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アーセン・ベンゲル「勝者のヴィジョン」その2

 

続きです。

 

 

 ベンゲル氏は名古屋グランパスエイトの指揮を執り、2年間の日本滞在の後に欧州のアーセナルの監督に就任します。

 

 しかし、日本での経験はベンゲル監督に様々ななものを残したらしく、また、どの欧州のサッカー関係者よりも日本への想いを強く持つようになったようです。

 その一環として、彼は98年の前半に、当時名古屋グランパスエイトに所属していた福田健二古賀正紘、両選手を、アーセナルに研修生として招待しました。

 

 

 「98年の前半には名古屋グランパスエイト福田健二古賀正紘を研修生として迎え入れた。短い期間であったが、彼らにとって収穫は大きかったのではないかと思う。
レーニングとはいえ、ベルカンプやアダムズといった選手と対抗することで得られるものは多い。どんな職業であれ、トップクラスの人と接する機会はめったにないチャンスだろう。それによって自信もついていく。そもそも自分より優秀な選手とのトレーニングは、それ自体進歩を早めるものだ。」

 

 

 彼はこの後、ワールドカップについて述べたところでも、アジアなどの弱小地域からでも出場できる道を残すべきだ、と強調しています。
それによって、それらの「後進地域」が、世界のトップクラスと対戦する機会を得て、その経験が、その地域に後に大きな影響を及ぼす、と。

 

 そして話はワールドカップへと移っていきます。

 

 彼はフランスワールドカップの際の日本代表について述べています。

 

 「大会前、私は日本がどんなチームか聞かれると、「よく組織されたスピーディーなサッカーをする。それを目の当たりにしたらあなた方は驚くだろう」と答えていた。
日本の選手には、けっして大きくはないが活発で、敏捷性に優れているという肉体的な特長がある。スピーディーで技術の裏付けがあり、良く動き回るそのプレースタイルのなかには、スペクタクル性も感じられる。ワールドカップでは、ゲームの展開を楽しませてくれる、心地よいサッカーを見せつけることができるのではないかと考えたのだ。
個々の選手に敵を圧倒する力があるわけではないが、チームには規律が浸透しており、誰もがチームプレーに徹しているのもその特長のひとつだ。個人を全面に押し出すのが当たり前のヨーロッパにあっては、これも新鮮に映るに違いない。
 

 私は代表チームには自分たちの長所を生かした、すなわちその国のサッカーのアイデンティティーを感じさせるプレースタイルをとるべきだと思っており、日本代表にはそれが可能だと考えていた。
 結論からいえば私の予想は当たり、日本はワールドカップを通じて、そのサッカーの魅力をヨーロッパのサッカーファンに伝えることができた。」

 

 

 

 彼はフランス大会においての日本代表について述べた後、試合結果についても触れ、その上で以下のように話しています。

 

 

 「しかし私は結果よりもプレーの内容を重視すべきだと考えている。その結果ではなく内容をもってして、世界には少なからず日本サッカーの理解者が生まれた。それがなければ、たとえば中田がペルージャにスカウトされることもなかったはずだ。
それに若い選手たちはワールドカップへの参加により、これ以上ない大きな国際大会を経験したことになる。このことも日本のサッカーの未来、特に2002年のワールドカップにはプラスになる。
 私はいたずらに今回のチームをネガティブにとらえるべきではないと思っている。日本にとってフランスワールドカップは成功だった」

 

 

 

 あのフランス大会後、多くの日本人が世界との大きな実力差を思い知らされ、失意の底に沈んでいた時、日本と世界のサッカーをよく知るベンゲル監督だけは、日本の成功を確信していたのがわかります。

 彼はどんな内容からも、たとえ負けた試合からでもなんらかの「成果」を見出すことに長けているようです。

 しかし、その「成果」も、精一杯、戦ったから得られたのであり、何もせずにただ負けたのであれば、ベンゲル監督に「成功」と言わしめることはできなかったかもしれません。そしてその言葉通り、この大会で注目された中田選手がイタリアに移籍し、ヨーロッパでも名が知られた選手へと成長していきます。こう考えると、負け戦でも、死力を尽くす価値はある、と実感できますね。

 

 

 一方でベンゲル監督は、日本の「成功」を確信しながらも、将来への危惧も、同時に感じていました。

 

 「さらに言えば、現代サッカーで個人がプレーの向上を図るためには、国際大会や他国のリーグを経験し、自分を試すことが必要不可欠になりつつある。この点で日本人が不利なのは、4年に一度のワールドカップを除けば、代表チームにしろクラブチームにしろ、本当の厳しい国際大会には巡り会えないことだ。
(中略)
 私は日本にいたころ以上に、日本の選手が海外に出ていく必要性と必然性が高まっているように思う。日本にいては海外の一流選手との交流は望むべくもなくなってしまったし、日本人は相変わらず他国の人に見られない、サッカーに対してのコンプレックスに悩まされている。」

 

 

 ここで象徴的な言葉が出てきましたね。

 

 「日本人は相変わらず他国の人に見られない、サッカーに対してのコンプレックスに悩まされている。」

 

 

 これは、サッカーに関わらず、広い分野において多くの外国人が指摘することです。
 それはある意味、日本では「謙虚」とされることではありますが。

 そしてベンゲル監督は、日本のサッカー界に苦言を呈しています。

 

 

 「だがなお私は日本のサッカーについて楽観的な見方をしている。
日本のサッカーの現状を、もう一度客観的に分析していくと、もしサッカーが日本に根付かなければ、それは人的ミスによるという結論に達せざる得ない。日本には1億3000万の人口があり、ポピュラーなプロスポーツは野球しかない。相撲は人気があるが、今やそれは一部に限られている。そこにサッカーが入り込む余地は十分に残っている。
これがもしアメリカのように、競合するプロスポーツが4つも5つもあるなら話は別だ。プロスポーツが多すぎるという理由で、アメリカのサッカーの行方は混沌としている。それにも関わらず日本にサッカーが浸透しなかったとしたら、それはサッカー界の責任者たちが、サッカーの振興に必要な組織の整備もできず、浸透させることができないほど無力だったからだとしかいいようがない。どんな言い訳も絶対に通用しない。すべてを経済不況のせいにしてほしくはない。」

(あくまでも2002年以前の状況。Jリーグ人気の低下が指摘されていた)

 

 

 

 なんとも辛辣な言葉。ちなみに、ベンゲル監督がこの言葉を発した時から、14年の月日が流れています。

 

 そしてトドメとばかりに、次の一言が。

 

 

 

 「泣き言を言っている人たちは、ガラガラの駐車場を前にして「駐車できない」と叫んでいるのに似ている。私ならば、よほど不器用でない限り、駐車できないでいることのほうがよほど難しいのに、と思う。もし本当にそうなったら、それは私個人にとっても受け入れがたい失策というよりほかはない。」

 

 

 なんか、サッカーに限らず、観客動員数の低下に悩んでいるすべての人へ向けられたかのような言葉。

 でも、それは単なる毒舌ではありませんでした。

 

 

 

 「日本のサッカーの価値は、世界に何かをもたらし得ると私は思っている。
 私は日本にいま流れている悲観論に与しない。
確かに根拠のない夢想家の話よりは、出来合いの意見の方が安心感を覚えるし、信頼を得ることは多い。ただ人間の良いところは、歴史的に見ても、そして個人の人生の中でも、良いものはむしろ楽観から生まれているということだ。
すべての夢が実現できるわけではないが、夢見ることがなければ、そこからスタートしなければ何も始まらない。人類は何世紀も前から月に行くことを夢見て、やがてそれは現実になった。」

 

 

 ベンゲル監督の顔貌を見たことがある方も多いと思います。いつも険しい顔をして、なかなか笑った顔を見せない。

 そんなベンゲル監督が、実は、根は楽天家だったとは驚きです。それは表面的に楽天的にふるまう、というのとはタイプが異なり、選手が楽観的になるにはどうすべきか考える、タイプの楽天家であることを教えてくれます。

 

 

 「個人の人生の中でも、良いものはむしろ楽観から生まれているということだ」

 

 

 こりゃあ、連敗しているからって、落ち込んでいる場合じゃないですね。

 なんか思いがけなく長くなってしまっています。続きます。