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旭川に帰還した幽霊部隊

 今回の記事は、以前から今年のお盆に掲載しようと考えていたものです。

 以前に本業のブログで掲載したのですが、自主判断で取りやめました。

 

 内容が終戦に関するものでしたので。

 

 戦争を賛美するつもりはなく、当然ですが絶対に反対です。

 記事の内容は、自分が幼少の頃、お盆に帰省した際に祖父から聞かされていた話でした。

 

 ただ、戦争に対しては他人によって様々な考えがあり、読む人の感覚で色分けされてしまう恐れもありました。

 自分の職業柄、例え管理人個人の考えだとしても、その職業全体の考えと思われてしまう可能性がありました。当然、自分と違う考えの同職の方もおられます。

 なので個人的なブログを作ったら掲載しよう、と考えていました。

 

 
 読んでいただく前にご注意いただきたいのですが、今回の内容は政治的意図はありません。戦争に関する地方に残る「お話し」の一つとして受け取っていただけたら幸いです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いよいよお盆。

この時期、親戚一同が地方の実家・生家に帰郷してお墓参りなどして過ごすことも多いかと思います。

管理人も幼少のころ、この時期を田舎の祖父母宅にてよく過ごしていました。

田舎の夜はなかなか寝苦しいですよね。蚊もブンブン音を立てて飛んでいるし。
そんな中で祖父は「お盆だから」と、心霊話をしていました。といっても同じ話が多いんですけど。

その「何度も聞かされた」怖い話の中に、「幽霊の行進」のお話がありました。

それは「戦中のある街の基地近くで、深夜、靴音が聞こえた。基地にいた兵士が見てみると、軍服を着た一隊が、整然と行軍しながら帰還しようとしている。しかしその部隊は、忽然と消えてしまった。翌日、その部隊は南方の戦地にて、全滅していたという知らせが入った」というお話。

 小学校低学年の時にこの話を聞き、怖かった記憶があります。

 

 その後、ファミコンに没頭するようになって、すっかり忘れてしまい、何年も過ぎました。

 

しかし、社会人になってから思わぬところで唐突にこの話を思い出しました。

 

 旭川にて勤務していた時、ご高齢の方から類似のお話を伺いました。不意にそのお話を聞いた時、小さい頃の祖父の怪談話を思い出しました。

 その話は一人ではなく、複数の方に伺いました。どうやらそのお話に出てくる基地というのは、旭川にあった日本陸軍第7師団の基地だとのこと。

 おいおい、本当の話だったのかよ、と調べてみました。以下、ネットなどの情報をもとにしています。問題あればご連絡ください。

 

 

 日本の敗勢が色濃くなってきた昭和17年(1942年)8月7日、日本軍はガダルカナル島を巡って、アメリカ軍との戦闘に突入しました。

 戦況はアメリカ軍の優位に展開、日本陸軍は形勢挽回を期して戦力を増強、旭川に駐屯していた陸軍第7師団 歩兵第28連隊も、その一部からなる支隊が編成されることとなり、陸軍の一木清直大佐が指揮を執ることとなりました。

 

 この歩兵第28連隊ですが、日中戦争をはじめ、第二次世界大戦の重要な場面において、部隊名が登場します。

 歩兵第28連隊は、明治32年(1899年)、月寒にて創始され、その後、旭川に転営となります。
 明治37年(1904年)には日露戦争に従軍。
 また大正4年(1915年)には、苫前で起こった日本史上最大の熊による獣害事件である「三毛別熊事件」の討伐隊として派兵されます。

 その後は満州に派遣されたり、シベリア出兵に参加したり、と北海道を離れて各地で活動します。

 昭和7年(1932年)に満州事変に参加、昭和14年(1939年)にはモンゴルと満州国の国境紛争(実質的には両国の後ろ盾である、ソ連軍と日本軍による戦闘)であるいわゆる「ノモンハン事件」の戦闘に参加し、連隊は壊滅的な被害を受けます。

 

 そして昭和17年(1942年)の8月16日、28連隊の一部から編成された一木支隊がガダルカナル島に上陸します。

 

 なお、この支隊を指揮した一木清直陸軍大佐も、戦争史の重要な場面で名前が出てきます。

 一木大佐は1892年10月16日、静岡県で生まれました。

 大正5年(1916年)に陸軍士官学校を卒業した一木大佐はその後、中国北東部に駐屯する支那駐屯歩兵第1連隊 第3大隊長となり、中国に赴任します。
 

 そして昭和12年(1937年)7月7日、日中戦争の引き金となる盧溝橋事件に関与します。
 この事件の詳細は、この場では述べません。
 一木大佐(この時点では少佐)は、攻撃を命令できる立場にあったようです。
 上官の牟田口廉也連隊長から中国軍陣地への発砲命令を受けた際に「本当に発砲しろという命令ですね」と確認をしています。
 当時、この地域において、日本軍と中国の国民革命軍第29軍との間で、緊張が極度に高まっていました。

 一木少佐も、発砲命令を実行した後にどのような情勢になるか、十分承知していたようです。すなわち、これを機会としての日本と中国の全面戦争の可能性を。

 ある意味、日中戦争が始まる端緒となった命令を行った人物、と言えます。(もちろん、一木氏が独断で判断できたわけではなく、上官の命令にしたがった結果、であります。)

 

 

 さて、その一木大佐に率いられた一木支隊2300名はガダルカナル島に上陸します。

 しかし、実際には1000名に満たない人数だった、とのことです。(正確な人数はわかりませんでした) 

 現地に到着後、部隊は錯綜する情報や、明らかに間違った情報などに振り回されたために劣勢を続け、また無謀な作戦行動などもあり追い詰められていきます。そして8月21日午後、一木支隊はついに壊滅しました。

 アメリカ軍の攻撃は徹底しており、「海岸で波打ち際に追い詰められた兵士は執拗な包囲射撃によりことごとく殲滅された。」とのこと。
 この戦闘で、一木大佐も戦死します。

 

 

 その戦闘の最中の8月20日の深夜、ガダルカナルからはるかに離れた旭川の第7師団兵営前にて衛兵が、乗馬した将校を先頭とした部隊が近づいてくるのを目撃したそうです。

 

 衛兵は衛兵所に部隊が帰隊したことを知らせる意味で「整列」と令し、その部隊の帰隊を待っていましたが、部隊はいつの間にか消えていたそうです。「これを連隊副官に報告したところ、「貴様は何を見ておるか!」と一喝された」とのこと。

 翌日の21日の夜、今度は別の衛兵が同じ部隊を目撃し、同じように待って、やはり消えてしまった、と連隊副官に報告。「貴様たちもか!」と怒鳴られたとのこと。

 しかし、この夜は空き兵舎に旭川中学の学生が軍事訓練で宿泊していました。
徹夜の学生立哨一名が深夜12時頃、兵舎前に部隊が現れたため、おどろいて担任教師に報告しました。教師も驚き、走って駆けつけたものの、その時には誰もいませんでした。翌朝、この件を例の連隊副官に報告したとき、副官はもう何もいいませんでした。副官も、何かを察したようでした。

 

 ちょうどその日は一木支隊のほとんどが戦死した日でした。

 

 一木支隊のその後ですが、生きのこった兵が命からがら最初の上陸地点に着いた時、残っていたのは916名中126名。対する米兵の死者数は40名程度。

 

 その時生きのこった増子勇氏は、負傷しながら7日間もジャングルの中を彷徨ったそうです。

 飢えに苦しんだときに見えた幻は、懐かしい旭川の街並みだったとのこと。

 「故郷では、お盆もはや終わり、秋の実りを待つばかり。水田も畑も希望に膨らんでいることだろう。」

 「わがまぶたに焼きつきて片時もはなれず、焦がるること渇水に泉を得たる如く、ぬばたまの闇に貧灯を見定めたるによく似たり。ふるさと旭川よ。山よ、川よ、草よ」

 

 北海道から遠く離れた南方の、灼熱のガダルカナルで心を占めたのは故郷、旭川の情景だったようです。そして、旭川に帰ることだけを一心に念じていたとのこと。

 相次ぐ深夜の「幽霊部隊」の帰還は、そんなガダルカナルの兵士の気持ちが現れたのかもしれません。

 

 これにて、祖父が語っていた「心霊話」の一つが完結しました。

 決して怖いお話ではありませんでした。今年の8月20、21日、遠いガダルカナルより、帰還する部隊の姿をみることができるかもしれませんね

 

 

 

 

 以上です。

 

 日本各地には、上のような戦争にまつわる「おとぎ話」もたくさんあるかと思います。政治的な意図とは別に、伝承されても良いと思います。