐ深夜の「幽霊部隊」の帰還は、そんなガダルカナルの兵士の気持ちが現れたのかもしれません。

 

 これにて、祖父が語っていた「心霊話」の一つが完結しました。

 決して怖いお話ではありませんでした。今年の8月20、21日、遠いガダルカナルより、帰還する部隊の姿をみることができるかもしれませんね

 

 

 

 

 以上です。

 

 日本各地には、上のような戦争にまつわる「おとぎ話」もたくさんあるかと思います。政治的な意図とは別に、伝承されても良いと思います。