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頼朝と政子の遺産 その3

さて、いよいよ鎌倉幕府がスタートしました。

 しかし、当初の幕府の体制は安定しません。将軍への就任により名分は得たものの、実態は有力武力集団の寄せ集め。強大な江戸幕府の存在を知っている現代のわれわれにとって「幕府」という言葉は威厳を持っていますが、当時はまだ前例の無い組織。

 頼朝には「幕府」に現実的な権威を持たせる作業が残っていました。

 
 しかし、頼みの頼朝は、早期に亡くなってしまいます。

 

 そして、彼の息子、源頼家が将軍に就任するものの、頼朝と言う屈指のカリスマを失くした幕府内部では対立が激化。
 

 頼家は幕府の実権を握るべく、彼に親しい人物を要職につけようとするものの、幕府成立から関わる譜代の豪族はそれを快く思わず、若い頼家を軽んじており、それが幕府に不協和音をもたらしていました。

 ついには北条氏を中心とした有力御家人による合議制が確立、源氏から政治の実権が離れ始めます。

 その後、北条氏の台頭を快く思わない御家人の反乱が相次ぎますが、北条時政、義時、そして政子らがそれらを治め、幕府内での北条氏の地位を確立していきます。

 (ちなみに「鎌倉殿の13人」の初回に出てきた人物の大半と、後に対立することになります。)

 

 これらの反乱は、北条氏、特に北条義時が危険視する勢力を挑発して挙兵させた面があり、こうした北条氏、それも執権を代々継承する得宗家による「仕掛けられた反乱劇」、そしてそれを治めて基盤を盤石にする、という図式は、鎌倉時代を通して起こりました。

 

 ここで、「北条氏がなぜ、実権を握ることができたのか?」という問いに応えなければなりません。

 

 北条時政は、娘の政子を頼朝に嫁がせて以来、事実上、源氏の家宰(執事のようなニュアンス)を取り仕切るようになり、源氏の家宰からそれが「将軍家」の家宰に転じ、将軍家を取り仕切ることで幕府をも取り仕切る図式が出来上がります。

 しかし、家宰という立場上、幕府内では源氏の一家臣と認識をされてします。あくまでも「源氏」に忠誠を誓った有力御家人にとっては北条氏が御家人と対等、もしくはそれ以上の存在になることを受け入れられず、これも初期の鎌倉幕府の不安定要素となりました。

 「鎌倉殿の13人」の初回に登場した人物たちも、源頼朝、そして源氏一族に忠誠を誓ったのであって、北条氏の下風についたわけではありません。

 

 そのため、頼家を遠ざけた後もすぐに北条氏が幕府を仕切ったのではなく、あくまでも有力御家人による合議制を取る必要がありました。

 

 北条義時が北条氏の家督を継いだ時、義時と政子の立場は揺れ動いていたのでした。

 

 ちなみにこの図式は鎌倉時代末期にも再び現れます。

 鎌倉時代末期、執権を継承する北条氏の得宗家を取り仕切る「家宰」である御内人と呼ばれる人たちが台頭します。

 つまり、将軍家の家宰として将軍家を牛耳る北条得宗家の家宰を牛耳る御内人、という図式。

 こうして、源氏の家臣であった北条得宗家の、さらにその家臣たちである御内人により、鎌倉幕府の中枢は握られてしまいます。

 このころの鎌倉幕府御家人たちは、将軍にかわり、北条家に忠誠を誓うようになっていましたが、さすがに北条家の家臣である御内人に従うことができずに不満がたまり、ついには源氏の棟梁である足利尊氏や、新田義貞と言った御家人が挙兵し、幕府を滅ぼしてしまいます。

 

 

 話がすごーくそれてしまいましたが、鎌倉幕府の黎明期において、北条義時と政子は相次ぐ内紛に勝利して有力御家人たちを滅ぼしてゆき、幕府実権を握って北条氏の優位を固めます。(なんなら親父である時政さえ追放しちゃいます)

 

 鶴岡八幡宮入口の長い階段の脇にある大木(数年前に落雷で倒れてしまった)には伝説があり、幕府の式典のために姿を現した第三代将軍、源実朝が、この大木の陰に隠れていた源氏の血を引く公暁という人物に暗殺されてしまいます。実際に実朝は暗殺されたのですが、この式典には北条義時など、北条氏の有力人物があらかじめ欠席していました。

 

 こうして幕府内での北条氏の地位を固めたものの、大きな問題も発生しました。源実朝の死により、源氏の血統が途絶えてしまったのです。つまり将軍になる血筋が絶えてしまった。

 

 ここにおいて「将軍」を失った鎌倉幕府は再び大義名分を失い、単なる地方勢力になってしまいました。

 

 そう、この時点で「鎌倉幕府」なる組織は、一度、歴史から消えてしまったのです!!

 

 

 この危機に際し、北条政子はいかなる手腕を発揮するのでしょうか?