このブレンビーでの成功以降、日本ではファジイ理論の研究が盛んになり、1990年代において、ファジイ理論では日本が世界の最先端を極めるにまで至った、とのこと。
当時のファジイ理論に関する特許の5分の1は、日本が取得しているそうです。
ファジイ関連に限らず、バブル期の日本は、広い分野で最先端を走っていたので、多くの特許を取得していて、その恩恵を現代も受けているそうです。
そう、令和の日本がなんとか先進国を保っていられるのも、このバブル前後の時期の「特許遺産」のおかげ、ともいえる。
技術が一番の資産なんですね。
なんでこんな記事を書こうかと思ったのか、というと、以下の動画を見ましてね。
宮沢孝幸が怒りの激白!!日本アカデミアの危機!!このままでは衰退の一途!!国よ!大学よ!研究者たちの声を聞け!研究したくてもできない研究者たちを遊ばせるな!! (youtube.com)
まあ、とにかく右も左も、保守も革新も関係なく、まずは見てみてください。そんな「時代遅れの55年体制」なんかを軽く超越した問題が語られている。
宮沢教授については、ワクチンに関しては「どうかなあ」と思うけど、この動画で重要なのはそこではありません。
「選択と集中」が大学で実行された結果、大学の内部で予算獲得のために研究テーマが設定される、という、おかしなことが起こっている、とのこと。
そして宮沢教授は、研究者に自由に研究させてくれ!と訴えています。
見返りとして、必ず「面白いもの」を発表するから、と。
ブレンビーでファジイ理論が脚光を浴びたバブル時代、「日本は基礎研究をアメリカなどに任せ、それを利用してばかりいる」と批判されてきました。
実際、高度経済成長の時代の日本の「モノづくり」の正体も、アメリカで商品化されたものを、いち早く分解・研究して、さらに高機能な形にした上で廉価版にして販売する、というものでしたし。
この辺りの参考資料として、石ノ森章太郎の「マンガ日本経済入門」をお勧めします。
バブル崩壊から証券会社、銀行の倒産が現実となった世相をリアルに教えてくれます。
この「日本はズルイ」という批判を受けて、日本でも大学での研究が活発になったそうですが。
1980年代の「アメリカはスゴイ!」という点は、圧倒的な創造性でした。
これは今も続いているのかもしれないけど。
日本は、アメリカが作った「オリジナル」を後追いする、というのが当時の常識みたいになっていました。
じゃあ、今は?
宮沢教授の話す雰囲気によると、さらにオリジナリティーは失われているように思えますね。
あともう一つ、「選択と集中」の弊害があるとおもいます。
それは、民間が受け身になってしまった、ということ。
何度も繰り返しますが、ブレンビーが登場したころ、アメリカの研究者が発明した基礎研究を、日本の企業が商品化して批判された、のですが、それでも当時は、それが他国の発明であろうと、民間企業がなんとか自分たちの利益にしようと、懸命になっていたのがわかります。
「アンテナを広げていた」というか、俗な言い方をすれば、「どれか金になる研究は無いか」と、世界のどの国よりも血眼になっていた、というか。
今の日本の「民間」は、当時のように血眼になっているでしょうか?
「選択と集中」が叫ばれた際に、マスコミや世間は、「趣味のような研究をやってないで、民間の利益になるような研究をしろ!」と、叫ぶだけ。
自分たちから、「この研究を商品にして、利益を得よう」という発想が、民間から消えちゃいました。
「社会に役立つことは政府に任せて、自分たちはそれを受け取るだけ」といいますか。
そうではなく、宮沢教授のような大学の研究者が考えた、一見すれば日常生活に関係のないものを、日常に合わせて形にするのは、大学の仕事ではなく、民間の仕事なのではないのか?
結局、「失われた30年」の原因は、ガツガツしなくなった民間の側にもあるのではないでしょうか?
今、自民党の総裁選挙が始まっています。
別に自民党の支持者でもないけど、自民党の総裁が、次の総理大臣になる以上、注目せざるを得ません。
「高度人材の育成」などというお題目はよく聞きますが、じゃあ具体的にどうすんの?
また、理系の学部を拡大させていますが、卒業生みんなが研究所などに進めるわけでもありません。
もう一度、技術立国として立ち上がるために必要なのは、まずは「選択と集中」というなの「お上の縛り」を失くすこと。
そして、民間企業に、論文を読むことができて、論文の正しい価値を判断できて、その研究を利益に結びつけよう、という人材を増やすこと。
①論文を読めること
正直言って、学部を卒業しただけで、論文を読めるような学生は何人いるのか?
試験を通るための過去問集めばかりしていては、論文を読みこなすことなどできません。
②論文の価値を理解できること
論文を読めたとしても、その内容の信ぴょう性はどのくらいなのか、奇抜だけど正しいのか、見分ける力も必要。
どこかのメンタル系の人が、よく見つけたねえ、という奇抜な論文を引っ張り出していますが、その論文が正しいかどうかは、その後の実証研究の結果を待たないといけません。簡単に論文に飛びつくのではなく、冷静に評価できる必要があります。
③研究を利益に結びつけようとする意欲
その上で、研究者の趣味のような研究を、どうやったら生かせるのか、応用できること。これも常にアンテナを張っていないとできません。
失われた30年の負の影響を強く感じるのが、若い世代が公共事業や公共施設に「黒字」を求めるようになってしまったこと。
本来の税金の利用目的は、赤字であっても必要なものに使うこと、なのでは?
北海道の鉄道も、路線だけで見ると赤字になりますが、北海道の鉄道を通って輸送された農産物が東京で消費されることで価値が生まれます。
北海道の道の駅などで、地元の農家の方が作ったジャガイモなどが、一袋300円とかで売られていますが、これが東京に輸送されて、レストランなど高級料理に加工されることで付加価値が付き、より高い料理へとなっていきます。
江戸時代、京には造り酒屋が多かったのですが、これは京の周辺でコメがたくさんとれたからではありません。全国から畿内に集まったコメを、より高い商品にして売ろうとした結果。
東京の経済コメンテーターは、この視点が失われている。
北海道の移動で鉄道をやめて、LCCなどの飛行機で行うべき、という人がいますが、それでは鉄道のように、釧路で乗って帯広で降りる、ということができず、ますます札幌や東京への1極集中に拍車がかかってしまいます。
つーか、そんなに赤字が嫌なのなら、北海道や四国、その他の離島などを他国に売却してしまったら?と、皮肉を言いたくなることもある。
同じ人が「国防」を叫んでいるのだから、どっちが優先何だろう。
話がそれましたが、日本が再びかつてのように技術立国になるためには、コミュニケーションだけが秀でた人材だけではなく、研究の価値をわかる人が大事なのではないか、と思う。