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聖徳太子の外交方針

 今回のお話しは飛鳥時代

 

 聖徳太子が隋の煬帝にしたためた国書に関するお話です。

 

「日いづる国の天子 書を 日没する処の天子に致す 恙なきや」

 

 で有名なあの国書です。

 

 この国書については、自分の国を「日が昇るところ」とし、大国である隋が「日が沈むところ」としたことが失礼で煬帝を怒らせた、と(管理人世代では)教わったと思いますが、この国書で最も「非礼」にあたるのは「天子」の箇所。

 

 「天子」とは、東洋においては「君主」とか「最高位」などの意味があり、中国では「皇帝」の別称として使用されていました。日本でも大王や天皇の別称として利用されていました。

 

 これだけなら一見、「日本の天子」から「中国の天子」に国書を送るよ~、という文章で問題なさそうに見えますね。

 日本の総理大臣からアメリカ大統領へ送るようなもの。

 現代なら、「現実問題」は別として、一応、ミクロネシアの大統領もアメリカの大統領も、「国を代表する元首」である以上は、どっちが上、とかはなく、対等の立場とされます。

 現代の視点で見れば、「日本の天子」が「中国の天子」に送る、という書き方は問題がないかもしれない。

 

 しかし、この書物を書いた聖徳太子の生きた飛鳥時代は、対等ではありませんでした。

 

 当時の東アジアの国際秩序は、中国王朝を中心とした「柵封関係」を基調としていました。

  

 柵封関係とは、中国王朝の皇帝が各国の長を「王」や「公」などの位に任命する、という外交関係のこと。

 中国の皇帝が各国の長を「任命する」だけに、中国の皇帝の方が「偉い」もしくは「君主」という立場になり、任命された側は「臣下」もしくは「属国」となります。

 

 当時の東アジアは、政治制度、文化、軍事、農業生産などの全てにおいて中国王朝の国力が圧倒しており、各地域の王朝は「朝貢」することで中国と関係をもっていたのでした。

 すなわち、当時の東アジアの国際秩序は、現代のようなものではなく、中国を中心とした序列によって規定されていたのでした。

 

 各国の長も、自国内での権力争いで優位になるために中国王朝の権威を利用しようとしていました。中国の「後ろ盾」を得ることで、政争を優位に進めようとしていました。

 さらにはその地域の領土争いに有利にするためにも、「柵封」を利用した地域もあります。最も激しかったのが朝鮮半島で、高句麗新羅百済などの「三国時代」はそれぞれが個別に中国に朝貢し、ある時は自国の領土拡大の名分に利用しようとし、ある時は侵略によって危機に瀕する自国を守るために中国王朝のバックボーンを求めていました。

 そして、飛鳥時代以前の日本の「大王」たちも、柵封関係を利用していました。

 朝鮮半島へも勢力を伸ばし始めた日本は、半島南部に「任那」という勢力圏を築きますが、これを足掛かりに朝鮮半島の領有を意識したらしく、中国王朝に対し、朝鮮半島全域の将軍職を求めるなどの外交交渉を行っていました。

 中国王朝から朝鮮半島領有の大義名分を得ようとしていた、と。

 

 これに対し、高句麗新羅百済などの朝鮮諸国は激しく反発し、朝鮮半島を巡って三国、日本はそれぞれ中国王朝への交渉を競っていました。

 

 なお、日本の「大王」は、壬申の乱に勝利して大海人皇子が権力を強固にして以降、「天皇」と呼称されるようになっていきます。

 

 また、柵封を受けることで中国から「属国」とされたといっても、それはあくまでも外交上の形式のもの。

 北方の騎馬民族も中国歴代王朝と柵封関係を結びますが、これはどちらかというと強力な騎馬民族の侵攻に脅かされた中国王朝が、過大な条件を受け入れる代わりに平和条約を結ぶときに、中国王朝を「主君」もしくは「兄」とし、騎馬民族の王を「家臣」もしくは「弟」としただけのこと。

 結局、当時の東アジアには柵封関係しか外交のフォーマットがなく、中国王朝が他国と条約を結ぶ際は、自分たちを格上と呼称する以外に表現方法がなかったため、一見すると中国が上の立場の外交表現とされただけ。

 実際の内容は、中国王朝が毎年、騎馬民族にお金や物資を「施す」(差し出す、を言い換えただけ)かわりに、騎馬民族は中国王朝の領土に攻め込まないよ、というもの。

 

 中国史も勉強したけど、中国の歴代王朝は、北方の騎馬民族に対し、負けてばかりいる。もっと強いイメージがあったのだけどね。しかも北方騎馬民族が中国王朝を滅ぼして、中華で自ら王朝を樹立すると、また北方から攻めてきた騎馬民族を相手に屈辱的な条約を結ぶ、を繰り返しているのです。

 なおこれは北方だけでなく、南部のチベットなども同様。「南夷」とされた南部の民族も中国王朝への侵攻を繰り返していました。

 

 中国を中心に歴史を見ると、実は中国王朝は四方八方に怯えてもいたことがわかります。

 

 

 長くなったけど、このように当時の東アジアでは、それが建前であったとしても、中国を「頂点」とした外交関係が成立していたのでした。

 

 

 そんな中、聖徳太子は「建前」などをすっ飛ばして、自国の推古天皇と隋の煬帝を同じ「天子」と表現してしまった!!(なお、この時はまだ「天皇」と言う称号ではなかった)

 

 同等に扱われたことに対し、煬帝は激怒したのでした。

 

 

 じゃあ、ですね、聖徳太子は当時の東アジアの情勢を知らずに、こんな失礼な国書を送りつけたのでしょうか?

 

 ここで、もし隋が日本に侵攻したら、という仮定で見てみましょう。

 

 もし隋が日本に侵攻する場合、2つのルートが考えられます。

 

 まず誰もが想像するのが、朝鮮半島を経由して九州に上陸して日本に侵攻する、というもの。実際に元王朝はこのルートで日本に攻めてきました。

 

 この朝鮮半島ルートは陸続きのため、大量の兵士を日本に動員することができます。(実際にはそんなに簡単ではないけどね)

 

 しかし、当時の朝鮮半島は上で述べたように高句麗新羅百済などの国々がひしめいており、彼らは中国を「主君」とするものの、自国への兵の侵入は許そうとしません。

 しかもその内の一つである高句麗は、隋に反抗的な姿勢をとり、ついには隋と高句麗との間で戦争が勃発します。

 

 この高句麗との戦争は長期化、泥沼化し、隋は消耗戦へと引きずり込まれる結果となり、ついには隋の国力低下を招いて隋の滅亡要因にまでなってしまいます。

 

 つまり、半島経由の日本侵攻は不可能な状況でした。

 

 

 ではもう一つの南シナ海から航路で琉球を経由し、九州に兵を送るというルートは?

 このルートは古くから、日本と中国との交易ルートとはなっていたものの、想像の通り、あの長い航路を使って大量の兵士をおくるために、どれだけの用意をしなければならないか。

 当時も兵士を船で大量に輸送することは行われていたそうです。

 中国の三国時代に、呉の孫権は、遼東の公孫氏に船で兵士を送って、魏を挟み撃ちしようとした記録があります。結局、兵士だけをとられて孫権は激怒したらしいけど。

 

 ただ、これもそれまでに日常的に利用されていた航路を使用り、陸続きで行われたためにできたこと。

 

 東シナ海という大海を、大量の兵士を乗せた船が渡るのは困難と思われます。

 

 

 

 以上から、小野妹子一行が隋に到着したときには、隋の日本侵攻は、実質的に不可能な状況だったのです。

 

 そして聖徳太子は隋の現状を、見透かしていたのでした。

 

その上で、非礼とも受け取られかねない強気な国書を、隋に送ったのでした。

 

 隋の側も、高句麗が日本と手をむすぶことを恐れ、日本との対立は避けなければなりませんでした。

 

 

 聖徳太子の側にも事情がありました。国内では蘇我氏が台頭しはじめ、天皇の権威に脅威を与え始めていました。当時の大和王権は有力豪族の連合政権の意味合いが強く、必ずしも大王が強力な権威を持っていたわけではありません。

 反抗的な豪族を抑えて大王権力を優位にするためにも、隋と対等の外交関係を結ぶ必要があったのでした。

 

 (なお、蘇我氏はこの後、イツシの変で滅ぼされます。)

 

 

 結局、煬帝は国書を受け取り、答礼の使者を送ります。

 

 

 で、この時に煬帝は日本を批判した国書を出した、とか、答礼の使者はそれを渡さなかった、などの話が語られていますが、結局は、日本はこれをきっかけに、「柵封関係」から離脱することになります。

 

 

 これはとても大事なことです。

 

 東アジアで唯一、日本だけが柵封関係を離れ、中国王朝と対等な立場となったのでした。

 

 

 これは古代のはなしだけでは済まないんですよ。

 

 中国政府は現在、ウイグルチベットを「実効支配」していますが、歴史上、中国王朝がこれらの土地を実際に領有した事実はないのです。

 中国政府は過去の「柵封関係」をもとに、これらの地域の領有を正当化しているのです。

 この中国政府の姿勢は朝鮮半島にも向けられ、朝鮮諸国も中国領だった、と言い始めて韓国と問題にもなりました。

 

 しかし日本は、聖徳太子の国書のおかげで、中国の無理筋な「根拠」を与えていないのです。

 

 そう考えると、21世紀を生きる日本人も、聖徳太子の国書で守られている、と言えます。

 

 

 

 追記

 

 この後、遣隋使や遣唐使が送られますが、これは柵封関係に基づくものではありません。

 後に日本は中国を、仏教上の「上の者」を指す称号で呼ぶことで、形だけは中国を「格上」としています。しかし実際の外交関係は結んでいません。

 

 これが日本と中国王朝の「落としどころ」でした。

 

 中国王朝としてもメンツは保たなければならない。

 日本は呼称だけ「格上」と認めるだけで、実際の公式関係は結ばない。

 

 中国は「名」をとり、日本は「実」をとった、というところでしょうか。