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聖武天皇と奈良の大仏 その2

 お話の続き

 

 

 時代は下って、奈良時代聖武天皇が即位します。

 

 聖武天皇は非常に仏教に熱心で、かの有名な東大寺の「奈良の大仏」を建立します。   

 この時期、疫病が重なった、という時代背景もあります。

 

 さて、この奈良の大仏様ですが、どの方向を向いているか知ってますか?

 大仏様は正しく南を向いて座っておられます。

 観光客の人たちは、北側を向いて大仏様のご尊顔を拝する形になります。

 

 そして、この「南を向いている」事こそ、実に重大な問題。

 

 当時の中国王朝の「常識」として、「天子、南面ス」というものがあります。

 

 これは中国の王朝の皇帝が、人と対するとき、必ず北を背にして南に向かって対面することを意味しています。

 つまり、「君主」「上の立場の者」は常に、南を向いて「家臣」「下の立場の者」と接し、「家臣」「下の立場の者」は必ず、北向きに主君と対する決まりとなっていました。

 

 そのため古代の都も、この「君子南面ス」を表わす街づくりが行われました。唐の都であり、当時世界最大の都市であった長安も、皇帝の住む宮殿は一番北に置かれ、そこから南と東西方面に街区が広がっています。これは長安を参考にした平城京平安京も同じ。

 

 古代世界において都市は、君主の存在を示していました。

 ちなみにですが、天武天皇の開いた飛鳥の地から平城京へ遷都する前、「藤原京」と呼ばれる都が建設されました。

 藤原京は、朝廷が中国の王朝の都に倣い、狭い飛鳥の都を出て建設した都。広さや人口は平城京とほぼ同じ。日本初の本格的な巨大都市でした。

 しかしこの「藤原京」、大きな欠点がありました。天皇の住まいである宮廷が、なんと都のど真ん中にあったのでした。真ん中に陣取った宮廷を街区が囲む形。これには「君子南面す」の思想が反映されていません。藤原京は、中国における前時代の考えである「周礼」に基づいていましたが、すでに時代遅れでした。

 朝廷は、新しい巨大都市を完成させて、意気揚々と中国へ使節を派遣しますが、そこで使節が目にしたものは、「君子南面す」を体現する街並み。当時の「国際常識」を知り、急いで帰国。

 朝廷は完成したばかりの藤原京を放棄して新しい都を建設することを決定、これにより平城京が作られたのでした。藤原京が使用されたのはわずか16年間でした。

 

 さて、このように「天子南面す」は、その国の支配者を表わし、そして上下の関係を示す重要な考えでした。

 

 そして、奈良の大仏は南を向いている。

 

 天皇が参拝するときに、大仏に対し、北向きに接することになります。

 

 日本古来からの神道の長たる天皇が、仏教を表わす仏像を、君主もしくは「上の立場の者」として接する形になります。

 

 つまり、仏教に対し、神道の長である天皇が「家臣の礼」を取ることになる。

 

 これは天武天皇が位置付けた神道が仏教よりも上、という構図を否定し、仏教権威が神道の上になることを示すことになりかねません。

 建設中から朝廷内部では大問題となりました。

 朝廷の統治哲学を根本から揺るがしかねない恐れがあったのでした。

 しかしそれでも、聖武天皇は建設を続行します。

 

 そして、ついに大仏開眼の日を迎えます。列席者は1万人以上。当時の日本の人口が数百万人と言われていますから、空前の規模の人数が参加したのでした。

 

 大勢の家臣の見守る中、その時点では上皇となっていた聖武天皇は、大仏を北に見ながら対面したのでした。(聖武天皇は、東大寺が完成する前に出家していたらしい。なので厳密には「天皇が大仏に家臣の礼をとった」とは言えない)

 

 この瞬間、日本の歴史は新たな方向に進むこととなります。

 

 これ以降、日本では、それ以前から徐々に進行していた神仏習合が加速し、その違いもあいまいになっていきます。(もちろんこれだけがすべてではありませんが)。

 排除しあう関係ではなく、共存する存在として、どちらも日本の日常風景に自然に溶け込んでいきます。

 明治時代の神仏分離令や戦前の廃仏毀釈などにより、神社とお寺の分離が行われたため、現在では神社、お寺が別々に存在していますが、明治以前では同居することも珍しいことで張りませんでした。

 「神宮寺」という言葉を聞いたことがあると思います。これは、神社の中に設けられたお寺、のことであり、神社の敷地内に寺が建立されることも珍しくありませんでした。

 源頼朝が幕府を開いた鎌倉には、有名な鶴岡八幡宮がありますが、ここにも以前は神宮寺があり、僧職と神官が同居してた、とのこと。

 

 派手な合戦シーンもありません。ドロドロの政治劇もありません。しかし、聖武上皇が南を背にして北の大仏と相対した時、日本史は大きく変わったのでした。

 そしてこのことは、冒頭にご紹介した親類宅の例にあるように、異なる神でもありがたく思ってしまう、日本独特の「信仰の混在」文化を生んだのではないかと思います。

 

 年末の風景。クリスマスにケーキを食べて鶏の丸焼きにかじりつき、「メリークリスマス!」と快哉する。大みそかにはお寺の除夜の鐘を聞きながら年越しそばを食べ、お正月には神社へ初もうでに出かける。他の国ではおよそ考えられないタブーを、違和感無くおこなっていますね。

 この日本の宗教的なおおらかさは、古代の神仏習合から育まれたのではないでしょうか?

 繰り返しますが、現代においても、宗教的な問題を背景とした紛争が絶えませんし、ヨーロッパの歴史は、キリスト対イスラム、の構図が色濃く見出せます。この点においても、その種の問題が起こらない日本は、世界史とは異なるのかもしれません。

 そう考えると、それを加速させた聖武天皇と大仏の対面は、「幕府創設」と並び、今の日本の文化に大きな影響を残したと言えるのかもしれませんね。

 バレンタインチョコを、宗教的な理由抜きに、気にすることが出来るのは、聖武天皇のおかげ。

 今度、奈良に旅行した時、大仏様の正面に立って見ようと思います。聖武天皇はその時、一体何を考えていたのでしょうか?

 

 

 

 追記

 

 神仏習合は、自然に混ざり合い、一方では双方の線引きも行われていました。習合の進行度合いも、記事にかいてあるようにスッキリと進んだわけではなく、少しずつ浸透していった感じ。何かの戦があって、勝者によって一気に展開が変わった、というものではありません。

 聖武天皇はあくまでも神仏習合の中の一人の人物と言うのが正解かもしれませんが、大仏の開眼が一つの画期になったのは事実です。

 

 また、記事中、神道を仏教よりも上に位置付けた、とありますが、これは当然ですが古代の日本のことで、現代ではそのような上下関係はありません。