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グラディエーター2を見ました その2

 

 さて、ここから中身について語っていきます。

 

 今回の作品で、強調されていたと思われるのは、前作よりもローマ帝国が衰退しているということ。

 

 前作がローマ帝国の最盛期であった五賢帝時代の直後ということもあってか、ローマ市民の生活にも活気が感じられましたが、今作では、主人公の乗る監車の一行がローマに向かう途中で、多くのホームレスに囲まれるシーンがあります。ローマ市内でもコロッセオのすぐわきで、夜間に焚火を囲んでいるホームレスの様子がうつっていたりする。

 「1」でも、主人公のマキシマスが帝国の辺境から首都ローマに送られてくるシーンがあるのですが、その時は首都ローマの賑わいと娯楽が描かれており、「2」とは正反対。

 

 一方で、皇帝をはじめ上流階級の豪勢な生活の様子も描かれている。

 両皇帝も招いた貴族のパーティーでは、サイの角を少し削って、何かしようとしているしね。

 

 この動画を思い出した人もいるんじゃないの?

 

 Chinese agarwood, meditation, self-cultivation, incense Tao Eastern culture Buddhism

 

 このシリーズの冒頭に出てくる、香木を削ってお香の粉末を集めるシーンです。

 サイの角も粉は何になるのだろうか?

 

 
 とにかく、前作の「暴君」であったコモドゥス帝は、残忍冷酷ではあったけど、酒池肉林に陥る様子は見えませんでした。彼なりに政務にいそしんでいるシーンはあった。

 

 しかし今回は、「上流階級」と「貧困層」が、印象に残る形で描かれています。

 カラカラとゲタの二人は、作中で極端なまでに愚帝とされていますね。

 

 実際、コモドゥス帝の死によって、ローマ帝国は衰退期に入ったともいえるかもしれません。

 

 コモドゥス帝の死後に内戦が起こったから、というのではありません。

 

 ローマの歴史では内戦は珍しくもなく、共和政時代も含めると、たまに内戦が起きたりする。

 しかしそのたびに、内戦を誰かが制して、政治を以前の通りの元に戻す。カエサル元老院の内戦は、「元首政」を賭けた戦いとはなったものの、カエサルは内戦勝利後も元老院を廃止せず、市民生活もなんら変わりなかった。

 そう、混乱が発生するたびに、ローマは恐るべき現状回復力を発揮する。

 

 管理人が特に感心したのは、カエサルから始まる「ユリウス=グラウディウス朝」が途絶えた後に発生した内乱が、ヴェスパシアヌスによって納められ、彼が帝位についた後に皇帝権力も元老院も市民生活も、内乱前の状態に戻したこと。

 内乱を機に皇帝権力を強めた、とか、元老院を滅ぼした、ではなく、まさに原状復帰した。

 

 元首政移行後に元老院は「権威」となり、皇帝に「権力」をゆだねる関係になりますが、皇帝はあくまでも元老院の権威を必要としていた。

 この関係が維持される限り、ストレートに言ってしまえば、皇帝が何人死のうと、元老院がある限り、ローマ帝国自体は続いていくことができる。

 

 これって、日本史でも言えませんかね?

 

 鎌倉幕府室町幕府、豊臣政権、江戸幕府、明治政府。

 様々な権力の実行機関が現れては滅んでいきますが、日本は続いている。

 

 これまたストレートな言い方になりますが、今の日本政府が滅んでも(SFですよ、SF!)、天皇や御皇室がある限り、日本は何度でもやり直せる。

 

 これはイギリスや他の国の王室を持つ国にも言えるのかもしれませんが、権威と権力を持つ国は、長命となるのではないか?と。

 

 ローマ帝国が1000年もの間、存続できたのは、元老院を中心に政体を変え続けたからではないか、と推測しています。

 

 

 話が大幅に逸れましたが、どんなに危機的な状況に陥っても、その都度必ず不思議な力が働き、ローマをあるべき姿に戻してきた驚異の「原状回復力」に変化が現れ始めたのが、コモドゥス帝後の内戦からだったと管理人には思えるのです。

 

 内戦を制したセプティミウス・セヴェルス帝は、軍事偏重に走ったため、このころかた帝国の予算に占める軍事費の割合が増加し始めました。

 軍事費の増加は、決して蛮族の過激化だけが原因ではなかったのです。ローマ内部での権力の変遷も理由の一つだったのです。

 

 そしてカラカラ帝、ゲタ帝の死後、「危機の三世紀」を迎えます。

 

 危機の三世紀において、ローマ帝国は内戦を繰り返し、政治の不安定が常態化してしまい、疲弊してしまう。

 

  蛮族が着実に勢力を増していた時期に、ローマはその国力を外部に向けるのではなく、内部に向けて消耗してしまうのです。

 

 この長期の混乱の結果、戦費が増大して市民生活は破綻し、失職者が急増し、治安も悪化。通貨価値は急激に悪化して豪勢を誇った経済力が低下します。社会不安の高まりは旧来の信仰の神の無力さを実感させ、キリスト教などの新興の宗教が浸透することにもなりました。

 

 以前の記事で、ローマの滅亡要因について述べましたが、ローマ帝国は急に滅んだのではありません。

 危機の三世紀は、ローマの滅亡を確実に早めたと言えます。

 

 

 グラディエーター2に話を戻しますが、

 前作の冒頭でマルクス・アウレリウス帝は、ローマをあるべき姿にしなければならない、と語っていますが、その願いもむなしく、帝国がアウレリウス帝の危惧する方向、すなわち皇帝権力の強大化に突き進んでいることが、「1」よりも強調されているローマ市民の窮乏によって示されています。

 

 

 

 

 ・・・・・・で、ここからネタバレ度が高くなるので要注意ということで。

 

 

 

 主人公のルキウスは、前作において母ルッチラとマキシマスとの子であることが明らかにされています。

 

 ・・・・・いや、正式な形で明らかになってはいないんですよね。いわゆるDVDの「豪華版」みたいなやつにある「ディレクターズカット」的なもので、そのシーンがあるのです。

 管理人はグラディエーター1が好きで、DVDやブルーレイなども持っているのだけど、確かにそういうシーンも見た気がする。「見た気がする」というのは、ディレクターズカット版があまり好きになれなかったから。「2」なんて予想してなかったので、ルキウスの出自の種明かしなんてされても、キレイなまでのストーリーに余計な要素が足されるだけな気がしまして。

 

 まさかそのシーンを、24年経って使いまわすとは。

 

 「2」の作中で、「1」当時のルキウスとルッチラが出てきますが、CGでもそっくりさんでもありません。

 

  とにかくですね、ルッチラはコモドゥス帝とマキシマスの両名が同時に亡くなったときに、この後、政情が悪化することを予感し、アウレリウス帝の正当な後継者となるルキウスの身が危険にさらされることを危惧して、幼少のルキウスをすぐに帝国外へと移住させます。追い出した、とか、捨てた、のではなく、あくまでもルキウスへの愛情のため。

 しかしルキウスはそれを悪く考えつつ、亡命先で立派な成人となる。

 

 しかも運命のいたずらか、ルキウスの「祖国」を滅ぼしたローマ軍の指揮を執っていたアカシウスは、ルッチラの再婚相手でもあった。なお、この戦闘でルキウスは最愛の妻も失っています。

 

 そして、後にルッチラとアカシウスの武力蜂起が露見したときに、その罰として、ルッチラはコロッセオにて、アカシウスとルキウスとの剣闘試合を見ることを強要される。

 

 愛する夫と愛する息子の殺し合いを、ただ眺めることしかできない。

 

 一方で、ルキウスにとっては妻を殺した将軍と、自分を捨てた母という2つの復讐を果たすことにとらわれている。

 

 「グラディエーター」というタイトルだけあって、前作から「復讐」は全てコロッセオで行われている。民衆の喊声とは裏腹に、そこでは怨念や暗い感情がぶつかりあっている。

 

 何も知らずに見世物を見ている観衆と、実際にその場にいる剣闘士との対比的な心理描写に、前作から今作も監督にやられっぱなしになります。

 

 

 また、もう一人の「主人公」とも言えるマクリヌスですが、史実ではカラカラ帝の後に皇帝になるのですが、作中では怪しげな商人だけど実際にはカラカラ帝の近衛隊長でした。

 

 で、作中のマクリヌスは、コロッセオにて皇帝のすぐ近くに座ることが許されています。

 この場所に座ることが許されるのは、皇帝の縁者か有力者、高貴な家柄の者、もしくは大金持ち。

 マクリヌスはおそらく大金にモノを言わせて皇帝の近くに座ったのでしょう。

 

 このシーンで思い出したのが、エリザベス女王を描いたネットフリックスのドラマ「ザ・クラウン」です。

 

 エリザベス女王は馬への造詣が深く、競馬場で観戦もしていたそうなんですが、誰がエリザベス女王の隣に座るのか、でも色々とあるらしい。

 時には「お金」も関係するらしい。

 ドラマの中では、「成金」であるエジプト人モハメド・アルファイドが高額な費用をはたいて女王の隣の席を「購入」したのですが、実際に隣に座ることになったのは女王ではなくダイアナ妃で、それにがっかりしたモハメドは、息子のドディ・アルファイドに席を譲った。で、ドディとダイアナ妃は親し気に会話し、それが最初の出会いになった、という感じの話になっていました。(もう忘れたことも多いので違ってたらごめんなさい)

 

 まあ、とにかくマクリヌスは皇帝に近づき、あることを行う。

 

 前作のグラディエーターにおいて、マキシマスら剣闘士をまとめていたプロキシモは、自分を奴隷の身分から解放したマルクス・アウレリウスに深い敬愛の念を持っており、純粋にローマで自身の剣闘士団が戦うことを名誉と考えていました。

 マキシマスの復讐心を知ると、彼を助けてもいます。

 

 しかしマクリヌスは違う。最初からある意図をもって皇帝に近づき、その手段として剣闘士やルキウスの復讐心を利用しようとする。

 

 抜け目のない野心家として、親密にもなり、裏切りも平気でする。

 

 前作と比べて単純な復讐劇となっていないのは、様々な復讐が存在し、それを利用しようとする人物がいたりする点。

 

 様々な思惑や復讐心が交錯する中、怨念の漂うコロッセオでは壮大な海戦や、サイやエイリアンもどきの猿との対決などが、民衆の喊声とともに進んでいく。

 コロッセオの外で貧困に苦しむ市民をよそに。

 

 

 果たして復讐の行き着く先は?そしてローマ帝国の未来は?

 

 

 この映画にとっての「ローマ」とは、結局は「闘技場の砂」なのだ。